(3)
3日後、ついに練習開始の日を迎えた。
本来は部活ごとにオリジナルのジャージがあるらしいのだが、採寸はしたものの、まだ到着はしていない。
しょうがなく学校指定の体操服に着替え、ランニングシューズとスパイクをロッカーの中から取り出す。
ぼろぼろで、色あせてしまった靴袋2つ。中学からの流用だ。まだ両方使えるなと思って持ってきたのだが、先日の手島が持ってきた新品を見ると、俺も新しいのが欲しくなる。
でもなぁ、お年玉が消えるんだよなぁ……。
俺がロッカーの前でうーんと唸っていると、後ろから声をかけられる。
「準備できた?」
「おう、
「そろそろ時間やで、行こに」
手島は楽しそうにそう言うと、くるっと身体を回して昇降口の方に歩き出した。
ちらりと教室の中を一瞥してみるが、
手島は、その楽しそうな声とは裏腹に、頬が痩けていた。一目で分かる、疲れましたという顔つきである。その横顔を見て、今日何度目か分からないやり取りを交わす。
「顔死んでるぞ手島」
「ムネも一緒の顔しとんで」
歩く度に内股がずきずきと痛む。筋肉痛というやつを、俺は久しぶりに味わっていた。
理由は明白、体幹トレーニングのせいだ。
まさか受験を経て自分の身体がこんなにも鈍っているとは。いきなり走れないという
日に日に死んでいく俺たちの表情を見て、久利先生は少し笑った後に満足そうに頷いた。
「安心して下さい。ちゃんとメニュー通りやれば、しっかり筋肉痛になりますので」
なに暢気な事言ってんだ。俺としては、帰宅に支障が出るレベルで痛いのだが。
昨日の一幕を思い出すと、ついついため息が出てしまう。あの人はどうもサディストだったらしい。
手島が下げている、2つの新品の靴袋が目につく。あの中には、トレーニング用のランニングシューズと幅跳用のスパイクが入っている。
結局、手島は幅跳をやることにした。
まぁ、レシートを捨ててしまって返品が不可能だったという理由で、最初は渋々だったけれど。
今は逆にやる気に満ちあふれていて、幅跳のやり方を必死に研究しているところらしい。前の部活紹介の時のメモといい、案外手島は几帳面なのかもしれない。
「悪い、ちょっとトイレ行ってくるから先行ってて」
「りょーかい、もうすぐ始まると思うから、急ぐんやで」
手島を先に行かせ、トイレを済ませる。
ドアを開けると、隣の女子トイレからも人が出てくる。チラッと見ると、そこに居たのは
彼女も今からグラウンドに向かうのだろう。格好はランニングシャツにハーフパンツ。両方とも学校指定のものではなく、中学で使っていた練習着だ。
2人とも目的地が同じなので、何となく一緒に行く事になる。どうせ歩いて1分もない距離なのに、別れてしまうのもおかしいだろう。
「結局、陸部入ったんやね」
上履きからシューズに履き替えながら、美那はこちらに聞いてくる。声は何ともない風を装っているが、ちらちらとこちらを伺っているあたり、気になっていたのだろう。
「あんなに嫌がっとったのに、なんでなん?」
「別に嫌がってはないけど」
「それは嘘。入らん言っとったやんか」
「うーん」
生返事を返す。靴紐をタップ結びして、輪っか同士をもう一度結ぶ。こうすると解けにくくなるのだ。よし、両方結べた。
顔を上げると、そこに美那が立っていた。ちゃんと答えろとばかりに、じっとこちらを見つめていた。思わず苦笑いしてしまいそうになるのを堪えながら、立ち上がる。
気持ちゆっくりに歩きながら、なんて言おうか考える。美那も、隣でペースを合わせてくれた。
「俺さ、陸上に期待しすぎとったのかもしれへん」
「期待?」
「俺なら、もっとやれる。全国に行けるくらい足速いんやぞーって。けど全然そんなことなくて、勝手に落胆しとったんや。そんで陸上が嫌になった。意味分からんやろ?」
そう言って美那に笑いかける。彼女は一瞬考え込むように視線を逸らしたが、すぐにそれを戻して真剣な面持ちで答えた。
「いや、分かるよ。自分に対する期待も、落胆も。けど、そんなんやったら、何でまたやろうと思ったん?」
「母さんが、自分は楽しくて部活やっとったーって言うのを聞いて、そんなんで良いんかって。考えてみれば、俺もそんなに陸上は嫌いじゃないなって思ったんさ」
俺は、陸上が嫌いではない。
それだけで、陸上を続けて良いんだ。大会だけが全てではない。
ついつい自虐気味な笑みがこぼれる。人に話してみれば、こんなに簡単な事だったことに気付かされた。自虐するのは、ころころと変わる自分の考え方に対して、だ。
だが、今の俺がそう考えているなら。少なくとも今は、後悔しないだろう。
「ありがとうな、美那」
つい口からするりと出てきた
「……何で笑っとんねん」
「里司のお母さん、確かにそう言いそうやなと思って」
そっちかよ!!どうやら、今の言葉は聞こえてなかったらしい。良かった、恥ずかしすぎるだろ今の。
「あ、練習始まりそう。急がなあかんね」
そう言って、美那は急に荷物置き場に向かって走りだした。彼女の頬が少し赤みを帯びていたのは、きっと今からの練習が楽しみだからだ。そう勝手に決めつけて、美那の後を追う。
グラウンドでは、先生の周りに輪が出来はじめていた。
全員が輪になると、久利先生は今日の練習の流れを話し始めた。
アップ、ストレッチの後、各専門に分かれて種目練習を行う。
また、順番に久利先生が回っていき、メニューの確認と細かい指導を行うらしい。
「1年生は今日が初めてですね。皆さん、顔が辛そうですが、しっかりトレーニングをしたようで良かったです。まだそんなにハードな練習はしなくて結構ですので、怪我をしない範囲で頑張って下さいね。ストレッチまでの流れは、
そう言って、久利先生は伊村部長に顔を向ける。妙に真面目な表情で話を聞いていた彼だったが、その瞬間からニッと笑うと、全体に通るような大きい声で話し始めた。
「では、
伊村部長はグイッと首を捻り、隣に立っている前川先輩に向かって尋ねる。前川先輩は考え込むように顎を手で触れた後、話し始めた。
「じゃあ、200までの
それぞれ指名された先輩が手を挙げる。上級生含め、その合図でそれぞれ一斉に動き始めた。
市川先輩は日に焼けた黒い肌が特徴的な、優しそうな先輩。山本先輩は、伊村部長以上にがっしりとした体格の持ち主だが、こちらも優しそうな顔つきの先輩。
そして、我らが跳躍部門は、芦屋先輩が遠慮がちに、顔の高さくらいで手を挙げている。
そこに集まったのは、俺、手島、水音、もう一人は知らない女子の先輩だ。
水音は、走高跳を専門としていた。手島が理由を聞いたことがあったのだが、何かのスイッチが入ったのか休憩時間10分間を丸々費やして高跳の面白い点を語られた。それ以来、俺と手島との間で水音に高跳の話を振らないという暗黙のルールが成立している。
ともかく、それくらい彼女は高跳が好きらしい。いや、愛していると言っても過言ではない。
他の部門でもだいたい固まり終わったのか、うろうろしている人はいない。
人気だったのは短短で、元々多い先輩に加えて短距離1年生のうち約半数がそこに集まっていた。美那も、ここに入っている。
対してこちらは5人。比べてしまうと、なんとも殺風景である。上級生が1人ずつって、ちょっと少なくないか……?
まぁ、跳躍に関しては、途中からちょっと参加してみるという人もいると思う。と言うか、自分がそうだったというのもあるが。なので、これからに期待といった感じだ。
芦屋先輩は挙げていた手を下ろすと、メンバーと順番に目を合わせる。
「こんにちは。僕は、幅跳の
そう紹介された、切れ目で泣きぼくろがある先輩は、「ども」と軽く会釈した。1年生の俺たちは、よろしくお願いしますと揃ってお辞儀する。
そのまま、沈黙の時間が過ぎていく。他の部門は既にアップを始めていたり、わいわいと楽しそうな所もある。その声が、嫌にはっきりと俺たちの間をすり抜けていく。
船堀先輩は、困ったように手を首の後ろにまわすと、芦屋先輩に向かって話しかける。
「芦屋、アンタ跳躍キャプテンなんやからしっかりしないと」
「ごめん、船堀、僕こういうの苦手で」
弱々しく謝罪する芦屋先輩に、船堀先輩は呆れた様子でため息をついた。
「まぁ、分かっとったけどな。じゃあ、みんなでアップ行こか」
結局、船堀先輩が主導してアップへと向かう跳躍部門。これで大丈夫なのだろうか。頼りない芦屋先輩の背中を見て、俺はそう感じざるを得なかった。
アタッチメント! 緒川 公平 @o_akipool
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