I-10.受け入れる、抗う
「だ……誰だ!」
突然扉が開き、人が飛び込んできたのをその人は一瞬では理解できなかったようだった。しかし確実に人を殺傷できるような武器を虎野が持っているのを確認した途端、入口近くに誤って落としてしまった骨に目をくれることなく、理科室の奥に全力で逃げ出した。試験管やフラスコが机から落ちて割れようと関係ない。奥に逃げ道があるわけでもないのに、その人は一生懸命に逃げていた。対する虎野は元からの足の速さとすばしっこさを活かし、みるみるうちにその人に追いついてしまった。そして、俺はその様子を理科室の入口からそっと見守ることしかできなかった。
「やるね。なかなか自分の命が惜しいがゆえの行動だったんじゃない?」
虎野は床に散らばっていたガラスの破片を一つつまんでその人に見せつつ、にやりと笑ってみせた。突きつけられたなぎなたを前に、がたいのいいその先生は小刻みに体を震わせていた。少し遠くからその様子を見ていた俺にも、震えているのが分かった。
「な……何のつもりだ」
その人は絞り出すような声でそう言った。
「夜な夜な生物の授業のために準備……ね。よく学校中の全職員を、そんな陳腐な理由でだませたもんだよ」
「だました? どういうことだ」
「とぼけるなら、その手に持った骨は何? 明らかにその辺りの動物の骨じゃないもんね」
その男は入口に落とした骨の他に、右手にしっかりと骨を持っていた。人間の肋骨らしかった。
「これは……」
確たる証拠を見られたと思ったのか、男は明らかに焦った様子で言い淀む。その瞬間、
「がッ……!」
虎野がなぎなたで男の右腕を刺した。反動で骨を取り落とし、からん、と少し重たげな音が立った。俺は直視したくなくて、反射的に覗くのをやめた。
「言い訳は見苦しいよ。ホルマリンの臭いに紛れて……人の肉の臭いが、ちょっとするし」
胃液が込み上がってきそうだった。ホルマリンの臭いは思っていたより強烈で、生物室の外までその臭いは漂ってきていた。その中にわずかながらでも人肉の臭いが混ざっているのだと想像しただけでも、気持ち悪かった。と同時に、俺に人を喰うのは一生かけても無理だと嫌でも悟った。
「違う! これは……!」
ぼこっ。
虎野の苛立たしげな声と震える男の声の合間を縫うように、液体が沸き立つ音がした。辺りを見渡した虎野が、その音の出所に気付いた。
「……その鍋は?」
虎野は生物室の一番奥にある机の上で加熱されていた鍋を指差した。男がより一層、青ざめた顔をした。虎野が鍋に近付き、近くにあった箸で中身をつまみ出した。
「これ。人間の肉だよね。もう、言い逃れはできないよ」
今度は堪えきれなかった。音こそ出なかったものの、俺はその場で胃液を少し吐き出してしまった。喉に酸っぱい感覚が残って、余計に気持ち悪さを感じた。頭までくらっときて、その場に立ち尽くすことさえ厳しくなった。
「さあ。まずいよね? 夜な夜な生物室を開けて遅くまで何をしてるのかと思えば、やってることが人の肉を剥いで食べることだったんじゃ、信用も何もないもんね」
「違う! これは私が食べるなど、そんなことは」
「見苦しい」
声にならないうめき声が再び聞こえる。少しだけ俺が様子を見ると、左腕も刺されたようだった。
「……もういいね? 次は心臓だよ」
「やめてくれ……やめてくれ……」
俺は耳を塞ぎたかった。たとえその人が妖獣で、人間をそうやって調理して食べていたのだとしても、そういう悲痛な叫びは聞きたくなかった。もしかすると俺は目の前で人や妖獣が死ぬことよりも、そういう命の消える瞬間、必死に抗おうとするその姿勢に同情をしてしまうことが嫌なんじゃないか。そう思っていた。
「心配しなくていいよ。あなたの尊厳は保たれる。この場で死ねば遺体も即回収するし、今ああやってぐつぐつ煮込んでる人間の肉も、一緒に供養する。もちろん、骨も合わせてね。それから若干この部屋が荒れたのも直しておくから、せいぜい行方不明扱いになる。死後に実は妖獣だったって露見して、屈辱を受けることもない。逆に今素直にならずに抵抗して、万が一あの窓から飛び降りでもしたら、誰かには絶対見つかる。そうなれば私たちも何もなかったかのようにここを出るしかなくて、あなたが妖獣だったってことはすぐに明らかになる。それは避けたいでしょ?」
それを笑顔で話している虎野の姿が目に浮かぶようだった。俺は今二人の前に出れば命乞いをされるような気がして、その場にうずくまるしかなかった。虎野も邪魔をするな、と言いそうであった。
ごろん。
虎野が一通り話し終わってしばらくすると、そんな音が聞こえた。男が手に持っていた肋骨を手放し、床に転がった音だった。それはつまり、男が諦めた、虎野にここで殺されることを選んだという証左だった。
「……やっと諦めてくれたね」
そこから虎野がしっかりと男の命を奪うまでに、何秒とかからなかった。
* * *
「……終わったよ」
相変わらず生物室の近くの廊下でうずくまっていた俺を、虎野が呼ぶ声がした。おそるおそる俺が開きっぱなしになっていた生物室の入口から中を覗くと、そこはもうさっきまで広がっていた、強盗に荒らされた後のような様子はなかった。
「……見てた?」
俺は虎野のその言葉で、何を答えてほしいのかは分かった。
「いや。……見れなかった」
「そっか」
虎野はそれ以上俺に何も言わなかった。結局口を開くことさえないまま、俺は途中で電車を降りて、家路についた。
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