二人の料理人
「料理で重要なのは素材ちゃう。料理人の腕や」
そう言って憚らない稀代の料理人、いや奇跡の料理人と噂された薬師あじみ。
かつて、一度だけ酒を飲み交わしたことがあったときに、酔いながらも自論を恥ずかしげもなく、おおっぴらに言った。
「ええか? 料理人の腕ちゅうのは包丁の扱い方や火加減や湯加減やないねん。調味料の使い方と発想のスケールなんや。それを四郎、わかっとるか?」
四郎というのは俺の名前だ。
誘われたのはとあるコンクールの料理対決の後。
そこでおれは目の前の女に負けた。
惜敗ではなく、惨敗したのだ。審査員は五人居たが、五人ともあじみに票を入れた。
収録が終わった後、あいつの料理を口にして、思い知らされた。
俺が凡人で、あじみは天才だということに。
「だからな、素材なんてものは関係あらへんねん。100g何万円の牛肉でも素人が調理したらクズになってしまう。逆にスーパーの安売りのクズ肉でも、至高の料理になり得るのや」
「それは極論だ。素材や調理の技量はやはり必要だ」
俺は精一杯の反論を述べた。負け犬が何を言おうが滑稽になることは承知の上だった。
でも言わねばならない。そうしないと俺の築き上げたモノが崩れ落ちそうだったから。
「お前だって、既に言っているじゃあないか。素材の良し悪し。プロと素人。それによって料理は大きく変わると。酔っていて頭がおかしくなったのか?」
事実、あじみは泥酔していた。それは勝った喜びではないことは知っていた。単純に酒に弱いのだ。こんな高級なバーに居ること自体がそぐわないほどに。
「うーん。なんやろ。あたしが言いたいのは、そういうこっちゃないんやけど」
「はっきり言え。今日だけはなんでも付き合ってやる」
「えらい素直やな」
「お前に俺は負けた。それは事実だ。敗者は勝者に従う。それが流儀だ」
あじみは俺の言葉を聞いて、シニカルに笑った。
「あんな味の分からん素人審査員にあんたの料理の何がわかんねん。あたしは単に審査員の好みそうな味を作り出しただけや」
「それがお前の天才たる由縁だがな」
「ちゃうねん。あたしは天才ちゃうねん。本物の天才に出会ったことがあるから分かる。天才ちゅうのは、もっと、こう、凄いねん」
「……お前以上の天才なんているのか?」
途方もない話だ。あじみのような天才が認める天才とは一体何者だろう。
「ああ。料理人ちゃうで。別分野の天才や」
「ややこしいな。それで、その天才ってどんな奴だ?」
「知らんほうがええ。死ぬで?」
天才の素性を知っただけで死ぬのか? どんな天才だよ。天才じゃなくて天災の間違いじゃないか?
「まあ話せる範囲で言えるなら、その天才にできないことはないな。おそらく、プロの料理人レベルの料理を一日で習得できるやろ」
「ふうん。そいつは凄いな」
「ま、あたしとあんたには勝たれへんやろけどな」
あじみは俺のことを高く評価していたようだった。こんな凡人を、自分と同じ天才と見ていたのだ。他者の評価が異常に高い。
案外、天才の話は盛っているのかもしれない。
「ううん? 何の話やったっけ?」
「料理人の話だ。料理で一番重要なものの話だ」
「ああ、そうやった。それでな、技量のことなんやけど、あんまし関係ないと思とる。だって考えてみ? 手間かけてみじん切りしたものとフードプロフェッサーを使ったものに味の違いが出るか? 火加減に注意したものと圧力鍋で作ったものに違いがあるか? 答えはあらへん。関係あらへん」
それも極論だと思ったが、俺は黙ってグラスを傾けた。
「要するに、料理だけやない、人間大事なのは味付けと発想なんや。この料理にはこの調味料を使ったほうがええとかそんなんや。だからあたしがこだわるとしたら調味料やな。これだけは真剣に神経尖らせて厳選しとる」
「それがお前の料理に秘密なのか、あじみ」
俺の問いにあじみはつまみのナッツをかじってから頷いた。
「そやな。塩一つでもかなり違うで。ミネラルを含んだ塩なんて最高や。どうや? あんたにも譲ってやろか?」
そう言って取り出したのはコルクで蓋された透明な瓶だった。中には塩らしきものが入っている。
蓋を外して、俺の手のひらに落とした。俺はそれを舐めてみる。
「……美味いな。この塩、どこで仕入れた?」
「後で教えたる。ここだといろいろまずいからな。これで分かったやろ? 調味料で料理が、世界が変わることが」
俺は「もったいないな」とあじみに言う。
「高級素材でその調味料を使えば、とんでもない料理が出来上がるのに」
「あんたのところと違って、そんなお金ないわ。個人経営のツラいところやな」
「なあ。俺の店に来ないか?」
俺の誘いにあじみは「なあに? あたしを口説いとるん?」に笑っていた。
「そう取ってもらっても構わない。俺の資金とお前の腕、両方合わされば究極の料理ができる。総料理長の地位を譲ってもいい。俺は引退しても構わない」
「そないに情熱的に口説かれたら、本気にしてしまうわ」
「俺は本気だ。というより本気で受け取れ」
俺はこのとき、打算はなかった。俺の目標とする究極をこの女が作り出してくれるのなら、何も惜しくなかった。
地位? 名誉? 金? そんなものはいらない。
欲しいのは、究極の料理だけだ。
「……普通なら、あんたの誘いに乗るのが正しいけど、それはできんわ」
あじみは俺を悲しげに見つめた。
「何故だ? 不満があるのか? 三ツ星の料亭では不満なのか?」
「そんなんちゃう。通ってくれるお客さんのこともそうやけど、あたしは、幸せになったらあかんのや」
俺はあじみが何を言っているのか分からなかった。
「幸せになるのは悪いことではないぞ?」
「あたしは幸せになる資格はあらへん。とうの昔に失くしてしまったわ」
いつも陽気で愉快なあじみが一瞬だけ、顔を曇らせた。
ほんの一瞬だが、いやに気にかかった。
しかし、急にいつものテンションになり、俺に軽口を叩いてきた。
「あんたもあたしみたいなおばさんと口説いてないで、若い人でも誘っとき!」
「あじみは俺と同じ三十一歳だろう」
「ぎゃああああ! 年齢のこと言わんといて! 悲しくなるから!」
その後の会話はあまり覚えていない。俺も相当酔ってしまったからだ。
こうして、料亭『真田』の総料理長である俺、岡山四郎と大衆食堂『あじみ屋』の女主人、薬師あじみの最初で最後の邂逅は終わった。
それ以来、俺とあじみは互いの仕事が忙しく顔を合わせていなかった。
顔を合わせたのは、それから半年後。
俺の元へ手紙が来た。
その手紙を読んだとき、俺は膝から崩れ落ちた。
周りの弟子や部下が心配する中、俺は信じられない思いで一杯だった。
「あじみが、薬師あじみが、亡くなっただと……!?」
訃報を知らせた手紙が、俺の手から離れた。
ひらひらと舞い、床に落ちた。
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