料理人の過去

 あじみに初めて出会ったのは、俺が高校を卒業後に進学した料理学校だった。


 俺は父の勧めで料亭『真田』に勤めることに決まっていた。しかしまだ技量が足りないことを指摘され、また俺自身も分かっていたことだから、修行の一環として、入学したのだ。

 名門と呼ばれた福部料理学校の『和食科』で俺は頭角を表した。それはそうだろう。幼い頃から父に料理を教えられていた俺にとって、周りの人間を追い抜くことなど、容易いことだった。

 学ぶべきことはたくさんあったが、肩を並べる存在はほとんどいなかった。

 ――あじみを除いて。


 福部料理学校は名門にありがちであるが学費が高い。特に『和食科』は普通の料理学校より五倍はあるだろう。一部のお金持ちの子息か、料亭の後継者、俺みたいに一握りの奨学生でなければとてもじゃないが通えないだろう。

 しかし大衆料理専門の『洋食科』というものが設立されたのは俺が入学したときだった。名門にしては学費が手頃だったことを覚えている。

 そこに入学してきたのがあの薬師あじみだった。


 知り合ったきっかけは料理学校の食堂だった。値段が安価な割りに美味しかった。しかし利用するものはほとんどいなかった。授業で自分が作ったものを食べたり、他人が作ったものを食べたりするから、すぐに満腹になってしまう。だからいつもお腹を空かせなければならない。

 だがその日は別で、俺はお腹が空いていた。

午前中の授業で作ったのはお吸い物で、それに加えて、ほとんど同期や先生に食べられてしまったのだ。


「岡山、お前の料理は美味い。他の者も食べてみろ」


 先生の一言で同期に喰い尽くされて、何も残らなかった。

 また俺が他人の料理を食べようとすると拒否された。


「岡山くんに食べさせるのは、恥ずかしい」


 ふざけるな。食べさせるために作ったんじゃないのか。

 午後の授業は座学だ。仕方なく腹の減った俺は食堂に来た。

 食券を買って、差し出す。混んでいなかったので料理はすぐ来た。

 好物のハンバーグ定食だ。俺は席について、食べ始めた。

 ハンバーグを一口。うん。美味しい。多分授業で使われている牛肉と豚肉が流用されているのだろう。申し分ない。しかし――


「なんや。ソースが気に入らんな」


 心の中で思っていたことをずばり言い当てられて、ぎょっとして声のしたほうを見ると、近くの席で女の子三人が話しながら食べていた。


「えー! 美味しいじゃん! あじみちゃん、おかしいよ」

「三好ちゃん。これ食べてみ? そう思うで」

「……あじみ、声が大きいよ」

「菊池ちゃん、堪忍やで。でも思ってしもたんだもん」


 よく見てみるとショートヘアの茶髪の女の子が騒いでいる。それを二人の女の子がなだめている。

 あじみと呼ばれた女の子はなかなか可愛らしい顔をしているが、どこかがさつな印象を受けた。背は低い。座っているから分かりにくいが、俺の頭二つ分小さかった。


「前食べたときは美味しかったんやけどな。何が足らんのかな? うーん、分からん」


 俺はハンバーグを食べて、何が足らないのか、考えた。

 そして、答えが出た。


 俺は立ち上がり、いつまでも騒いでいる女の子に近づいた。


「セロリが足らないんじゃないか」

「えっ? なんですか?」

「……あなたは?」


 急に話しかけられて驚く二人の女の子。しかしあじみは違った。


「それやー! 確かにセロリが足らん!」


 立ち上がって、あじみは俺の手を取った。


「あー、すっきりした! おおきに!」


 にっこりと微笑むあじみに俺は照れくささを感じて、目を反らした。


「別に構わない。俺もソースが気に入らなかっただけだ」

「あんた、何者なん? 洋食科の生徒じゃないな」


 俺はあじみが洋食科の生徒だと知った。俺は「和食科だ」と短く言った。


「えっ!? 和食科?」

「……どうして、和食科の生徒が食堂に?」


 多分、三好と菊池という名前の女の子が驚く一方、あじみは「へえ。和食科でも洋食のこと分かるんやな」と感心していた。


「俺は腹が空いてここに来ている。それに和食だけしか作れないわけではない。それでいつまで俺の手を握っているんだ」


 俺の言葉に照れることなく「ああ。ごめんな」と言って離してくれた。


「あんたの名は?」

「俺は岡山四郎だ」

「うーん? どこかで聞いた名前やな」


 首を捻るあじみに三好が小声で「和食科で有名な人だよ」と小声で言った。


「そっか。あたしは薬師あじみ。よろしゅうな!」


 人懐っこいあじみの笑みに、俺はつられて笑った。


「よろしくな。薬師さん」


 これが後にライバルとなる薬師あじみとの出会いだった。




 顔なじみになった俺たちは食堂で話をするようになった。

 授業のこと、先生や同期のことなどいろいろ話していたが、一番盛り上がったのは料理についてだった。


「串かつは牛肉やろ!」

「いいや豚だ! そこは譲れない」


 こんなどうでもいいことを議論するのは、なんだか楽しかった。周りの同期が俺を崇めたり敵視する中、あじみだけが俺を真っ直ぐ見てくれた。

 そんな俺たちを呆れながら見守っていたのは、菊池と三好だった。二人は料理の腕はたいしたことないが、優しい人間だった。


 あじみの料理を初めて食べたのは、知り合って一ヵ月後のことだった。


「良かったら食べへん? 実習の残りやけど」


 差し出されたのはタッパーに入ったナポリタンだった。

俺はいただきますと一言言ってから食べた。


「…………」

「なんやの、黙り込んで。そないに美味しくなかった?」


 逆だった。今まで食べたナポリタン、いや洋食よりも美味しかった。

 今まで食べていた物が、それこそカスに思えるくらい、美味しかった。


「……あんた、勢いよく食べ過ぎやわ」


 ハッとして我に返ると、既にナポリタンが無くなっていた。


「……美味しかった。こんなに美味しいナポリタンは初めてだ」


素直な感想を言うと、あじみははにかんで笑った。


「おおきに。あんたに褒められると物凄く嬉しいわ」


 このとき、俺はあじみに才能があるのだと気づいた。

 そして思い知らされたのだ。俺にはない何かをあじみは持っているのだと。


 それから俺もちょくちょくあじみに作った料理を渡すようになった。


「美味いなあ。やっぱりあんたには才能があるわ」

「あじみに言われたくない。聞いたぞ。洋食科で主席だと」

「それブーメランやわ。あんただって主席でしょ」


 あじみはとても美味しそうに料理を食べる。俺もあじみの料理を食べる。

 この瞬間がたとえようもなく、楽しくて幸せだった。


 そして卒業式を迎えた。


「あじみ、お前はどうするんだ?」


 学校の入り口で俺が訊ねるとあじみは「とりあえず、知り合いの店で働くわ」と言った。


「一国一城の主になるには経験と資格が足らんからな」

「なあ。良かったら――」


 俺と一緒に料亭で働かないかと言いかけた俺の唇にそっと指を当てるあじみ。


「あはは。それあかんわ。あたしは洋食専門やから」

「お前は何でも作れるだろう」

「あんたとはライバルでいたいねん」


 あじみは俺に向かって言う。


「いつかあんたを超えてみせるわ。待っとけよ!」

「俺なんかとっくに超えてるよ」

「謙虚過ぎると逆に嫌味やわ。まあええわ。それじゃあまた会おうな!」


 あじみは三好と菊池の元へ向かっていく。愉快そうに笑いながら、去っていくあじみに俺は――


「ああ! 絶対会おう! それまで料理人続けてろよな!」


 それからしばらく、あじみと会っていなかった。俺も修行で忙しかったし、あじみも忙しかったからだ。メールでのやりとりは続いていたけど、直接会うことはなかった。


 俺が二十一になった年。


「ねえ。岡山くん。あじみ知らない?」


 三好から電話がかかってきた。


「いや知らないが、何かあったのか?」

「連絡が取れないのよ。それで気になったら、職場辞めちゃったのよ」


 俺は嫌な予感がした。


「警察には通報したのか?」

「ううん。まだ。変に騒ぎ立てると迷惑になるし」

「家族はどうだ? 何か聞いてたりしないのか?」


 その質問に三好は「えっ? 知らなかったの?」と驚いていた。


「あじみは孤児なの。施設育ちなのよ」


 それから三年間、あじみは何の音沙汰はなかった。

 まるで最初から居なかったようにいなくなってしまった。




 あじみから連絡が来たのは、三年後。

 仕事を終えて、ケータイの電源を入れて、気づいた。


『明日、会えへん? 電話待ってる』


 短くそれだけが書いてあった。

 俺は急いで折り返し電話をかけた。


「あ、あじみか? お前、一体どこにいたんだ?」

『ああ、四郎。久しぶりやな』

「心配したぞ。お前、今どこに居るんだ!」


 あじみはなかなか返事をしなかった。


『明日、料理学校の入り口前の公園に来てくれへん? 時間は17時でどうや?』

「ああ。別に構わないが――」

『それじゃあ。また後で』


 そう言って電話は切れた。俺は何度か掛けなおしたが、電源は切られていたから、つながらなかった。


 当日。俺は十六時半に公園に着ていた。まだ来ないだろうと思っていたが、あじみは既に来ていた。

 あじみは所在無さげに公園のベンチに座っていた。


「あじみ! お前、どこに行ってたんだよ!」


 俺が近づくとあじみは顔を上げた。


「四郎……よく来てくれたなあ」


 あじみは今にも泣きそうだった。


「あじみ。お前――」


 最後まで言えなかった。あじみが俺に抱き付いてきたからだ。


「……あじみ?」

「ごめんな? しばらくそうさせて」


 俺は戸惑っていたが、ゆっくりとあじみの後ろに手を回した。


「どうして連絡取らなかったんだ?」

「ごめん。言えへん」

「どこに居たんだ?」

「それも言えへん」

「何か、あったのか?」

「……それも言えへんねん」


 俺はなんて言っていいのか分からず、そのまま抱きしめていた。

 夕日がゆっくりと沈んでいく。


「ありがとうな。急の呼び出しに応じてくれて」

「別にそれはいい」

「あたし、店持つことになるわ」


 あじみは脈絡もなく話を振った。


「あんたの料亭には負けるけどな。小さなあたしの城や」

「良かったじゃないか」

「ほんまは良くないんやけどな」

「……どういう意味だ?」


 あじみは笑って言う。


「なんでもあらへん。ほな、あたしはもう行くな。また会おうな!」


 そう言ってあじみは足早に去っていった。


「――あじみ!」


 俺はあじみに呼びかけた。あじみは俺のほうを振り向く。


「三好や菊池にも知らせろよ! それからいつか俺の店に来い! 美味しいもの食わせてやるよ!」


 その言葉に、あじみはにっこりと笑った。


「ほんまにありがとうな! 元気出たわ!」




 それから七年後。

 俺はコンクールであじみに負けて、あじみはその半年後に死んだ。

 稀代の料理人、奇跡の料理人と謳われたあじみ。

 あいつの人生に何が起きたのか。

 俺は何も知らなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る