10:堕天の理由
空気の密度が濃いものに濁っていく。
『仮面天使』は言葉も何も発しないまま、街灯の上からゆっくりと地面へと降りた。重さなど感じない、まるで羽毛が舞い落ちるような柔らかさだった。
大護は、動けなかった。
『仮面天使』が大きく翼を広げた時には、「捕食される」という、食物連鎖のヒエラルキーを味わった。これが、絶対の存在から見た小物の概念なのかと、抗う気持ちさえ持てなかった。
『仮面天使』は地面に突き刺さった矢をすいっと抜き出すと、仮面を真上に上げて翼を大きくはためかせた。それが呼ぶ風は荒いものだった。思わず目を閉じてしまうほどの暴風に大護は息をのんだ。わずかでも視界を遮られたことで、『仮面天使』の動きが見えなくなった。
未知の相手の動作を一瞬たりとも見失ってしまった。それが原始的な恐怖に結びつき、大護の呼吸は荒くなった。風が少しでも和らぐと、目を見開き情報を集めようと『仮面天使』の姿を追った。
『仮面天使』は長い矢を担ぐと、はためかせた翼で再び街灯の上に戻った。
こちらをどう見ているのか。相手の思考など全く理解出来ないまま、仮面越しの相手を凝視する。
だが、『仮面天使』はこちらに関心をなくしたかのようで、顔を更に上に向け、黒く大きな翼で空を打ち、闇夜に疾空して滑り出していく。その姿が夜の色と混じりあうまでの時間はあっという間だった。公園の敷地に張り詰めていた淀みが少しずつ崩れ落ちていく。
「……っぁ!」
大護は咳を交えながら息を吸った。今まで威圧されて、呼吸さえままならなかった。大きく肩を上下させると、びっしりと汗の玉が浮かび上がった額を袖口で乱暴に拭う。
「話は本当だったんだ……あれが『仮面天使』……」
昼間話していた他愛ない話題が、まさか現実になって目の前に現れようとは、さすがに心の準備も出来ていなかった。
それはリリアンも同じく、大護ほどではないが息を途切れさせ、青い顔のまま呼吸を整えようとしていた。
「でもリリアン……あの『仮面天使』……あれが『スティグマ』だなんて、本当?」
「同種の我には分かる。それに貴様も同じ感覚を持ったのではないか? 我と同じ気配の存在だと」
出来れば、そこは否定してもらいたかった。未だに脳が現実に追いついてこない。これが何かの錯覚ならよかったと思うぐらいだった。
「だが奴から放たれる気配は並ではなかった。存在そのものが鳴り響いて音をまき散らす鐘の音と同じだった。……我と同種とはいえ尋常ではない様子だ、明らかにおかしい」
ようやく調子が戻ったのか、リリアンは軽く息をついて言った。その横顔からは激しい疲労の色を見ることが出来た。
「そ、そんなに自立してリリアンみたいに動き回れる『スティグマ』なんているの?」
「そこまでは我には分からん。分からんが……もしそうならざるを得ないまでに、追い詰められていたらどうか検討はつかんな……」
「追い詰められる……?」
リリアンは無言でうなずく。そして昼間話題に上がった『仮面天使』の噂。
イジメグループを次々と襲っていったという、物騒な話は本当だったのか。
そしてそこから結びつく行動に、大護はまた背筋に冷たい感触を覚えた。
「……復讐、報復……イジメグループの生徒たちを、あの『スティグマ』が襲っていったとしたら」
大護の言葉を聞き、リリアンは「だろうな」と疲れた声を出した。
「あの『スティグマ』の持ち主は『オケリプ』プレイヤーだろう。イジメで追い詰められ、『スティグマ』に何らかの変化が起こった……推測出来るのはこの程度だろう」
「……去年にそのイジメがあったって言ってたな……ししね先輩なら、何か知ってるかもしれない」
ししねが一年生の頃である。そのイジメは今にも話が残る壮絶さだというのなら、見聞きしているだろう。何より『オケリプ』のプレイヤーかもしれないのだ、ししねとしても無関心ということではないはずだ。
「明日の放課後、部活に行って聞いてみよう」
「我も気になる。同席するぞ」
リリアンは意気込んで鼻息を荒くする。
「何故我々が狙われたか理由も分からん。もしこれが無差別な行為であるならなおのこと放っておけん」
同じ『スティグマ』として思うところがあるのだろう。リリアンは険しい顔のまま言った。
□□□
「……『ハリー』……ごめんね、情けないプレイヤーで。あなたに負担をかけさせてばかり……ごめんなさい、ごめんなさい」
□□□
放課後はどんよりとした雲が、肌を軽く冷やした気温で迎えられた。運動部は冷えた体を温めるため、グラウンドを走り準備運動を入念に行っていた。
それらを眺めながら第二体育館へと大護は足を向けた。第二体育館が近づくほど、活気があふれる校庭から物静かな森林のような空気に変わっていく。第二体育館が学校の敷地で一番後ろに設置されているためか、防風林に包まれて緑の色を濃く受けていた。
今のところ人影はない。大護は第二体育館の扉を開け、中でリングの整備を行っているししねの後ろ姿を見つけた。
「あら、昨日はごめんなさいね。でももうリングも大丈夫だから」
こちらに気づき、大護が挨拶をする前にししねは笑顔で振り返った。それに大護は「ど、ども……」と気まずく返す。
今日来たのは部活動のためではなく、去年のイジメの真相を聞き出すことが目的である。若干の後ろめたさが大護の言葉を曇らせた。
そんな大護が切り出す前に、『インデコ』の中からリリアンが微風を纏い現れる。厳しい表情のまま腕を組み、「聞きたいことがあるのだが」と切り出した。
「何が……あったの?」
「あったといいますか……知りたいことがあります」
大護たちの雰囲気に張り詰めたものを感じ取ったのか、ししねは笑みを消して怜悧な表情となり、大護と向かい合った。
「知りたいのは去年起こっていたイジメについて、なんですが……」
大護の言葉に、ししねの眉がぴくりと引っ張らるように動いた。
「まさか……『ハリー』の襲撃にあったの?」
「ハリー?」
誰だとリリアンと顔をつきあわせるが、心当たりはない。だが、「襲撃」という単語には引っかかるものがあった。
「噂程度でしか聞いてなかったから、もしかしてと思って……」
「ししねよ、詳細を聞かせてもらえるか?」
しばし間を置いた後、ししねはリリアンの言葉にうなずいて答えた。
「順を追って話すね。そのイジメ問題は……確かにあったの。私がまだ一年生のころ」
話すししねの顔は曇っている。落ち込んでいるようでもあり、悔いた言葉を教会で告白するかのように、一つずつ言葉にしていく。
「私は違うクラスだったけど、それでもイジメの話題は毎日聞いてたわ……今でも覚えてる。後悔として」
「その人は……『オケリプ』やってたんですか?」
大護に無言のうなずきで返し、言葉をつなげた。
「元部員だった子なの……名前は
「部員……って」
もしかして離れていった三人の元部員とは、イジメを受けていたその明智翠子のことなのだろうか。今は黙ってししねの言葉を待った。
「何がきっかけか分からないけど、一年生の終わり頃にイジメは始まったらしいの。……内容は省いてもいいかしら、聞いていて気持ちの良いものじゃないわ」
「……続けよ」
リリアンの眉間にしわが寄る。それにししねはこくりとうなずき、握った拳を震えさせながら続けた。
「陰湿でもあり派手でもあったり……それでも頑張って学校に来てた。部活にも顔をだしてくれた。でも、限界はあった。それに……気づいて、あげられなかった」
無力。
ししねの顔を険しくさせているものは、同じ部員なのに助けてあげられなかった自分への憎しみと悔しさ。震える拳が自責の念を現していた。
「クラスに配られるプリントや書類を届けがてら、家にいる彼女の様子を見に行ってたけど、今まで声すら聞いてない状態なの……」
「引きこもりというものか。イジメがあったのは事実か……」
リリアンが唸るように言う。となれば、イジメグループに対し、報復を行ったという『仮面天使』の噂は……昨日の出来事を思い出すと毛穴全てから嫌な汗を吹き出しそうになる。
「ししね先輩、さっき言ってた『ハリー』って……?」
聞かなくてもおおよその見当はついた。現状が物語る通り、結びつく事柄は絞られている。
「……その子の……翠子の『スティグマ』なの。私にだけは見せてくれた。名前はハリー。リリアン……あなたと同じく、実体化出来る『スティグマ』なの」
まっすぐにししねの視線を受けたリリアンは「やはりか」と苦い声をこぼした。
「ししね先輩がリリアンに驚きもしたけど、すぐに対応出来たのは、そんな過去例があったからなんですね」
「……ええ。ハリーを見せてもらったときは、もう腰を抜かしちゃった」
思い出すものがあったのか、しかし今は懐かしがっている時間ではない。ししねにも心当たりがあると同然の言葉が出たのだ。ししねは咳払い一つおいて話を続けた。
「翠子が引きこもりだしてからなの、通り魔の噂が出始めたのは。知ってるみたいだけど、イジメを行っていた女子グループ全員は狙われた。被害は確実に出ていた。だから、今になってまた出始めたことに私は疑問をもつしかなかったの」
そして、そのハリーという『スティグマ』に大護たちは対峙した。
今になって何故ハリーが姿を現していたのか。目的が、イジメグループへの復讐とするならば、もう役目は終わっているはずである。
「何故かは分からないけど……あなたたちにも被害が出そうというのなら、私が翠子の元へ行くわ。せめて止めることぐらい、出来ないと……」
「いや、ししね。お前は動くな」
思い詰めたししねの声を、リリアンが一呼吸で遮った。
「出向くなら我々だ。貴様が出向けば蒸し返しにしかならん。相手はより頑なに引きこもるだろう」
リリアンの言葉にししねは言葉をなくした。
確かに、そうかもしれない。大護もイジメめいたものを全く受けてこなかったと言えば嘘になる。その時不用意に近づいても、自らの行いに答えることは出来ない。
イジメを受けている、という自分を恥じてしまうためだ。もしくは情けなく思えてしまうか……理解者であればあるほど、知られたくないはずだ。
「任せよ。だからそんな顔をするな。誰もお前を責めたりせん」
うつむき加減になったししねは、大きく息をつき肩の力を抜いた。
「そうね……私は救えなかったのではなく救おうとしなかった……こんなのが今更出てきても、何の解決にもならない、か」
「自分を卑下することも許さんぞ。そのスイコとやらを連れ戻したら、必ず仲直りの握手をせよ。自責の念で自分を納得させても物事は解決せぬ。それでは周りに不安を与えてしまう……堂々としていろ」
リリアンなりの激励だろうか。厳しい口調ではあるが、決して咎めているものではない。それも伝わったのだろう、ししねは小さくうなずき顔を上げた。
「ありがとうリリアン。私は待ってるわ。あなたたちと翠子を」
「うむ、それでよい」
不敵な笑みを浮かべ、リリアンは腕を組んで背筋をそらした。
「任せるがよい。謎はまだあるが事情なら分かった」
「そのハリーって言う『スティグマ』が何故一人でに、今となって動いているのか……まずはそこからかな」
「同時に現在のスイコとやらの様子も知っておきたい。必ず関係があるだろう」
これは部員を取り戻すと同時に、今起こっている事案をも解決する二重の問題だ。簡単にはいかないだろう。だがふりかかったものでもあり、見ないふりをしていいものではない。このまま放っておけば、またあの白い『スティグマ』ハリーは襲撃を繰り返すだろう。
犠牲者が出る前に真相を明らかにしなければならない。まだ日は高い。動き出すなら今からだろう。
早期解決を。リミットは大護たちが感じるよりも更に危うく、短い。
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