(9)
お湯を沸かし、机の上に用意してあったカップラーメンを食べた。
母はパート、妹は部活でいないので、家には俺一人。
ソファに沈み込んで目を
あたしは陸上が好き。そう言い切った彼女の表情は、なんの曇りもなく澄み切っていた。
「陸上が嫌いなの?」と聞かれて、俺は答えることが出来なかった。
確かに思ったはずだ、俺は陸上をやめようと。
なんでやめようと思ったのか。それは陸上の残酷さを知ったからだ。
じゃあ、陸上が嫌い。はっきりそう言えるのだろうか。美那が挙げた陸上の好きなところは全部同感できる。でも続けようとは思えない。でもなぁ……。
思考がぐるぐると頭を回る。俺は一体、高校で何をしたいんだろう。
頭を抱えてのたうち回ってみる。いわゆる「昔の黒歴史がフラッシュバックした時のゴロゴロ」だ。
だが、こんな事をしても頭がすっきりするはずもなく、逆にモヤモヤしてくるだけ。なぜなら三半規管がやられてるから。
いつまで経っても結論を出せない無能な脳に見切りを付け、テレビの電源を付ける。
一通りチャンネルを回し、結局時代劇の再放送に落ち着いた。
内容はいつもと同じ、悪い敵を正義の味方がしばき倒すというものだ。ずっと昔から同じ内容な気がするが、悪はこの世にいつも栄えているし、人生は苦しかないのでしょうがない。
いっそ、産まれてから自分の職がある程度決まっている昔の方が良かった。その方が悩まなくて済む。
昔の人がこれを聞いたら羨ましがるのだろうか。でも、無限の選択肢から選べることは、無限の選択肢を諦めることに等しいのではないか。
神は、それぞれ人に1つの絶対的な才能を与えるらしい。それを発見できるかは各個人次第で、名のあるスポーツ選手や芸術家などはそれを見つけられたラッキーな人なのだそうだ。
神は不親切だ。何か才能を与えたのなら、アフターケアまでしっかりして欲しいし、そっちの方が神的にも満足度が高いのではないか。折角神から才能を与えて貰っても、それを活かしてない人の方が圧倒的に多いだろう。
今のところ、俺は才能を発見できてないらしい。少なくとも、義務教育の範囲内ではない。絵も音楽も体育も、それほどの才能があるとは思えない。
俺が唯一、他の人よりは優れているのかなと思うのは、ちょっと足が速い事と少しだけ長く跳べる事だけだ。それだけ。
それも、俺より優れているやつが全国にはゴロゴロいる。所詮『周りと比べて多少』レベルだ。
自然と深いため息が出てしまう。ため息をすると幸せが逃げていってしまうと言うなら、俺の周りには幸せだらけだ。これが「多幸感」というやつだろうか。絶対に違う。強いて言うなら「多CO2感」だ。ものすごくしょうもない事を考えてしまう。
すると、ガチャっと音がした。玄関のドアを開ける音だ。時間的に母がパートから帰ってきたのだろう。
少しして、リビングの扉が開くと、そこからひょいっと母が顔を出す。
「ただいま」
「おかえりー」
お決まりの挨拶を交わすと、母はすぐにキッチンに向かう。これから夕飯を作るのだ。正直少し前にカップ麺を食べたばかりなのでお腹はあまり空いてないのだけれど。「今日あんまりいらん」と母に言おうと体勢を起こして母の方を向くと、ちょうど母も思い出したとばかりにこちらを振り返る。
「そういえば、今日貰ってきたプリント出しといてな。なんか書かなあかんかも知れへんで」
そういえばそうだ。忘れていた。
鞄はソファの下にぽいっと放ってある。チャックを開け、ファイルの中から書類の束を掴み出す。
ダイニングテーブルに座った母にそれを届ける。どうやらご飯を作る前にこの紙束に目を通してしまうらしい。余計なタスクを増やしてしまってすみません。
ずいっと書類を差し出す。
「ん」
「はい」
母はそれを受け取ると、すっと目を通して右にどける。多分このペースは全て読んでいないだろう。重要な連絡事項が書いてあったり、署名が必要な書類などは上にどける。この辺で、親子の遺伝を感じた。
すみません保健委員の皆々様。先輩方が工夫を凝らして作成した保健便りは、俺と母の合計5秒で処理されてしまいました。
心の中で陳謝していると、一枚のプリントを見るなり母の手が止まる。
そして、紙切れをひらひらさせながら俺の方を向き、訊いてきた。
「そういえばあんた、高校も陸上部でええん?」
手にしていたのは、入部届だった。
母も父も、俺の部活動にはそんなに関心を示さなかった。
もちろん働いているので忙しいというのはあるが、それを休んでまで大会を観に来るということは、記憶の限りでは1度もなかった。
かといって無協力かと言われるとそうではなく、東海大会に進出した事を報告すると喜んでくれたし、大会の時も早起きして準備してくれた。
俺にはそれが丁度良かった。見に来られるとなんだか恥ずかしいし、プレッシャーになると思っていたから。
しかし、部活のことは任せている故に、俺が陸上を続ける気がないことを知らない。
陸上という面では一番付き合いが長い美那にさえ言わなかったので、無関心な母が知らないのは当然だけれど。
俺は努めて平静を装い、答えた。
「いや-、まだ迷っとって……」
「いやあんた東海も行ったのに、それでええの?」
母はきょとんと不思議そうな顔をした。
よく友達には誤解されがちなのだが、俺が東海大会に行けたのは運だ。
準決勝の2組のうち、俺が入っていない方の組には向かい風が強く吹いていた。
しかし、俺たちが走った組ではなぜか風が止んだのだ。
陸上において、向かい風はいくら強かろうが公認記録とされてしまう。その時の詳しい風速は忘れたが、相当強い風だったことは覚えている。
陸上では、風速1mでタイムが0.1秒変わると言われている。
その当時は喜びで他のことに頭が回らなかったが、今となっては、あれは俺の実力だったのではなく単に運が良かっただけだと思っている。
なので、俺のことを運が良いやつと言うのは構わないけれど、もったいないやつだと言うのはやめてほしい。
「まあ所詮東海やし。別に全国に行ったわけでもないし」
少し自嘲気味になってしまう声のトーンを隠したいがために、早口になってしまった。
「なに、あんた全国行くために陸上しとったん?」
「そりゃ、やるからには上目指さんとあかんのっちゃうの?」
何せ、青春を犠牲にしてまで部活動に勤しむのである。それくらい本気にならなければならないのではないか。俺は無意識に生まれていたそんな考えを口にしてみた。
すると母は昔を思い出すように目を細め、少し微笑んだ。
「お母さんは楽しいし好きやったから部活やっとったけどな。あんたはちゃうの?」
色々考えてみて思ったが、俺は陸上を特段嫌いということはないらしい。
しかし、そんな思いだけで続けて良いのだろうか。
俺の実力じゃ全国大会に行けない。悲しいとかそういうのではなく、これは判然とした事実だ。事実は受け入れなければならない。
「なあ、俺全国行きたいんかな」
ふと頭に浮かんだ疑問をそのままぶつけてみる。やるからには本気で。俺の中にあった薄霧のような、もやもやした思いが徐々に形になってきたことを感じた。
「知らん」
即答され、少し面食らっている俺に母は続けた。
「けど、一生懸命にやっとったら楽しいやろし、陸上行くときのあんたは楽しそうに見えた。それは確かやに。」
俺そんなに楽しそうに見えたかな。何一つ心当たりがないのだが。
中学生の頃の、玄関の鏡に映った部活に出かける前の自分を思い出していると、母が「まぁ」と続けた。
「なんにしても後悔しやんようにしなよ。お母さんは何するにしても出来ることあったらするから」
そう言うと、持っていた入部届を俺に手渡し、席を立つとキッチンに向かった。もう良い時間だ、そろそろ夕食を作り始めないと部活から帰った妹に「ご飯はまだか」と小言を言われるであろうことは目に見えている。
母さんと美那は言った。好きだからと。
俺だって、別に嫌いじゃない。けど、一度打ちのめされた陸上で、俺はもう一度本気になれるのだろうか。
俺は、陸上を続けたいのか。
ぼんやりと入部届を見つめる。そこに記載された期限は、そんなに長くはなかった。考える時間はそんなに無いということだ。
なんでこんなに悩まなくちゃいけないんだろう。
ひょっとしたら高校選びの時より迷ってるかもしれない。
いや、本当は分かっていた。
一度は止めようと思ったのに。こんなにも理屈を捏ねているのは、何とかして続ける理由を見つけようとしているからではないだろうか。
嫌なら嫌と言ってしまえばいい。俺は今まで1度として、陸上が嫌と思ったことはないし、言ってもいないことを、今更ながらに認識した。
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