15:誰がために鳴らす鐘か

 見上げる空は暗澹としており、黒く濁った雲が今にも落ちてきそうなほどに重く垂れ込めている。今夜は激しく降るかもしれない。

 この頃天気が安定しないという印象があった。夕方には崩れるような日が多いような気がする。まるで、冴えない現状を現すかのように。大護は黙々と山道を上がり、住まいである古寺へと向かっていた。

 片道およそ三十分。国道沿いにある廃れたハイキングコースからつながる寺に、何かの用事でもない限り誰も訪れることないだろう。山道といっても最低限の踏み場があるだけで、木々の枝が左右の視界をさえぎり足元を覆う雑草は靴底を滑らせる。


 軽く息が途切れる頃には、切り開かれた緑の奥に古い寺を見ることが出来た。

 低い天井に日の差さない立地にある寺は、薄暗い気配をまとっているようで不気味だった。こればかりは、大護もまだ慣れていない。

 周囲は雑木林ともいえる。人が出歩く最低限の手入れしか行き届いていない。


 裏口から院内へと入り、廊下を歩いてあてがわれた部屋へ……とするが、足が動かなかった。大護は鞄だけを部屋に放り投げ、仏間へと歩を向けた。


 ひんやりとした廊下を歩く中で、足音が消えていることの気がつく。

 いや、消えているのではない。自分が動くことで出る音も、心臓の鼓動でさえも、同調しているのだ。

 自然に一体化しているように、耳になじむそれはあまりにも静かに、聴覚はその声を瞬時に体へとなじませる。


「……ずいぶんと拳を濁らせたな」


 広く大きな仏間には、大仏を前に一人の大男が身じろぎもせず、唱えていたお経を閉ざした。

 それだけで、木々の間から漏れる虫の声や吹いてくる風の音、新緑の葉が重なりそよぐささやかな音が耳に届き始めていた。


「和尚様……」


 左文字典石さもんじてんとく。それがこの寺唯一の僧侶であり、大護の身を引き取った、また武術の師でもある。

 音もなく立ち上がった左文字の体は二メートルを超えている。

 太く、まるで樹木ほどはあろうかという分厚い筋肉をまとう腕に、お袈裟の内側には隠しきれないほどの分厚い胸板を持ち、数珠を握る手は岩のごとく研ぎ澄まされていた。


「負け戦か」


 岩盤を削るような太い声が喉から漏れ出し、大護の体をわずかにこわばらせた。

 大護は一瞬ためらいの沈黙を落とした後、小さく息をついて首を縦に振った。


「僕の拳は届かず、心も届かず。……何も成せませんでした」


 ただ負けたことだけが悔しいわけじゃない。

 明智翠子という、リリアンにとっても友人と言える人のために剥いた牙が、あっさりと折られた。彼女への侮蔑を許した……それが最大の苦痛だった。


「構えろ」


 袈裟を脱ぎすて作務衣と身を軽くした左文字は、仏を前にして大護に向き直った。


 大護は何も言わず、奥歯をかみしめたまま肩幅に足を開き、軸足の左足をさげ肩をリラックス、拳は軽く握り胸の前に持ち上げる。


「その機械は外しておけ。破損しても修理できんぞ」


 『インデコ』のことだろう。大護は一瞬指を添えて中にいるリリアンに気を向けた。リリアンからは何の返答もなく、これを肯定とった大護はベルトを外して静かに床へ置いた。


 再び構えなおし、体格差は二回りも大きな左文字へと体を向ける。沈黙が、再び仏間に無音をもたらす。


 大護の背中には粘つく汗が張り付いていた。ただ向き合うだけで気力はごっそりと削られる。体躯の違いだけではない。荒く削られ、骨格までもむき出しになった拳はまっすぐに大護を捉えていた。


 足は床から生えた大木のようで、不動という言葉が真っ先に浮かぶ。大地と一体化したこの足がどう動くのか、想像がつかない。


 だが、知っている。


「……っふ!」


 短く息を吸い込むと、それを一瞬で全身に息吹を巡らせ筋肉の収縮に反映され、大護の右の前足は床の上を弾いた。構えたままの体の姿勢そのままを維持し前へとスライドさせる。

 打突させるは軽く握った左の拳。勢いをそのままに肩から肘に筋力の火花を散らせ、まっすぐな突きが巨躯へと打ち出された。


 だが、知っている。そんなやわな拳がまっすぐ通るわけがないということを。

 左文字は大護が踏み出す瞬間、同じく右に構えていた体を開き、その足は床を滑るようにしてなめらかに前進、大護が拳を打ち出す寸前に左に引いていた拳を握りしめ腹部へと押し当てた。


「っぐあ!?」


 大護にしてみれば、飛び込んだ先に真正面から杭が打ち出された形になった。カウンターの直撃を受ける。岩のように研がれた拳は深く大護のみぞおちに突き刺さった。

 左文字の拳に足をもたつかせ、痛みを感じる前に床へと背中を投げ出してしまう。


 嗚咽も後からせり上げてくる。気がつけば自分の体を地面に這わせ、体をくの字にしてうずくまっていた。拳を受けてから先の記憶がない。いつ自分は地面に墜落した?


「ぎ……う……」


 ガタガタと震える膝を押さえながら、なんとか立ち上がった。しかしそれだけで体力を使い果たしたようで、腕を前に出し構えるものの、かかとは床から浮いている。踏ん張りがきいていない。


「ま、まだ……やれます」


 絞り出した声で唸り、大護は前に大きく右足を踏み込むと、そこを軸にして腰を入れ、体躯を横に滑らせる。潤滑油となった蹴り足の勢いはスムーズな左回し蹴りとなり、左文字の右手で弾かれる。重量ではかなわない。それは何度も何度も、この僧侶から学び身にしみている。


「せあッ!」


 蹴り足は左文字の腕の上で軽く跳ね、すぐさま真下へと足の底を落とした。前進した歩幅は一歩分。蹴りのために踏み込んだ半歩と繰り出した蹴り足を下ろしたことで、左文字の懐へと身をよじらせ入り込む。


「ぜええい!」


 繰り出す拳は右正拳突き。蹴り足を軸足にして下がった右半身を腰で回して全身の力を拳に乗せて打ち出した。


「……お前は、いつから代弁するために拳を握るようになった」


 渾身の右拳は、左文字の腹部へと突き刺さっていた。だが、右手からはタイヤを殴ったような筋肉の弾力で衝撃は緩和され、あっさりと拳は引き抜かれた。


「それはお前の心ではない。誰かが代弁して、当人はそれで解決するものか」


 ぎくり、と大護の顔から血の気が引いていく。冷水が血管から注入されたかのように、全身が凍りついていく。


「要はお前の忍耐力の問題だ。ただ痛みに我慢出来ず暴れ出したヒステリーにすぎん」


 握られた右の手首が強く握られ、大護は苦痛に顔をゆがめた。


「お前は他者の痛みに耐えられなかった。正しくは「痛みを他者が受けていることに耐えられず」拳を固めた。しかし、それが何故「誰かのため」の力になると思い上がった」


 不意に重圧が消える。右手は解放され、我に返り構え直そうと上体を起こした視界には、あの巨漢は見当たらなかった。


「所詮は「我が身可愛いさ」だ。憤怒に身を任せた方が「気楽」だからだ。責任はお前にない。だからこそ他愛もなく拳が握れたのだ」


 左文字はただ体を前に開き、半歩大護の側面に踏み込んだだけだった。しかし大護は痛みの熱とプレッシャーに負け、回り込んだ左文字のフットワークに反応できなかった。

 巨木は音もなく床を滑り、筆を踊らせる書道の動きを彷彿とさせる。


 横についた左文字は掌底で大護の顎をたたむように、真下から打ち出した。その一撃すら認識できないままだった大護の膝はあっけなく崩れ、うつ伏せなって倒れた。


「今しばし頭を冷やせ。そして真にやるべきことを明確にせよ」


 作務衣の裾すら乱さず、左文字は袈裟を手の取ると仏間から姿を消した。その姿を目似ているというのに、視界から消えれば存在しなかったのではないか? と思えるほど環境が変わる。

 山の葉が重なり合う音や虫の音色。それらが改めて今になり聞こえてきた。


「……「代弁」……「我が身可愛いさ」か……」


 部屋の隅に置いていた『インデコ』から光が漏れる。リリアンは姿を現すと、倒れている大護の側でため息をついた。


「どうしたの? 僕、まだやらかしてるところあるっけ?」

「いや、貴様と同じだ。我も怒りにまかせ目的を見誤った」


 今までに見たことがないほど、リリアンは意気消沈している。心なしか、背中の羽までしぼんでいるように見えた。


「あの和尚……只者ではないな」

「ごめん、紹介する間がなかった……あれが今の僕の保護者でもあり、武道の師匠でもある人なんだ」

「武道……確かに、尋常ならざぬ気配の持ち主だった。何故あんな武人と出会い、教えを学んだ?」

「……それに関しては、また後で話すよ」


 でも。そう言って体を起こした。

 まだ握られた手首が痕を残している。その右拳を強く握り、一つ息をつく。


「どうするのだ?」

「……やるべきことを勘違いしてた。ただ自分が納得いけばいいだなんて、確かに虫の良い話だと思う」


 大護はリリアンの目をまっすぐに見て言った。


「これは明智先輩の問題なんだ。僕らが横やりを入れても意味はない。ただ侮辱されて憤るだけなら誰でも出来る」


 『インデコ』を拾い腕につけ直す。手早くタッチパネルに指を弾かせ始めた。


「僕らは待っていよう。あの人が自分の足でリングに向かう姿……ハリーとのこともある。それに」


 リリアンに向かい、大護は微笑を浮かべた。


「友だちなんだろ? なら、背中を見守るのもまた役目じゃないかな。自分勝手で手を出すよりも、側にいることを感じてもらう……「一緒にいるよ」って、伝えることが大切だと思う」

「……「一緒にいる」、か」

「まあ、受け売りなんだけどね、この言葉は」


 大護はしゃがみ込むとリリアンに目線を合わせ、笑みを見せた。


「それはリリアンとも同じく。僕はリリアンと一緒にいる。『スティグマ』だからって否定しない。僕がそうでありたいから、こうして言葉を交えているんだ」


 大護の言葉にリリアンの顔がみるみるうちに赤くなり、大護と視線を合わせようとせずそっぽを向いた。


「な、何だそれは。そ、それも受け売りか?」

「半分はね。でももう半分は自分で出した答えだよ。『スティグマ』との絆……それを見つけたいんだ」


 ただのプログラムだとしても、人工的に作られた精神だとしても。

 こうしたやりとりがなくても、『インデコ』の中にいる存在を身近に感じ、ともに日々を過ごしていく。


 もしかしたら、翠子とハリーも同じような光景を作っていたかもしれない。そこをまだ、愛おしく思っているのであれば。


「時間が経てば空は晴れる。もう夜な夜な飛ぶ翼も必要となくなる。絆の前に、濁りは失墜する。知っているんだ……『スティグマ』とのつながりは、何よりも互いを強くする」


 そうですよね、先生。

 心の中にそれだけの言葉を置いて、大護は改めて『インデコ』の調整に入った。

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