12:言葉も届かず涙で埋まり

 ゆらりと構えられる矢は、弦を絞って弓に吸い込まれた。

 牙のような矢の切っ先は、身構える倉木とまだ動揺を隠せないままでいた大護に向けられる。

 『ハリー』。リリアンと同じく独立して通常空間でも姿を維持できる、明智翠子の『スティグマ』。拘束具を身に纏った外見に、表情が見えない真っ白な仮面の姿からは漂う沈黙が不気味であった。

 だが脳裏に鳴り響く危険信号の音は止まらない。それに誘発されるかのように、『ハリー』からにじみ出る敵意が矢に収束され膨れ上がっていった。


「来ますよ……注意を!」


 澄んだ声で手に持つ槍のような武器を構えた倉木は、声を張って大護の硬直を溶いた。

 即座、『インデコ』から『スティグマスペース』にいるリリアンに脳裏で指示を出す。


 矢が地面を穿つと同時に大護はとっさにその場から脱出できた。サポートスキルの『速度アップ』で『ハリー』から大きく離れる。


「ええい!」


 撃たれた矢を、同じく回避した倉木は手にした槍を突き出した。矢をなくした『ハリー』はそれを無造作に片手で握りしめ、突進を止める。


「……ッ!」


 ガチリと倉木の体が固まった。引いても押しても動かないのだろう。倉木はわずかな間でそれを悟り、武器を手放して後ろへと下がる。


 『ハリー』は倉木から突き出された槍を足元に落とし、ゆっくりと歩を進めた。直線上には放たれ、地面を突き刺した矢がある。


 回収するつもりだろう。だが歩く姿は隙だらけで、構えを……体をこわばらせた大護と倉木など、眼中にもないといった様子で矢の元へと進んでいた。


 横からなら腕を狙える。後ろからなら頭部を狙える。どうやっても一撃は入るだろう。そう考えるのは簡単だった。だが、この『ハリー』という『スティグマ』が放つ敵意は禍々しく空間をもゆがめ、戦意すら削いでいく。


 結局、『ハリー』は何事もなく矢を回収した。おもむろに矢を割れた地面から引き抜くと、ただ威圧され動けなくなった大護へと牙が向けられた。


「藤崎さん、回避を……防御の姿勢を!」


 一瞬早く硬直から解けた倉木は自らの武器を取りに走り、大護へと声を投げた。しかし、大護は動けなかった。恐怖に屈し、攻撃意志のプレッシャーに負け、体は感覚すら失っていた。動けと頭で分かっていても、体が別物になったかのように動こうとしない。


(……ここまで敵意や殺意を強く持てるだなんて……!)


 脳裏ではリリアンの指示がよぎっていた。耳には倉木の檄が飛び、しかしそれらの言葉は大護が覚えた畏怖の念に全てかき消されていた。どれだけ水鉄砲を撃とうが、鋼の壁は壊せない。


 弦が限界まで引き絞られる。倉木がそれを止めようと槍を構え地面をかけた。大護は、まだ動けない。


「ハリー!!」


 その瞬間。フィールドに満ちていた濃密な敵意の圧力は四散した。体が軽くなり、自分は宙を浮かんでいるのではないかと思うほど、仮面の天使から放たれる気配は消滅していた。


「……明智、さん……?」


 倉木が驚きを隠せないままで、声の方へと……明智翠子の家へと視線を向けた。


 玄関先で、一人の少女が部屋着姿のまま、震える膝を素足で地面に縫い付け、大きく息を切らせていた。

 長い前髪からは表情は読み取れない。しかし、


「……ハリー……もう止めて……お願い」


 か細い声だった。かすれ、喉元に引っかかるかどうか……そんな音量だった。

 だが、静まりかえったフィールドの中にはもう、殺意も敵意も存在しなかった。まるで水族館にある巨大プールの中にいるような、そんな錯覚を覚えた。


 呼ばれた『ハリー』は、矢をゆっくりと下ろし、顔だけを少女……明智翠子へと向けた。


「……ハリー……」


 もう一度、声を絞り出す。蚊の鳴くような声は『ハリー』に届いたのか。それを確認する間もなく、仮面の天使は翼をはためかせ、ゆっくりと空へ昇っていく。


 夕焼けに、黒い羽根が焼かれた。赤く染まったそれは、太陽に向かい翼を溶かした神話の光景を彷彿とさせた。


 だが停滞も一瞬。

 羽根で空を撃つと体を滑り込ませ、長身の体を空の彼方へと滑り込ませ消えていった。


『ハリー』が視界から消えるまで、誰も動けず声を発することも出来なかった。

 ただ、涙をボロボロとこぼし、嗚咽で口をいっぱいにした少女、明智翠子は膝をついてむせび泣いていた。


「……明智さん」


 倉木の言葉に明智翠子が顔を上げる。前髪からのぞく目には生気のかけらもなかった。本当に目が見えているのか、薄暗く濁る目は側まで歩いてきた倉木に向けられる。


「助けてくれてありがとう。久ぶりにあなたに会えて嬉しいわ」

「……」


 明智翠子の側にそっとしゃがみ、肩に手を置く倉木は穏やかな口調で言った。


「お疲れ様。さあ戻りましょう、へ」


 出迎えの言葉を贈る倉木の後ろ姿に隠れ、明智翠子の様子はうかがえない。その言葉に返答したのかも分からないまま、倉木が立ち上がった。


「今日はここで失礼します。あなたもゆっくり休んでね」


 明智翠子の視線が、倉木を追い上へと向けられた。倉木の後ろ姿を瞳に映し、何かを言おうと口が開きかけられる。


「藤崎さん、今日はこれで解散にしましょう」

「え、でも……明智先輩が……」


 玄関先、地面に部屋着が汚れるのも構わず外へとでた明智翠子は、震える手を伸ばそうとしていた。


「いいのです。これ以上私たちがいればかえって気をつかわせてしまいます。……では明智さん、またお会いしましょう。今度は、で」


 微笑を浮かべた倉木の言葉は優しいものだった。眼差し、仕草、笑み。それら全ては気品に満ちて慈悲深いものである。だが、言葉が徐々に明智翠子の体を凍り付かせているように見えた。

 その光景に大護は違和感を覚えられずにはいられなかった。

 明智翠子は心配してくれているクラスメイトから励ましの声をもらっている。しかし、言葉一つずつ、振る舞いの一つずつが、言動とは別のものを見せていた。


 クイックマッチのフィールドはとっくに解除されていた。倉木は、まだ地面にへたり込んだままの明智翠子に背を向け、角を曲がって姿を消した。


「……やはり妙よな」


 『スティグマスペース』から降りたリリアンは大護の肩にふわりと降り立つ。


「……『スティグマ』……?」


 まだ涙のあとも残り、赤い目をした明智翠子は呆然とリリアンを見つめる。


「いかにも。我は通常空間でも任意に実在出来る『スティグマ』である。……貴様の『ハリー』とやらと同じでな」


 その言葉に、明智翠子は息をのんだ。


「我は貴様から話を聞きたい。『ハリー』なる仮面の天使は、本来ある貴様の『スティグマ』姿ではなかろう」

「……」

「僕からも、お聞きしたいことがあります」


 明智翠子の側で膝を折り、視線を合わせて大護は言った。


「僕は『オケリプ』の部活動に入りました。あなたの後輩です。もしよろしければお時間をいただきたい」

「……」


 返事のような声が聞こえたが、かすれすぎてうまく聞き取れなかった。


「辛いことをお伺いします。それが、今の『ハリー』につながると思いますから。噂になっている『仮面天使』……あなたの『スティグマ』が何故あんなことになったのか……」


□□□


「へえ、新入部員いるんだ」


 第二体育館のリングの側で、パネルタッチの片手間ししねは、軽い口調で言う少年にこっそりため息をつく。


「いないと部活にならないわ。それには、あなたにも協力してもらわないといけないんだけど」

「協力? うんうん、至ってするさ。手足を取ってエスコートするよ」

「……それで去年、私たち以外一年生が全員退部したの、忘れたの?」

「あはは。それは単にあいつらに根性がなかっただけだよ。俺は昔からジムで鍛えてたからね。経験者として当然の教えをしてやったのに、弱音と文句だけは覚えていったな」


 からからと笑う少年に再びため息を落とすと、ししねは顔を上げてその少年に視線を向けた。


「永藤くん、いくらこの部活動に廃部はなくても、選手が足りないんじゃ試合にも参加出来ない。本来の活動にもなってないのよ?」

「そんなこと俺に言われてもなあ。それよりまだ明智は引きこもりのままなの? あいつら引っ張り出せばいいじゃん」

「……気軽に言わないで。簡単なものじゃないんだから」

「部員増やすより戦力取り戻す方が早いと思うんだけどなあ」


 あ、そうだと少年……永藤深志ながふじしんじはわざとらしい動きで手をぽんとたたいた。


「じゃあ俺が部員不足なんとかするさ。俺が行けば明智もすぐ出てくるよね」

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