(2)

 残された1年生に対して、久利くり先生から何枚かのプリントが配布された。


 1枚目、選手登録のための書類は見れば分かる。あとのプリントはなんだこれ。

 モノクロで印刷されたトレーナーらしき男がポーズを取っている写真の下に、細かい動作の説明や注意点がびっしりと書かれていた。筋トレのメニューだろうか。


 久利先生から陸連りくれん、正式名称『日本陸上競技連盟』、通称JAAFへの登録用紙について説明を受ける。選手が公式大会へ出場する場合、この連盟への登録は必須となる。


 こういう格式張った手続きは須く面倒くさいもので、例外なくこの書類もごちゃごちゃしていて面倒そうだなと、少しげんなりする。横で手島てしまも表情を歪めていた。


 その後、話はトレーニングメニューのプリントに移行する。

 さっきからざっと眺めているが、そんなにキツそうには見えないし、量も多くない。

「これはBCTと呼ばれるトレーニングです」

 久利先生がそう言うと、手島が「ん?」と首を傾げた。

「基礎戦闘訓練?」

 さっきからボケまくっている手島は放っておこうと決めた俺だったが、律儀にそれを聞き逃さなかった久利先生が、すかさず訂正した。

「いいえ手島くん、CはコンバットではなくコントロールのCです。日本語で言うと、『体幹トレーニング』です。皆さんは受験明けですので、すぐに高負荷の練習は行いません。今日は家に帰ってこのトレーニングをこなして下さい。ランメニューは、3日後からです」


 すると突然、1年生の列からぱっと手が挙がる。どうぞ、と久利先生から促されると、その男子は座ったまま話し始める。

「僕、ずっとトレーニング続けてきたんですけど。それでも走ったらダメですか」


 男子生徒は、西島にしじま篤紀あつのりです、と遅れて名乗った。

 西島の声は伊村いむら部長ほど声量が大きくないものの、早口でハキハキした喋り方は、彼とはまた違った印象を受ける。ハッキリ言えば、やかましい。

 今さっきも、穏やかだった演習室の空気が、彼が喋り始めた途端に一瞬で騒々しいものになってしまった。まるで駅前と空気だけ入れ替えてしまった様に。


 同じくトレーニングを続けてきただろう美那みなの方をチラッと見てみると、大きく首を縦に何度も振って、同意を示している。何となく赤べこみたいだな、と思った。


 久利先生は、笑顔で即答した。

「ダメです。体幹は全ての基礎ですので、我慢してやってください。これは怪我を防ぐためでもあるんですよ」

 それと、と間髪を入れずに続ける。まるで反論は許さないと言わんばかりだ。西島は、少しひるんでいた。

「4月の末に、中央緑地で記録会があります。1人2種目まで出られますが、必ず100mか400mのどちらかは出場して下さい。あと1種目は、皆さんの自由です。ここでの記録をもって、春季しゅんき大会のメンバーを選考します。出場種目で迷っている人は、いつでも私の所に相談しに来て下さい」


 春季大会とは、5月の上旬に伊勢いせで、県内の高校が集まって開かれる大会である。新年度一発目の大きな大会だが、これは東海大会など次のステージがない、言ってしまえば『大きい記録会』である。

 インターハイと同じく1種目につき1校3人までしかエントリーできないため、人が少ない学校を除き、入学して日が浅い1年生は出場しないのが通例だ。

 なぜなら、さっき久利先生が言っていたように受験明けで身体がまだ出来上がっていないから。なのかなというのは、俺の推論だ。多分合っていると思うけれど。


 しかし久利先生は、1年生にも出場のチャンスを与えると言った。はっきりと口には出さないものの、1年生の間に動揺が生まれたのを肌で感じる。


 以上です。お疲れ様でした。それだけ言うと、久利先生はさっさと演習室から出て行ってしまう。一気に捲し立てられた西島は未だに反論があるような、不満げな顔をしているが、それをぐっと飲み込むように荷物をまとめ始めた。

 残された俺たち1年生は、突然のミーティング終了に戸惑いを見せながらも、同じように帰りの支度を始めたのだった。



 演習室を出ると、手島は昇降口と逆の方向へ歩き出した。

「どこ行くんだよ、下駄箱こっちだぞ」

 俺がそう声をかけると、手島はくるっと身体を反転させ、後ろで手を組んではにかんだ。

「ちょっとジュース飲みに行かへん?」

 財布の中身を頭に浮かべると、祖母から貰った3000円が手つかずのままだった事を思い出す。特に断る理由もないか。

「いいよ、行こう」

 そう答えると、手島は再び前を向いて嬉しそうに鼻歌を唄いだした。後ろで組まれたままの手が、陽気にリズムを取っている。

 毎日が楽しそうだなこいつと思いながら、手島と共に自販機へ向かった。


 自販機コーナーは校内に2カ所ある。昇降口前にある単体のコカコーラ自販機と、テニスコート近くにある複数メーカーの自販機だ。

 気分によってどちらに行くかはまばらだが、今回はテニスコートの方に行くことにした。

 こっちは4つほど自販機が設置されており、缶やペットボトルだけでなくカップまである品揃えの豊富さだ。

 俺はカップのアイスココアを、手島はカップのアイスミルクティーを購入する。

 カップの方が安いからね、しょうがないね。高校生の財布は、親戚と会った後以外寒いということは全国的に一致している(俺調べ)。


 近くの石段に腰掛け、ココアを喉に流し込む。夜なべして勉強したときは、よく母親が作ってくれたっけか。たった四季が1つ進んだだけなのに、随分と昔のことのように感じる。

 そんな懐かしいのか最近なのか分からないことを思い出していると、手島が唐突に話し始めた。

「ムネは、専門種目何にする?」

 いきなりだなと思ったが、考えていない訳ではない。専門種目の決定は、陸上選手にとっては避けては通れない道だ。野球やサッカーにもポジションがあるように、陸上にも各々専門とする種目がある。別にそれは隠すことでもない。


「俺は幅跳はばとびメインで100もやってく感じかな」

 これは、俺が陸上と向き合って行くために思考から捻り出した、言わば妥協案だ。

 甘い考えだと自分でも分かっている。100mからの逃げとして走幅跳を使っているだけということは自覚していた。

 しかし、希望くらいは持たないとやっていけない。走幅跳は100mよりかは幾分、技術が介入する余地がある。まだ伸びるかもしれないのだ。もしそれが、淡く溶けてしまうような希望だったとしても、俺が陸上にしがみついていくにはこれしかないと思っている。


 手島は「ふーん」と呟くと、ミルクティーをちびちびと口に運ぶ。

 手島はどうするんだ、と聞こうとしたタイミングで、いきなり後ろから声をかけられた。

「わ、やっぱり手島くんと宗川むねかわくん!」


 これは女子の声だ。誰だと思って振り向くと、見覚えのある顔だった。

 くりっとした大きな目と、少し大きな口。笑った時にちらりと覘く八重歯は、見る者に活発そうな印象を与えていた。対照的に肩甲骨まで伸びる艶やかな黒髪は、女性らしさをはっきりと表している。俺と手島と同じクラスで、その中で可愛さが一際目立っている女子だ。

 ちなみに、先ほどの陸上部ミーティングにも参加していた、俺たちと同じ新入陸上部員でもある。


 だが、顔は覚えているのに名前が出てこないのがすごくもどかしい。顔は覚えている顔は。名前は喉の所くらいまで出てきている。しょうがないだろ、可愛い子って話しかけづらいんだから。話さないと名前を覚えられないのである。


「やぁ岡守おかもりさん。岡守さんも陸上部やったんやね」

 手島がサラッと挨拶を返すと、彼女はにぱっと笑う。彼女から放たれている黄色い、明るいオーラが眩しくて、つい目を背けてしまう。

「私も、宗川くんと手島くんが陸部って知らんかった!あと、みんなからは下の名前で呼ばれとるからそっちで呼んでくれると嬉しいかな」

 よろしくー、と言って、岡守さんは手を振った。


 名字から、連鎖的に名前も思い出した。岡守おかもり水音みずね。覚えるのは苦手な俺でも、流石に1週間もすれば自然に覚えてしまう。顔は、すぐ思い出したからセーフだ。


「俺も手島でええよ、よろしく」

「おっ、手島ねー!これから陸部でも仲良くしてなー」

 岡守さんはそう言って手島に笑いかけると、その表情のまま視線をこちらに移した。

「………」「…………」

 お互いに見つめ合ったまま、3秒ほど時間が流れる。

 そう言えば。高校に入学してから美那以外の女子とまともに会話していない。どうやって話すんだっけ。えっと、この流れだから手島と似たような感じで良いのだろうか。

「俺も宗川でいいよ、よろしく水音さん」


 頑張って絞り出した言葉を、口から放り出す。すると水音さんは不満げに頬を膨らまして言い返してきた。

「『さん』は付けへんといて欲しいな。めっちゃ距離あるみたいやんか。はいリピートアフターミー、水音」

 そう言うと、彼女は右耳に右手を当てて目を瞑り、こちらの返答を待つ姿勢に入る。

 一瞬手島と顔を見合わせるが、手島は苦笑いしながら顎をしゃくった。言ってやれということだろう。

「……みずね?」

「うん、まぁ遠慮っぽかったけど、合格かな。よろしく宗川!」

 そう言うと、水音は満足そうに頷いてころころと笑った。手島といい水音といい、表情の豊かさとコミュ力はとても羨ましい。


「そう言えば、2人とも何の種目やるか決めた?」

 水音がそう俺たちに尋ねる。彼女は顔をこちらに向けたまま話を続け、横目で器用にレモンティーを購入するという離れ業を、何ともないようにやってのけた。すごいトリプルタスクである。

「俺は100mと幅跳かな、手島は?」

 俺がそう聞くと、手島は「よくぞ聞いてくれました!」と言って、にやけながら膝上に置いたリュックの中を漁りだした。

 俺と水音が怪訝そうな顔で見つめる中、手島はリュックから靴袋を取り出す。

「昨日スポーツ店行ったら見つけちゃってさ。一目惚れで、買っちゃった!」

 この大きさは、スパイクか。ムフフと笑う手島を見て、俺は少し引いてしまっていたが、水音はそんな素振りを一切見せずに目を輝かせる。

「へぇー、どこで買ったん?」

「あの、緑地の近くのとこなんやけど知っとる?」

「あーあそこな!で、どんなん買ったんか見してよ!」


 気がつけば、水音が俺の隣に座り、待ちきれないとばかりに足をバタバタとさせていた。不意に近づく体温にドキッとしてしまうのは、俺の自意識過剰なのだろうか。背中の辺りがむずがゆい。


 手島は袋の中からスパイクを取り出すと、俺に手渡してきた。それを水音と一緒に覗き込む。

 それは、東高の陸上部のユニフォームと同じく赤と白を基調とし、本来靴紐がある部分がチャックで覆われていて、重厚そうな見た目をしていた。あれ、これって……。


 手島は俺たちの動揺に気づきもせず、うっとりとした様子で空を見上ながら言った。

「俺さ、ずっと100mにずっと憧れとるんさ。ずっと全力でもがいて、走り抜けるってかっこええやん。やから、俺100mやろうと思っとるんや」

 気まずそうに口角を上げている水音と目が合う。目が笑っていないぞ。いずれ誰かから言われることなら、早めに言ってやった方が良いのかもしれない。


 意を決して、事実を告げる。水音はというと、落ち込む姿を見たくないのか後ろの自販機へ視線を泳がせていた。

「あのー、手島さん」

「ん?どうしたムネ」

「これ、跳躍用のスパイクなんですよね……」


 そう。靴紐の部分がチャックで覆われていたり、足首の近くにテープが来るように作られているのは、幅跳の着地時に、砂が入ってこないようにするためだ。

 もちろんこれで短距離を走れないかと言われればそうではないが、短距離用スパイクとは目指しているところが違う。

 まず、短距離用は軽量化を第一とするため、薄く軽くを追い求めている。

 対して跳躍用は踏切や着地の際に発生する衝撃を和らげるため、コンソールを厚めに作ったりしている。なので、若干だが短距離用よりも重い。

 それに加え、踏み切りやすいようにつま先が高くなっていたりと、他にも細やかな差異がある。


 繰り返すが、これでも短距離は走れる。走れるのだが、若干のハンデ感は否めない。


「………」「………」「………」

 さっきの水音との沈黙とは違い、重苦しい空気が3人の間に流れた。どうするんだ、これ。

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