(6)
グラウンドに行くためには、1階にある昇降口で靴に履き替え、特別棟をぐるっと迂回していかなければならない。
1年生用の靴箱は教室棟の端にあり、それは特別棟端まで近いことを意味していた。そして幸いにも、1年生の教室は1階にある。
要するに、グラウンドまでそんなに歩かなくて済むと言うことだ。
時期は4月初め、区分的には春にあたるのだろうか。
鬱陶しかった
春と言えばぽかぽか陽気を想像するが、ここ最近はぽかぽかの域を遙かに超えてギラギラという感じだった。
気温が高いと言えば埼玉県熊谷や岐阜県多治見などが有名だが、個人的には四日市も負けていないと思う。
夏の気温の高さに加え、海から吹いてくる湿気を含んだ海風のせいで、湿度も高いのだ。なので、単純にカラッとした暑さではなく、じめじめした嫌な暑さになる。
じめじめした暑さは、やる気を著しく削いでくる。受験の時はそれに苦労させられたなぁと、まだ終わって2ヶ月も経っていないのに遙か昔の事のように感じられる受験時代のことを思い出した。
春と言えど、その肌を刺してくるような日差しは、今年の夏も暑いぞという予兆を感じさせる。
現に衣替えまでまだ大分あるにも関わらず、学内ではブレザーを脱いでカッターを捲っている生徒と結構数すれ違う。これから部活に行くのであろう運動部のジャージも、心なしか涼しげな装いだ。
「あっついなぁ、ホンマに4月かこれ」
靴に履き替え、外に出た手島は、少しげんなりした顔で言った。少し遅れて、俺も日差しの下に出てみる。
本当に、暑い。こんな日は早く帰ってキンキンに冷えた炭酸を喉に流し込みたい。
そう思ったが、ふと目の前の自販機が目に入る。コカコーラの自販機だ。価格はそこらに置いてある自販機よりも若干安く設定されていて、お小遣いがまだそんなに多くない高校生にはありがたい。
そうだ、もう高校生だから、買い食いも大丈夫なんだ。
今更ながら気付いた事実に、何となくとなく成長を実感していると、手島が待ちきれないといった声のトーンで、急いてきた。
「ムネー、はよ行こ!もう始まっとるかもしれへんで!」
そう言うと、手島はすたすたと先に歩いて行ってしまった。
高校生になって分かったことは、手島が押しの強いやつだということ、俺が押しに弱いこと、俺の決意は脆いということの3つだ。
さっきも、手島が「陸上部の見学に行きたい」と言い出したときに、それを断り切ることが出来なかった。
「俺中学の知り合いも少ないし、話せるのが高藤さんだけやと不安なんや。頼む!」
そうやって不安そうな顔をされて頭を下げられたら、断れないのが人の性ではないだろうか。
確かに、美那が人懐っこい性格なら「大丈夫、美那がいるから」と言って放り出しても大丈夫だったかもしれない。
だが、あいつはあいつで人見知りなのだ。
中学から知り合った友人曰く、『外面は良いので話を続けることは出来るものの、基本的には相槌を打つだけなので、会話していると「あれ?これ会話続かなくね?」という感覚になる』らしい。
仲良いつもりで話しかけても、流暢に話せるようになるまでは時間が掛かるという、結構厄介な部類に入る人だということらしかった。
俺はもう知り合って長いので、そんなに意識することなく会話することができる。
そんなこんなで、しょうがなく俺も行くことにした。まぁ、見学だけして帰れば良いだろう。そんな軽い気持ちだった。
特別棟の横を抜けていくと、目の前にだだっ広いグラウンドが現れた。
さっき渡り廊下から見たときはもう少し小さく見えたが、こうして見る角度を変えてみるとその大きさは全然違う風に感じた。
だが、その広大なグラウンドには誰一人として活動している人がいなかった。
「えー、誰もおらんやん」
手島はグラウンドを見るなり、がっかりした様子で言った。
考えてみれば当然だが、時刻は1時。お昼の時間帯である。『昼食も摂らずに走れますあたし!』というバカ《美那》以外は、昼食を食べてから活動開始の部が多いのだろう。
畢竟、放課後すぐに陸上部に突撃してきた俺たちは完全に勇み足だった訳だ。
すると、手島は近くにある渡り廊下の影で昼食を摂っていたサッカー部らしき集団に近づいていき、物怖じせずにその中の一人に話しかけた。
「すみません」
え、ちょ、何してんのこいつ。先輩にいきなり話しかけるとか……。
すると、それまでの談笑が一瞬静まり、視線が一斉に手島の方に向いた。正直言ってこの先輩の無言の圧力的なものにはいつも恐怖を感じる。だから上級生に話しかけづらいんですよ……。
だが、不審の目は一瞬で優しげな先輩の笑みに変わった。
「ん?1年生?我が男子サッカー部を見学希望かな?」
「いえ違います」
手島が即座に否定すると、新入部員獲得のチャンスを砕かれた先輩は少し落胆するように肩を落としたが、手島は構わずに話を続けた。鬼かこいつ。
「あの、陸上部ってどこにいますか?」
サッカー部先輩は声のトーンを落としつつも「あぁ」と呟くと、後ろの石段を指さしながら言った。
「陸部なら、いつもあそこに荷物おいとるよ」
その方向を振り返ると、確かに石段のところに数人が固まって弁当を食べていた。
校舎群とグラウンドの間には、数mくらいの落差がある。
その間に、恐らくグラウンドで行われる試合を観戦するために、幅が広い石段が作られていた。そこを陸上部の荷物置き場としているらしい。
「ありがとうございます」
手島が頭を下げると、先輩は手をひらひらと振って、またサッカー部員と話を始めた。気がつけばサッカー部員は既にこちらへの興味を失っていて、それぞれ話に花を咲かせていた。
「すごいな、普通に上級生に話かけるんだな」
小声で手島に話しかける。感心したので褒めたつもりだったが、手島はキョトンとした顔で答えた。
「ん?普通やろ。それより、はよ陸上部の方行こに!」
それだけ言うと、またもスタコラサッサと行ってしまった。
やっぱりコミュ力あるよなこいつ。俺も頑張らないと。
それにしても、今日日スタコラサッサなんて言うのだろうか。語源はなんだこれ。父さんがたまに使う昔の言葉がうつったのかな。
またそんなどうでも良いことを考えていると、手島は陸上部の女子の先輩に話しかけていた。
「すみません、入部希望なんですが!」
……こいつ、ほんとに気兼ねしないな。
その女子の先輩は突然話しかけられたことにびっくりしたのか、目を見開いてポカンと口を開けた。
そして、どうしたらいいの、と隣の女子に恐る恐る尋ねた。びくびくしているその先輩を、ハムスターみたいだなと思った。
横にいた、短い髪をポニーテールにした先輩は、少し驚いていた後、弁当を横に置いて立ち上がると、不思議そうに目を細めて手島に尋ねた。
「入部?まだ見学期間やけどええの?」
そう言って少し考えるように目を逸らすと、すぐに「あっ」と思いついたのか、表情が明るくなる。
「もしかして、経験者とか?」
「いえ、未経験なんですけど、今日のリレーを見て格好いいな思って決めました」
手島が目を輝かせてそう言うと、何故かその先輩は「あぁ、なるほど」と気まずそうに笑った。口が引き攣っていて、目は全然笑ってないけれど。
ハムスター先輩も、つられて苦笑いをしていた。
俺はというと、さっきから妙な既視感に襲われていた。
この短いポニーテール、どこかで見たような……。
意を決して聞いてみる。なんとなく、この人かなというのが頭の中に浮かんでいたからだ。
「もしかして、さっきリレーで1走だった先輩ですか?」
確信はなかったけれど、さっき遠目で見たシルエットに何となく似ている気がしたのだ。
短いポニーテール先輩の反応は
「あー、うん。そうやね。私、
気まずそうな笑いがさらに気まずくなっていて、もはや苦々しい笑みになっている。隠していることがバレた、みたいな空気になってしまった。何かあったのだろうか。
「あの、何かあったんですか」
何となく雰囲気を察したらしい手島が、尋ねてみる。椎田先輩はさっと俯いて口を
見かねたハムスター先輩が、椎田先輩の後ろからひょこっと顔を出すと、
「あ、あのね。さっきのリレーのせいで、1週間見学活動禁止になっちゃったの」
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