13:友だち 拳での証明

 声を震えさせ足腰も抜けてしまい、立てない明智翠子を支え、大護はなんとか彼女を元の自室に戻せた。その間ずっと涙を流しながら「ごめんなさい」とつぶやき繰り返し謝る翠子に、大護は何の言葉も返せなかった。どんな言葉も気休めも今の彼女には届かない。

 翠子は長い前髪に隠れた目をこすりながら、大護とリリアンに促され、部屋のベッドに落ち着いた。


(……荒れてるな……)


 部屋の様子は住んでいる者の心理状況が出ると聞くが、ここまでひどい荒れようは中々見ない。


 衣類は折り重なりつもり重なり、食べ物のタッパーやレジ袋が散乱し、足の踏み場もない状態だった。部屋を縦断している大きな毛布を踏んで翠子をベッドに座るよう促すのに十分はかかった。


「どうだ、少しは楽になったか?」


 口調はいつも通りでも、リリアンが言う言葉には気遣いの柔らかさを感じた。大泣きす赤子をあやすかのような声で、たたみかけはせず、相手のリアクションが来るまで待つ。うなずくだけの翠子であったが、リリアンの重ねた声に促され、呼吸はもう正常なものに戻っていた。


「……ごめんなさい。取り乱してしまって……」

「もう「ごめん」は聞き飽きた。どうにも悪癖になっているようだな」


 リリアンが毅然と返す言葉にも翠子はまた「ごめんなさい」と頭を下げてしまう。習慣か、それだけ重たいものを抱えているのか。


「リリアン……」

「……そうだな」


 わずかに視線を交わした後、大護はなんとか足場を確保し、ドアノブへと手をかけた。


「何かあったら言ってください。すぐ外にいますので」

「え……」

「僕は僕で。まずはリリアンとお話してください」


 戸惑いを見せる翠子に大護は笑顔で手を振り、残されたリリアンへと再び目配せする。リリアンは無言でうなずき、慌てだした翠子の目の前にふわりと舞い降りた。


「女同士の方が話しやすいこともあろうだろう。我が聞いてやる。貴様の物語をな」

「……え、物語……私、の?」


 翠子の視線はまだあちこちに散らかり、眼前で翼をはためかせるリリアンを直視出来ないでいた。そんな翠子の鼻の頭をペチリとはたき、前髪に隠れた視線を我が物とする。


「我々からも聞きたいのだ。いや、我個人のこともある。あの『スティグマ』……『ハリー』と呼んでいた『スティグマ』。奴についても聞いておきたいことがある」

「は、ハリーの……?」


 わずかにのぞく瞳に光が差し込んでいく。

 『ハリー』。やはりこの存在が翠子にとってのキーワードとなるのだろう。しかし自分たちが示す『ハリー』と、翠子が口に出す「ハリー」とでは根底が違って聞こえていた。大護、リリアンは倉木からの情報と先日襲われた件から警戒の名として覚えてしまった。だが、翠子にとっては別の存在であるのは明白だった。


「見ての通り、我も『スティグマ』である。故に聞きたいのだ。我以外の『スティグマ』がどんなものかとな」

「え、でも……ハリーは、えっと……」


 答えようとしているのだが、また視線が宙に向けられだされる。リリアンは翠子の言葉を待っていた。


「えっと……あなたも、『スティグマ』……なのね」


 今は相手を落ち着かせるのが最優先だ。リリアンは余計なことは口に挟まずただうなずくだけで返していた。


「不思議……ハリーと同じ感じがする……わ、私はハリー以外に『スティグマ』に会ったことないから……」


 原因の発端でもありこの一連の騒ぎに根付く存在……それがハリーと呼ばれていた『スティグマ』である。


「そのハリーとやらと、初めて会ったことを覚えているか?」

「初めて……?」


 宙を泳いでいた視線の先がリリアンに収まっていく。


「……うん。中学生の時。お父さんが買ってくれた『インデコ』に入ってたの」


 やがて翠子はぽつりぽつりと言葉をこぼしていく。


「お父さんもお母さんも共働きで忙しいから……流行だし、私はお守り代わりに持ってたの」

「率先して試合をしていた……わけではなさそうだな」

「試合だなんて……ここにくるまで……咎原さんたちと出会うまで、バトルなんてやったこともなかった」

「ハリーのことも紹介したのか?」

「うん……でも」


 異端である存在は周囲の目を集めてしまう。それがどんな形であろうと、蓄積されすぎれば穴が空き落ちてしまうだろう。孤独と、さみしさだけしかない深い井戸に。


 しかし、うつむき加減の翠子からは、安堵の息を伴い柔らかな言葉が組み上げられた。


「咎原さんは驚いてたけど、すぐにハリーと仲良しになってくれた。他の人たちも……」

「……。なるほど」


 そっとリリアンは翠子の肩に降り立ち、のれんをめくるように翠子の前髪をかきわけた。


「あわわ……」

「ははは、今の貴様、どんな顔をしていると思う? 鏡が手近にあればのぞかせてやりたいぞ」

「え、え……?」


 再びあたふたと視線をさまよわせる翠子に、リリアンは苦笑した。


「貴様がハリーの名を口にし、先ほど語っていた物語の主役は……実に嬉しそうな笑顔を持ったヒロインであったぞ」


□□□


「つまり具体的なことや対策なんかは出てこなかったと」

(無理強いは出来ん。まだそこまで精神の回復は追いついていない様子だったのでな)


 路地を出て、国道沿いに伸びる歩道を歩きながら、大護は小さく息を落とした。車のエンジン音が重なり合い、夕暮れも終わり時となった街の交通量は多くなっている。

 せわしなく行き交う車道を隣に、リリアンが頭の中に声を送った。


(だがハッキリしたことがある。あのハリーは正常な状態ではない。今は明智翠子という主を見失い、暴走していると言えよう)

「暴走……まあ、普通の様子じゃなかったけどね」

(原因はやはりイジメだろう。そのことにはあえて触れなかったが、自らの『スティグマ』がああも狂うほどのものだ、想像もつかない地獄だったろうな)

「……でも暴れ回ってるハリーは何故今になって、というのが謎のままか……」

(ここからは明智翠子次第だ。あいつが動けばあのハリーは何らかのリアクションを起こすだろう。抑えるとすれば、その時を狙う)


 結局は後手に回るのだが、情報源は抑えることに成功した。リリアンにはハリーと同じ『スティグマ』を認識することで警戒心を下ろさせた。

 少しだが打ち解けることが出来た。


(というか大護、貴様はほとんど何もしてないではないか)

「デリケートな問題だったし、あの様子だと男子がいてはどうかなと思ったし。それにリリアンなら明智先輩も安心出来ると思ったんだ。まあ、同じ体現する『スティグマ』を持ったプレイヤーの視線から見える安定感がほしかった」

(……貴様、案外底意地が悪いな)


 性別も女性同士と言ったのはリリアンだったが、結果こう収まった事態はどうも大護が立てた筋書通りだったらしい。


「なんだかんだで面倒見いいよね、リリアンってさ」

(街中でなければ殴りつけたいものだな)

「まあ出来るだけやるとして、ここまでの経緯は一度ししね先輩に報告した方がいいかな」

(そうだな、あいつ自身も明智翠子を心配していた。報告するにこしたことはないだろう)


 空は夕暮れの奥から夜気を引っ張り上げ、夕焼けの色を徐々に薄暗い蚊帳で隠そうとしている。時間を見れば、もう部活動はもう撤収準備を始めているだろう。大護は小走りに走り、路地を抜けて近道を進み、視界に静仁高校を捉えた。


 裏門から入る頃には、すでにグラウンドを使っていた陸上部やサッカー部などが用具を片付け始めていた。それらの横を通り過ぎ、第二体育館へと走る。

 正面のドアは半開きであり、まだ誰かいるのだと中から漏れる明かりで知れた。大護は行き違いにならずにすんだと、小さく息を落とした。


「ししね先輩、あの……」


 広々とした体育館の天井に護の声が反響しただけに終わり、後は本来抱えていた静けさを取り戻す。リングを中央に置く第二体育館には、人影もなかった。


「あれ……もう帰っちゃったかな……」

(間が悪いのう)


 大護の『インデコ』からリリアンの翼が抜け出し、短身の体をひんやりとする第二体育館の空気にさらした。


「しかし帰宅したのであれば電気は落としているだろう、誰かはいるはず……」

「あれー? お前、もしかして今年入った新入部員ってやつ?」


 体育館の入り口に、ノートパソコンを片手に持った男子生徒が一人立っていた。


「あ、ども……」


 制服姿のこの少年は、もしかすれば『オケリプ』部の部員だろうか。

 今時のファッション誌に出てくるような顔の作りと、適度なワックスでふわりと作られた髪型は、しゃれた雰囲気を漂わせている。


「今日の部活なら終わったよ。咎原も帰ってる」

「あの……先輩、でしょうか? えっと……」

「ああ、俺? 名前は永藤深志ながふじしんじ。二年生だ。お前のことは咎原から聞いてるよ」


 永藤深志と名乗った少年は大護の横をすらりと抜け、中央に設置されてあるリングへと向かった。ケーブルらしきものをノートパソコンにつなげ、起動させる。膝に抱えながらタイピングでプログラムらしきものを入力しているようだった。


「俺はリングの微調整で居残りだけど、お前は?」

「あ、ええと……明智翠子さんについて、報告をと思いまして」

「明智?」


 顔だけを大護たちに向け、しかしキータッチする指はそのまま止めることなく返すと「ああ」と口の端をつり上げた。


「何だ、あいつに会ってきたの?」

「やっぱり、ご存じなんですね。今明智先輩は……」

「はは、ほっとけってあんな不登校」


 悪気も何もない、ただ返答しただけの言葉だった。そこに、温情などは見られなかった。


「すっごいイジメ受けてたんだろ? あいつとろいからな。まあ俺の知ったことじゃないけど、よく言うじゃん。「イジメられる方にも原因がある」なんてさ」


 笑みを浮かべ言う永藤深志の声は軽い。世間話でもするかのように、つらつらと言葉を並べる。


「でも迷惑なんだよねえ、ウチは一応強豪校って体裁な部活動だってのに。引きこもられちゃあね。なんつーの、メンツ? いちいち個人的な理由で落とされるって、そういうのうっとうしいっていうかね」


 リリアンが口を開こうとして、その顔の前に大護の手が添えられた。


「お? お前の『スティグマ』もんだ。っは、意地悪い連中に見つかるなよ? 何されるか分からねえぜ? 明智みたくさ」

「……永藤先輩、一つお願いがあります」


 ぱた、と。ノートパソコンを打つ指を止め、薄笑みを浮かべたまま立ち上がった。ノートパソコンは床に置き、もう手を伸ばせば届く距離まで詰め寄った大護を見て、更に口の端をつり上げた。


「何だか、不服ありげなんだけど?」

「僕と一つ、試合してくれませんか」

「へえ……何故かな?」

「不愉快なあなたを合法的にたたきのめす」


 大護の表情に変化はない。側にいるリリアンは大護の言葉に割り込むことなく、押し黙り様子を見ていた。

 大護の言葉に、永藤は一瞬目を丸くするが、すぐさま鼻で笑い、腹を抱え込む。


「あっはっは、そんなに気に入らなかった? ごめんごめん、でもこれが俺の性格でさ。嘘は言ってないだろ?」

「一ラウンドでいいんです。クイックマッチでも」

「……ふうん」


 永藤は大護の体をつま先から脳天に至るまで、値踏みする視線を送ると、一つうなずいた。


「いいよ、やろうか。セッティングはもうすぐ終わる。待っててよ」


 再びノートパソコンに向かった永藤はピアノの鍵盤を弾くように、すらりとタイピングを打っていく。


「……大護」

「僕は引かないよ。これは単なるケンカだよ。つまりは私闘……リリアンは『スティグマスペース』に座ってるだけでいいから」


 大護の視線は、作業を行う永藤に突き刺さったままだ。それにリリアンはため息をついて前髪をかきあげる。


「馬鹿者。我も手を貸すというのだ。あそこまで我が友を馬鹿にされて放ってはおけん」

「……友だち、か」


 わずかに、大護は口元を緩めた。


「ああ、友だとも。しかし食ってかかりそうになった我を止めてくれたことには感謝する。おかげでこうして「正々堂々」気に入らんあいつを打ちのめせる」


 リリアンは強く手を握ると、眉間にしわを刻み、奥歯をかみしめた。


「いけ好かないだけならまだしも、翠子を馬鹿にしていい理由などない。徹底的にやるぞ」

「作戦会議終わり? もうこっちの準備はすんだよ」


 永藤はノートパソコンからケーブルを引き抜き、リングを起動させた。青い水槽を思わせるフィールドがリング内に広がり満たされた。壁に設置された大型の電光掲示板が光をともす。「スタンバイOK・エントリー開始」と点滅した。後はプレイヤーが『インデコ』を同期させ、『スティグマスペース』に送り込むだけだ。


「さて、俺は制服このままでも構わないけど、お前は? シャツにでも着替えた方がいいんじゃないか? 制服がボロボロになってからじゃ遅いぜ?」

「配慮に感謝します。ですが必要ありません」


 リングに上がり、リリアンは天井の『スティグマスペース』へと滑り込んだ。大護はネクタイだけを緩めると、同じくエントリーを開始した永藤を見据える。


「怖い顔だなぁ……そうにらむなよ」

「失礼。では改めて……よろしくお願いします」

「ああ、よろしく」


 電光掲示板が鐘の音を鳴らす。永藤は薄笑みを浮かべ、ゆらりと大護に向かいリングの床を踏んだ。

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