I-09.生物室とホルマリン

「出たよ。今度は少し遠くだけどね」


 高原に背中を押されてから、二週間ほど経っていた。佐山のことがあってからそれまで一切俺と口をきこうとしなかった虎野だったが、急に何事もなかったかのように話しかけてきた。


「……今度は」

「大丈夫。偶谷が言うところの、悪い妖獣だから」


 実を言うとそれだけが心配というわけでもない。確かに人を襲いまくって喰いまくる妖獣が悪くて、人を喰うのがよくないことだと思いつつ、仕方のないことだと割り切っているのがいい妖獣だ、と俺が見ていないわけではない。だが妖獣をそれだけで判断するのはどうなのか、という気もしていた。


「少し遠くって、ここじゃないのか」

「うん。確かにこの学校は裏山のせいで妖獣の出没が多いけど、他のところで全く出ないわけじゃないんだよね。しかもここだと獣型が多いけど、他の地区だと人間の姿をしている連中がほとんど」

「……ってことは」

「今回のターゲットも、人型だよ」


 それを聞いて、俺は一瞬断ろうかと考えた。断ろうとすれば俺が始末されかねないのは分かっている一方で、断った時虎野がどんな反応をするのか、見てみたい気持ちもあった。


「今断ろうとしたでしょ」

「……どうして分かった」

「まあ、前回のことがあったし。私もあれに関しては、百パーセント私が正しいとは思ってないから」

「弁明のつもりか? 人が一人死んだんだぞ? しかも、」

「……それ以上は言わない方がいいよ」


 俺は気が付くと、虎野に教科書で口をふさがれていた。それで落ち着いて周りを見てみると、俺が大きな声を出しているのが気になったのか、何人かが俺の方を見ていた。俺と目が合った奴は見てはいけないものを見てしまったかのように目を逸らした。


「注目されてるから。あとは、放課後話そう」


 相変わらず虎野が何をしたいのか、何を考えているのか、俺には分からなかった。



* * *



「……ごめんね。最初から、放課後に全部話すべきだった」


 さすがに放課後になると俺も虎野の方も落ち着いていて、虎野が俺と合流するなりそう言った。


「俺こそ、声を荒げるのは止めた方がよかった。ごめん」

「……」


 それから駅まで歩く道で、しばらくしゃべることはなかった。しかし話の続きをまだされていないことをふと思い出して、俺は駅に着く寸前で話を切り出した。


「あのさ。朝言ってた話って何だよ」

「……ああ。言ってなかったね。てっきりああ言うもんだから、来ないんだと思ってたけど」

「来ないと思ってたって、俺が行かなきゃまずいんじゃないのか」

「ちょっとうぬぼれすぎなんじゃない?」

「ぐっ……」


 虎野の言う通りだった。何だかんだ言って、俺は一度も戦っていないのだ。ごめん、と俺が言おうとすると、


「なんてね。冗談、冗談。じゃあ明後日の夜七時、偶谷の家の最寄り駅で」

「え?」

「こっちとは反対方向だから、この駅とかうちの高校に集まったって意味ないからね」

「……分かった。夜七時だな」

「よろしくー」



 二日後。

 いつも通り言われた時刻の十分ほど前に着くと、ちょうど夕方のラッシュ時で駅からはたくさんのサラリーマンが出てきていた。改札を出てきたスーツ姿のその人たちはそれぞれの家の方向へ散らばる。歩いて帰るのだろう人もいれば、バス停の前で歩みを止めて腕時計を確認する人もいた。


「こんな時間に帰ってきたことないからな……」


 義母かあさんをはじめうちの家族はみな、俺のことを随分心配してくれていて、帰りが少しでも遅いとすぐ電話をかけてくる。大抵高原が職員室に用があるとか、そういうちょっとした理由で学校を出るのが遅くなっているだけなのだが、帰ってくると心から安堵した、というような表情を浮かべられてこちらがげんなりしたことが何度かある。

 部活をするつもりは今の所俺にはなかったから、想像でしかないが部活終わりだとこんな時間に帰ってくることになりそうだな、と俺はぼんやり思っていた。実際、サラリーマンにまぎれて何人か高校生とおぼしき男女が改札を出てきていた。そして、


「お待たせ。よかった、電車遅れてなくて」


 うちの高校の制服を着て、虎野が俺の目の前に現れた。ぼんやりしていたので虎野が来ていたことに俺は気付かなかった。


「じゃ、行こっか」


 虎野は少し驚いた表情を浮かべる俺を尻目に、さっき出てきたばかりの改札へ再び入っていった。



* * *



 十数分待って乗った電車を降りたのは、四駅先。いつも長いこと電車に乗って通学している俺からすれば大したことのない乗車時間だった。

 降りてから比較的すぐのところに目的の学校はあった。まだ部活が終わって間もない時間で、ちらほら校舎の一部に明かりがついていた。セキュリティに問題がなさそうなのは、幸か不幸か。


「ここに残ってる先生はみんな、残業か何かだと思うでしょ?」

「違うのか」

「みんな残業だったら、よかったんだけどね」


 高校教師も大変だ、という話は聞いたことがある。自分の担当の教科を教えるだけが仕事ではない。およそ先生らしくない、他の誰かに任せてもいいような仕事も多いらしい。中学の時の担任がふと、愚痴るように俺にそう言っていたのを思い出した。こんな仕事ばっかりだって知ってたら、先生なんて志さなかったと。ただそれ以上に教えることが面白いから、何とかやってるとも。


「……ところがこの高校じゃ、そうとも限らない。あれ。最上階に明かりがついてるでしょ」


 虎野の指差した方向を俺は見た。確かに最上階の一番奥の教室が、こうこうと明るくなっていた。位置的にはどこかの学年の教室というより、特別教室というところだろうか。


「この高校……って言っても同じような構造のところも多いだろうけど、最上階は特別教室が並んでる。音楽室から美術室、化学室と物理設備室とかね。そして、あの端っこの教室は、生物室」


 その瞬間俺は何かを察して、背筋を冷たいものが流れた気がした。生物室でやることと言えばと思い出せば、虎野が何を言いたいのか分かった。


「もちろんあそこにいるのは生物担当の先生。二年生の担当だったかな。入った瞬間押し寄せる強烈なホルマリンの臭いに紛れて何をやってるのか、もう何となく分かるよね」

「……そんな情報、どこでどうやって」

「前に言ったじゃん、退妖獣使のほとんどは警察の管轄下の組織に所属してるって。まあ大方、現場をこっそり見ちゃった職員か誰かが、話が広まって殺されるのが怖いから早いうちに警察に通報した……そういうところかな」

「じゃあ今も、」

「そういうことだね。ずかずか乗り込んでってバレるとどう出られるか分からないから、こっそり入ってさっさと仕留めるよ」


 そう言うなり虎野は俺を半ば置いていくようにして、こっそり入ると言った割には堂々と、正門を乗り越えて構内に入っていった。


「……なあ、虎野」

「何?」

「勝手に入って、よかったんだよな」


 何言ってんだこいつ、と思われるだろうと思いながらも、俺はそう言った。すると虎野が少し笑みを浮かべて言った。


「なるほどね。つまり怖いんだ。夜の校舎なんて来たことないから怖いんだ」


 つまりそういうことだ。

 佐山の時は考えもしなかったことだ。改めて冷たく暗い雰囲気の校舎の廊下を歩くのには、さすがに怖さを感じた。音を立てないようこっそりと歩いている、という意識がなければ、俺は今すぐにも逃げ出していただろう。


「大丈夫だって。すぐ終わるし、それに別に一人でここに来てる訳じゃないじゃん」

「虎野は怖くないのか」

「慣れてるからね。それに、退治した時に血まみれになる方がよっぽど怖いし」

「……確かに」


 よく考えてみれば、妖獣をなぎなたで刺し殺して血まみれになっている。その状況を見慣れてしまっていることも問題だが。


「しっ。音が聞こえる」


 話しているうちに目的の生物室前までやって来ていた。さすがに俺も口を開くのをやめて、虎野の後ろでそっと様子を見ることにした。耳を澄ませると、


 こぽ、こぽ


 と何か液体が泡立つような音がかすかに聞こえた。それとともに、強烈なホルマリンの臭いが鼻をつく。それで嗅覚が軽くマヒしたせいか、他の臭いは感じ取れなかった。


「偶谷はここにいて。現場を見たいって言うほど悪趣味じゃないのは知ってるから」


 虎野がそう言っていっそう慎重に生物室の入り口に近付いた、その時だった。


――からんっ


 不気味な音を立て、入口のところに何かが落ちた。虎野は扉を開けようとした姿勢のまま、凍り付くようにして固まった。俺は物陰に隠れていた立場を利用し、目を凝らしてそれが何かを見た。……それは、人間の骨だった。大きさや太さからして、人間の腕の骨、といったところか。


「……誰かいるのか?」


 生物室の中からそう、声が聞こえた。こちらの気配を察したらしかった。その瞬間覚悟を決めたのか、虎野が勢いよくドアを開け、中に飛び込んでいった。


「くっ……!」

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