(8)
美那の方をちらっと見てみる。
彼女はまだ通い慣れていない通学路をきょろきょろと見回している。中学の校区内にはいるまでは気が抜けないのは俺も同じだ。この辺の地理にあまり詳しくないので、どの道がどこに繋がっているのか分からない。母親が運転する車に乗っていた時に見た光景と照らし合わせながら、帰りの道を考えてみる。もっと近道はないだろうか。
結局、頭の中のスカスカなマップは役に立たず、細くて危ない変電所の横をすり抜けていく。行きはここを通ってきたが、車通りが多く、しかも車同士がすれ違うのもギリギリという危ない道だ。
だが、ここさえ抜ければ、もう危険な道はない筈だ。
向こう側から車が来たギリギリのタイミングで狭いところを抜ける。自転車と車が対向するのに怖さを感じるって、通学路として欠陥だろ。
それを抜けたところで、この先は上り坂。今からそれを上ると思うと、ため息が出てくる。
結局、制服で頑張って上りきる気も起きず、上り坂に差し掛かって三漕ぎくらいした後にすぐ自転車を降りる。
美那も俺の横に並んで自転車を降りる。良かった、ペースは合わせてくれるらしい。
降りた拍子にスカートが翻り、そこから彼女の太ももが目に入る。彼女のそれは、信じられないくらい華奢だった。
普通、陸上は4つに分けることができる。
短距離、長距離、
それぞれ使う筋肉が異なるのだが、短距離選手の場合は速筋と呼ばれる、瞬発力を引き出す筋肉が必要となる。
そしてその筋肉は肥大化しやすいため、短距離選手の
だが、美那の足は本当に短距離選手かと思うくらい細い。
もちろん、多少は筋肉が付いているが、俺の足と比べ、女子ということを考慮したとしてもこれはおかしいだろうと思うくらいに。
彼女の焼けた小麦色の肌と相まって健康的な良い足だと思った。
いくら幼なじみとはいえ、ガン見するのは良くない。そう思って視線を明後日の方向に向ける。いや幼なじみとか関係ないな。普通に女子の足ガン見したらダメだわ。
今日の俺は何かおかしい。今まで美那に対してこんなこと考えたことなかったのに。
何か他のことを考えようと、無理矢理に思考を働かせる。
そういえば、こうして二人きりになるのは、いつぶりだろうか。
中学は絶対一緒に帰らなかったし、小学校の帰りは男女別れての集団下校だったので一緒ではなかった。
昔はよく家に遊びに来て、「ジャンプ読ませて!お母さんに買ってって言いにくいんさ、ほら、うち女子やし」「このグローブから火が出るやつかっこええなー」とか言っていたのを思い出す。あの頃は素直で良い子だったなぁ、今とは大違いだ。
今あの漫画を読んだら、美那はなんて言うだろう。『このグローブはめたらジェット機みたいにはよ走れるかな』とか言い出しそうだな。それこそ死ぬ気になっても不可能だ。
よし、邪念はもう払えたな。
「里司、陸上やめるん?」
思考が頭をぐるぐる回っていたせいで、唐突な彼女の問いに面食らってしまった。つい足が止まってしまう。
彼女は数歩先に行ったところで足を止めると、振り返ってまた同じ問いをぶつけてくる。
「陸上やめるん?」
彼女の顔からは、なんの表情も読み取れない。まだお昼で陽は高く、その顔にははっきりと光が当たっているはずなのに、何も分からない。嫌にウグイスの
「なんで」
俺の答えになっていない、ただ情けなく
「見とれば分かるよ、里司は顔に出やすいし。あたしが『陸上続けるよな』って聞いたときの微妙な表情で、何となくそう思った」
そんで、と彼女は続ける。
「どうすんの」
俺の表情から考えていることを読んでくる美那だ。隠し事は通じない。
降参して、思っていることを正直に話すことにした。
「迷っとる」
「ずっと続けてきたのになんでやめんの」
変な言い訳を考えるのは許さないとばかりにすぐ返事が返ってくる。これでは何も考えられない。
「だって、正直もう限界やんか。どれだけ頑張っても速いやつとか跳べるやつには勝てへんやん。どうせ陸上なんて才能やし、俺にはその才能ないもん」
自分でも驚くくらい、怒気を孕んだ声だった。美那が困惑したように目を見開いてこっちを見つめている。
俺は、何に怒っているのだろう。みっともない。
ふと、昔の記憶が蘇ってくる。
東海大会。初めて出た大会。走った経験のない、大きな競技場。スタート地点に立つと、地面から迫りくる熱気さえ、胸を燻る興奮へと形を変えた。
嬉しかった。自分の努力が実り、この場所に立てているのだ。
トラックが360度観客席で囲まれている競技場の、その全てが自分の応援をしてくれているとさえ思った。
『やってやる。ここまで来たら全国だ』。聞こえてくるこの声は、自分の声。俺はそんなことを思っていたのだろうか。
いつもの手順でスターティングブロックをセットし、後ろに下がる。
声に合わせて、いつも通りのスタート姿勢をとる。大丈夫だ。今までの俺を信じろ。
さぁ、勝負だ。
結果は惨敗だった。
緊張でうまく動かない体を必死に動かし、ただただ夢中で走った。
漫然と視界に入るのは、先を行く何人かの背中だ。
負けるもんか。手に力を入れる。肩の脱力を心がける。力んでしまえば、フォームが崩れる。
結局追いつくことはできず、そのままゴールに入る。
計測器を振り返る。
ゴール横に設置されたデジタル文字が表示されているそれには1位のタイムが表示され、厳密ではないがほぼ正確に近いタイムが出る。それで大体のタイムが分かる。
そこに示されていたタイムは、俺の自己ベストと比べて冗談みたいにかけ離れたタイムだった。
ここまで離されていると、悔しいというより諦めの気持ちが先に出てくる。
1位の選手は、そのタイムをチラッと見ると、何の感慨もなく、早々と観客席の下の通路に姿を消した。
きっとこの選手は全国に行くんだ。だからこんなに颯爽としているんだ。
中学生ながらに、それが格好良く見えた。
どうせなら、全国でいいところまで行って欲しい。
だがその選手は、決勝であっさり他の選手に負けてしまった。
全国行きを決めた選手たちは、みんな怪物に見えた。
そんな怪物だらけの、レベルが違う戦いの中で、俺みたいな一般人は主役たり得ないのだ。
苦々しい思い出を頭から消し去ろうとして、何度も頭を振る。
しかし記憶は消えてくれず、こびりついたカビのように脳の奥に張り付いて離れなかった。
「里司はさ」
美那はそう言うと、一旦言葉を句切る。そして俯いて、「あー」とか「んー」とか呟いては、また無言になる。何だかその姿が、中体連前日の
そんな美那がこんなに言うべきも言葉を選んでいるこの状況が、なんだか照れくさかった。
「里司は、なんで陸上はじめたん?」
美那はこっちを見つめながら尋ねた。散々聞かれて、その度に適当な答えを返してきた質問。だが、そうも真っ直ぐ見つめられると、真剣に答えざるをえない気がするからやめてほしい。
そういえば、なんでだっけ。
今日はどうも、昔の事をよく思い出す。
きっと新しい季節だからだ。
「確か、小3の時の徒競走で1位取って、褒められたんが嬉しかったからやと思う」
今思うと幼稚な理由だ。たかが1小学校の、1学年の、その中の1組で1位だっただけなのに。たったそれだけだったのに。
「あたしはね、憧れだったの」
美那は1歩大きく踏みだし、先に行くと、少し大きな声でそう言った。まるで意を決したように。
とっくに坂道は上り終わっている。今は平地だ。追いつくのはさほど難しくない。
しかし、今、美那の隣に立ってはいけない気がした。そもそも美那の歩くペースが速まったのもあるけれど。
俺たちは、上り坂を上り終えてもまだゆっくり歩いていた。コンクリートからの照り返しがじわりと全身を包む。こんな中を歩くのはできれば遠慮したいが、今は自転車に乗れない。一度途切れてしまえばこの話が終わってしまう気がしたから。
「めっちゃ速いなぁって、かっこいいなぁって、私も速く走りたいって。そんな憧れ」
誰に、とは聞かなかった。多分聞いても教えてくれないだろうからだ。
人が憧れるような走りとはどんなだろう。
俺たちが陸上を始めた小3の時、オリンピックで女子200m走の世界新記録が出た。俺はそれを美那と一緒に見ていたが、美那はとても楽しそうだった。美那が憧れたのは、それだろうか。
「けど、今は憧れじゃないよ」
ぴんっと透き通った、明るい声。きっと彼女は今、楽しいのだろう。その記録には届かなくとも、もう彼女は陸上に取り憑かれてしまったのだ。
そういえば、美那はいつから家に来なくなったっけ。
多分、陸上を始めてからだ。俺はそれを、少し寂しいと思った。美那を陸上に取られたような気がして。
「スタート前のあの独特な緊張感が好き。今から始まるんやってワクワクする」
「走っとる時の何も考えられへん感じが好き。あたしは今、走りに全部懸けてるって感じるから」
「あと、ゴールした後も好き。どんなに暑くても、一瞬涼しくなるあの感覚が忘れられへん」
全部、美那の言ったことが分かってしまう。俺もそれを知っている。
いくら頭が忘れろと言っても、体が勝手に思い出してしまうのだ。その感覚を。
何となくだけど、美那の言いたい事が分かった。
俺は、陸上が……。
「里司は、陸上が嫌いなん?」
美那が振り返って訊いてくる。少しだけ寂しげなその表情は、今まで見た美那の顔の中で、なぜだか一番大人っぽく見えた。
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