それは、まるで鳥のように

(1)

 久利くり翔子しょうこ先生。俺たち1年6組の担任で、担当教科は現代文と古典。

 最初の緩くて頼りない雰囲気で、本当に授業は大丈夫なのかと心配だった。しかし、いざ授業が始まると、その分かりやすさと丁寧さにそんな心配をする生徒は誰一人としていなくなった。


 授業が分かりやすくて、優しくて、おまけに美女。人気にならないはずがなかった。

「久利先生は1年生担任団の中で一番人気やな」とは手島の弁だが、確かに俺も一番は誰かと訊かれたら久利先生と答えるだろう。


 そんな久利先生が、陸上部の顧問。ハッキリ言って陸上のイメージはないが、その引き締まった体型を見るに、運動していると聞けば納得できる。


 イメージが湧かないのは全学年共通だったのか、2年生の列から質問の手が挙がった。

畠山はたけやま、何か質問か?」

 あれは確か、リレーの4走だった、細身長身眼鏡先輩だ。

 畠山先輩は、「はい」と言うと立ち上がって、先生の方を見て尋ねた。

「久利先生は、陸上をなさっていた経験はありますか」

 もっともな質問だ。顧問が未経験と言うのでは、指導される側も不安だろう。

 手島に知ってるか?と尋ねるが、首を振って否定された。


 久利先生は目を細めて、それに答えた。

「はい。中学から大学まで続けていました。一応、全国大会にも出たことがあるんですよ」


 予想以上の実績に、周りではえ?全国?と、戸惑ったようにどよめきが起き始めた。

すると突然、携帯で検索をかけていたらしい上級生が素っ頓狂な声を上げた。

「七種競技で全国行ったらしいぞ久利先生!」

 この言葉をきっかけに、ざわめきは堰を切って大騒ぎになった。


 手島は困惑したように「七種競技ってそんなにすごいの?」と聞いてくる。俺は呆気にとられながらも、何とか頭の中の情報を引っ張り出して答えた。

「100mハードル、200m、800m、走高跳、走幅跳、やり投、砲丸投げの7種目をやって、そのポイント合計で勝敗をつける競技なんだけど、普通の人と比べて1日に3、4種目こなさなきゃいけないから体力的にもキツいし、何か1つの競技に絞ってもダメだからオールラウンドな力が必要になるんだよ」


 高校では、女子は七種競技、男子は八種競技が競技として選択できる。その過酷さから競技者は“鉄人”と呼ばれ、畏れ讃えられる。一体全体どれくらいキツいかが分かるのではないだろうか。アトムだぞアトム。あれ、アトムは鉄人じゃなくて鉄腕だったか。

 手島は「ほえー」と、分かったのか分からなかったのか微妙な声を漏らしていた。


 そこら中の「えー意外」「全然そういう風に見えないよねー」などの軽口で教室が騒がしい。これは沈めるのが大変そうだなーと他人事のように頬杖をついて考えていると、久利先生がいきなりパンッと手を叩いた。

 ざわつきの中をもハッキリ通り抜けていったその音で、演習室は一瞬で静まりかえった。まさかこの先生がこういうことをする人だとは思わなかったのだろう。授業中も多少うるさいくらいでは注意もしない先生だ。意外だ。俺も少しびっくりした。


「私は質問に答えただけですよ。実績があるからと言って、一概に指導も上手いとは限りません。これからは、それらを気にしないで下さい」

 相変わらず表情は笑顔のままだったが、何故かさっきまでとは違う種類の気がした。何というか、怖い。口だけで笑っているという感じだ。


「それと、一つ良いですか?」

 久利先生が前川先輩に向かって尋ねる。前川先輩が「どうぞ」と言うと、久利先生は上級生に向けて話し始めた。


「私はこの1週間、遠くから皆さんの練習を見させて頂きました。どんな練習をやっていたのか、知りたかったからです。結論から言わせてもらうと、中途半端でした。練習から、皆さんが伸ばしていきたい部分が見えません。時間はあるようでしたが、今のままだと才能ある子が東海止まり、というのが正直な所です」

 中々キツいこと言うなぁと思った。少し意地悪に言い換えれば、『あなたたちの練習は時間の無駄』と言っている様なものだ。


 1年生は突然凍ってしまった場の空気が堪えられないとばかりに俯きがちに、上級生は一様に驚きで目を見開いている中、久利先生は表情を変えずに続けた。

「私は皆さんがそれで良いと言うのならそれで構いません。このままの練習を続ければ良いと思います。しかし、もっと上に進みたいと言うのであれば、練習方法などをもっと厳しくしなければなりません」


 どうしますか?と、今度は全体に問いかける。

 呪縛から解き放されたように、演習室がざわめき始める。

 どうしますかと言われても。1年生は入部したばかりなので発言権はないに等しい。よって、誰も何も言わないが、上級生はそうではない。

 聞き耳を立てていると、どちらにするかというよりも久利先生への反感の声が大きい気がする。新任で入ってきたばかりの人にこんなことを言われれば、そりゃ反発の声もあるだろう。


「はい、みんな静かにして」

 手をパンパンと叩いて、前川先輩が静粛を促す。さっきの久利先生の音と比べると幾分か小さいが、それでも場を沈めるには十分だった。前川先輩は一同をざっと眺めると、相変わらずの無表情で提案を始めた。

「先生はこう仰ってます。みんなでどうするか決めましょう。今後の活動方針を決めるものなので、いきなりで悪いけど1年生にも参加して欲しいです」


 困ったように顔を見合わせる1年生を見て、前川先輩は申し訳なさそうに肩を落とす。参加して欲しいと言われても、前までの練習方法も知らないし。どっちが良いと訊かれても両方分からないので比較しようがない。なので、必然的に『真剣にやりたいか、やりたくないか』の二択になる。


 ずっと押し黙っていた伊村部長が、険しい顔つきで口を開く。

「今日から練習が始まるし、ゆっくり話し合っている時間はない。多数決でええんちゃうか?」

 全体の空気は『まぁ、しょうがないよな』という感じである。というより、ここで正面切って反論できるような人はいなかった。


 多数決。集団内に於いて、対立する複数の意見の中から最終決定する際に用いられる、おおよそ民主的な方法だ。

 我が国の立法府でも採用している多数決制で決定することに、部員からの異議はない。


 心の中で異論があろうが、声に出さなければ反対意見はないと見做される。

 ここで『今のままで良い』に手を挙げるということは、すなわち『私はやる気がなく、ぬくぬくやっていきたいです』と宣言するようなものである。そんなの、先生の前で言えるわけがないだろう。こんなもの、必然的に一択だ。


 音頭は、やはり前川先輩が取った。

「まず、上を目指すために頑張ろうと思う人」

 ほぼ全員の手が挙げられる。挙げていないのはマネージャー志望の女の子たちと、一部の上級生だけだ。いや、よく見ると彼らの手も胸くらいの高さで挙げられていた。もしかして、これは全員か?俺や手島も、ここで手を挙げる。

 前川先輩は数えることはせず、手を下ろさせる。今から遅刻した50人の部員が演習室に入ってきて全員反対しない限り、こちらで決定だろう。


 もう議は決した様に思えたが、一応反対意見も聞かなくてはならない。多数決の鉄則だ。

「じゃあ、このままがいいと思う人」

 前川先輩が問いかけるが、誰も手を挙げようとはしない。まるで葬式のように、みんな口を引き結んで下を向いていた。


 じゃあ、と前川先輩が多数決を打ち切ろうとしたその時、弱々しく挙がった手がそれを止める。

 前川先輩は驚いたように目を少し見開き、伊村部長は苦々しげに唇を歪めた。

芦屋あしやの他には誰かおる?」

 前川先輩の呼びかけに、しかし挙手するものはいなかった。みんなの視線が、芦屋先輩に集まる。


 芦屋先輩は運動部と思えない線の細さと透き通るくらい白い肌、中性的な顔つきで、見る者に『儚げな病弱青年』という印象を抱かせる先輩だ。


 そんな先輩が衆人の注目を集める中で、1人手を挙げている。

 落ち着かないのだろう、少し俯きがちに目を瞬かせているが、手はしっかりと上に伸びていた。そんな先輩を見つめていると、なんだか悪いことはしていない筈なのに罪悪感が湧いてくる。俺は頭を無理やり前に戻した。


 前川先輩が芦屋先輩に手を下げるように言うと、先生に確認するように宣言した。

「では多数決の結果、上を目指して練習に取り組む事になりました。よろしくお願いします」

 前川先輩と伊村先輩が頭を下げると、他の部員も追随して軽く一礼する。

 久利先生は軽く頷くと、全員に向かって告げた。

「皆さん、お疲れ様でした。今の結果を受けて、私は指導をしていきます。しかし、今の方法は本来の多数決のやり方とは異なります。何か不満不平がある人は、私に言ってください。部全体として練習は厳しいのものになりますが、申告した人に対しては厳しく言うつもりはありませんし、全ての練習に参加しなくても結構です」


 それはつまり、先生に逆らえば大会に出られないということだろうか。

 久利先生は「あっ」と思いついた様に呟くと、胸の前で手を振りながら続けた。

「不公平に扱うとか、大会にエントリーさせないとか、そういうことはしないので安心してくださいね」

 そう言って、芦屋先輩に向かって笑いかけた。芦屋先輩はというと、さっきから無表情無反応を貫いている。全く何を考えているか分からない。


「これからよろしくお願いしますね。では、上級生はグラウンドに向かってください。練習を始めましょう」

 結局最初から最後まで笑みを崩さなかった久利先生に、なにか底知れぬ恐ろしさを感じる。今日だけで色々な情報がありすぎて頭がパンクしそうだ。


 練習に行こうと、上級生がまばららに立ちはじめる。にわかに騒がしくなった教室で、久利先生が再度手を叩いた。

「私が何か指示をしたら、返事をして下さい。いいですね」

 呆気にとられて久利先生を見つめていると、久利先生はもう一度「いいですね?」と返事を促した。

 今度は揃って「はい!」と発せられた返事に、久利先生は満足そうに頷いた。


 俺はなんとなく背筋を伸ばして椅子に座り直す。やっぱりこの人、優しくて綺麗なだけの先生ではなかったのだ。

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