02:契約完了

 翼がもぎ取られるような重い雨が背中に打ち続けられる。豪雨の弾丸が小さな体を絡め取れ、地面との距離はぐんぐんと近くなる。鬱蒼とけもの道に茂った雑草の背丈ほど飛べていない。


「絶対見つけろお前ら……ありゃあとんでもねえレアものなんだぞ!」


 すぐ側まで声が届く。岸下だ。それに応えるドスのきいた声も合わせれば、5人以上はこの雨ざらしの中で懐中電灯を持ち、暗い夜道を裂いて歩いていると思われる。


 それだけ考えればやり過ごすことは出来そうだった。

 今は夜中も深夜。ほとんど明かりのない夜の森林で天候は最悪の大雨だ。自身の身長は10センチもない。大きな葉っぱにでも駆け込めば、まず見つかることはないだろう。だがそれが可能なのは、冷静に状況を分析出来る余裕があってこそ出来るものだ。


 そして追われ続けてきた彼女、リリアンにはそんな余裕はどこにもなかった。

 雨の中を飛び続け、追いつかれたら今までのように閉じ込められるだけではすまないだろう、という架空の恐怖心が更に混乱を呼び、とにかく遠くへとだけしか考えられなくなっていた。


 本来なら緩やかなローブのような服は、重たく水で濡れていた。枝に服を引っかけては布地を切るまで強引に飛び、肌に葉のが触れれば赤い傷跡が浮かび上がる。

 柔らかい感触と気持ち悪い泥のぬかるみが、ついに体を覆った。

 もう飛べない。

 ならここでもう楽になろうか。もう岸下という人間の元へ戻るくらいなら、ここで潰えてもいいだろう。もう見世物扱いだけではすまないはずだ。何せご披露の場で一瞬の隙を突き、脱出出来たのだから。岸下はさぞ恥をかいたに違いない。それを思い浮かべると、ヘドロにまみれて終わるのも悪くないと思った。


 薄れる意識から何かが入ってくる。声、人間の声だ。

 もう見つかったか。


「……ぶ?……じょうぶ? って、こんな様子じゃ大丈夫も何もないか」


 体が沼から引き剥がされ、暖かな手に体が包み込まれる。


「早く手当しないと……和尚様にもしらせなきゃ……」



□□□



 元となった「鋳型」から輪切りにされて増え続けた傷跡は、自動的にベルトコンベアでは運ばれパッケージされる。

 人間の姿は見当たらない。冷たい監視装置のレンズだけが、自動的に目を光らせていた。

 何故その光景が頭にあるのかは分からない。意味のない映像なのに、ひどく鈍い痛みを覚えてしまう。でも、その痛みはどんな痛みか把握出来ない。漠然としすぎている。


 そう、自分でも……『フェアリー』として量産された単なる『スティグマ』でしかないのに、何故こんな記憶/記録が残っているのか。

 考えても思考は下に沈まない。浮かび上がり主体性をなくし、体は泡のように分解されていく。


 消える。消える消える。

 ではなぜ。

 なぜ



「ん……」


 頭が重たい。長期的なシステムのシャットダウンが行われたのか、記憶のバックアップがすぐに戻らない。

 昨日は……あの雨で……。


 思考が急激に回転し、リリアンはかぶせられていた毛布をはねのけ周囲を見渡す。

 和室、のようだった。広さとして六畳間か。部屋には机とクローゼットしかない。机の上には古そうなノート型パソコンが置かれているだけで、ずいぶんと殺風景な部屋だった。


 寝かせられていた、と思われる布団と毛布は人間サイズのものだ。人形サイズのリリアンには大きすぎるが、寝心地は悪くなかったと今になって思った。


 室内に見覚えのあるものはない。見慣れぬ天井だった。

 檻の中ではない。少なくとも、岸下に近しい気配は皆無だった。


 リリアンはわずかに空いているふすまの間をすり抜け、しん……と静まる木目が並ぶ廊下にでた。床の下からは冷気が漂っているかのような、空気を引き締めるものがあった。


 用心深く廊下を見渡し、やがて大きな部屋の入り口へとたどり着いた。

 ここだけは別物だった。漆や朱のラインで描かれた手すりや門、壮大な木彫りの、仏の絵だろうか。動物が集まった周りに大きな存在は座禅を組み、慈悲深い笑みを浮かべていた。


「一心敬礼十方法界常住仏……」


 ふと聞こえた、まるで歌でも読むような、あえて低く発音する声がこの大きな部屋の中から聞こえてきた。


「一心敬礼十方法界常住法、一心敬礼十方法界常住僧……」


 見ただけで見事な仏像だと分かる。高い天井の下に鎮座するのは大きな姿は、迫力はあれど圧迫感はなく、むしろ背筋をただされるような尊厳な空間だった。


 その仏像の前には一人、座禅を組んで蕩々とお経を読み解く一人の少年がいた。

 しかし僧侶……ではないだろう。来ている服はカジュアルな今時の若者が好みそうな服装で、髪の毛もそり上げていない。それどころか、寝癖で後頭部が跳ね上がっている。

 年の頃は十代半ばか、学生だろう。座っているとはいえ小柄な体躯だと見て取れた。


 春先の、早朝の静かなひととき。まだ夜気の気配を残す朝露が木の葉の上に残り、滑り落ちていく。

 空気が澄んでいる。胸いっぱいに息を吸い込めば、中身まで浄化されるのではないかと思わせるほど。それが例え人造物の……『スティグマ』であるリリアンのものでも。


「あ、起きた?」


 びくりと身をすくませる。思わず場の空気にうっとりとしており、仏間にいる少年の存在を忘れていた。

 少年は足をほどくと立ち上がろうとし、盛大に顔を木製の床へと打ち付けた。


「い、いだああ……あ、足が、足がしびれて……」


 涙目になってリリアンに訴えかけるが、そう言われても……と何も出来ないのが現状である。

 お経を読み上げる声には迷いも震えもなく、どっしりとした、現役の僧侶が唱えるような貫禄があった。おそらく長く何度も繰り返している作法なのだろう。彼の体の一部となって現れていた。

 の、だが。それで何故座禅を組んで足をしびれさせているのか。正座も座禅も慣れれば問題はないはずであるが。


「お経は読めるけど、足がしびれるのだけは慣れないんだよなあ……」


 なんとかといった様子で立ち上がった少年は、唖然としたままのリリアンの側で立ち止まる。膝をついて、視線を合わせにこりと笑った。


「僕の名前は藤崎大護。このお寺には居候させてもらってる。君は?」

「え……あ、あの……」


 普通に話しかけれて、リリアンは言葉を探していたが、見つからずに終わった。

 何故、何故この人間は自分の姿を見て何も疑問に思わないのか、聞かないのか。質問攻めになってもおかしくない事例である。

 自分が。『スティグマ』が出歩き自我を持ち、平然と現実空間に姿を見せている現実に対して、かけた声は自己紹介である。


「わ、私は……」


 『スティグマ』だから追われた。閉じ込められた。『スティグマ』だから人間と違う。人間じゃない。

 『スティグマ』はしゃべらない、動かない、姿を見せない。ただ『インデックスレコード』の中に収まり、プレイヤーの意志に従い、体に組み込まれたプログラムを発動させ競技に華を咲かせるだけのデバイス……装置だ。


「わ、た、し、は……」


 なのに、この人間は。藤崎大護は平然と接している。疑問も見せず抱いているようにも思えない。ただのプログラムが独り歩きし、実体を持って動いている。そんな異常事態を前にしても、藤崎大護という少年は取り乱す様子はない。


「わ、わ、わ」


 何だ、何が起こっている。これは一体何なのだ。この人間は、追ってきた岸下たちは。そもそも自分とは。『スティグマ』とは。本来の『スティグマ』とは違う自分のような存在は。


「わ……」

「わ?」

「わ……」


 ぷつん。

 頭の中で何かが切れたような音が聞こえた。それは物理的なものでもあり、感性がそうさせたものでもあった。


「わ……我に口をきこうなどと100年早いわ小僧!」

「痛い!?」


 乱暴に大護のすねを蹴りつけ、沸騰している頭の暴走に身を任せる。

 もう何を考えても無駄だ、何を望もうとしても無理だ。ならばいっそのこと、地金をさらけ出しありとあらゆる自分の感情に身を任せるしかなかった。

 

「我はリリアン、『フェアリー』の『スティグマ』である! 言葉を耳にできるだけありがたく思うがいい!」


 何もかもが馬鹿らしい。状況を把握することすらどうでもよくなった。ただ自分だけが押し殺されている窮屈な現状に理不尽に感じ、気配りで様子を見ようなどと考えた自分が情けない。


「あーもう馬鹿らしいというか実は馬鹿らしい! 何で我だけパニックにならねばならん! そこの人間、貴様もパニックになれ!」

「え、そんなこと言われても……どっちかが冷静になってなきゃ話も進まないし何より君が……」

「君などと肌がかぶれるような言い方をするな! 我にはリリアンという名がある!」

「きゅ、急に雰囲気というか人格が変わったような感じだけど……大丈夫なの?」

「失礼なものの言い方だな、次は首が飛ぶと思え! 我は常時この通りだ、平常運転である!」


 岸下に閉じ込められていたことが気持ちを鬱屈させていたのか、リリアンは言葉を出すと同時に腹の底に残った異物も吐き出す。


 自分をぬらしていた重みは薄れ、心を圧迫していた息苦しさはすっかりなくなり、言葉にすることで吐き捨てることで、やっと自分の足で立つことが出来た。今までヘドロで見えなくなっていた自分の足元がクリアになり、心地よい朝の冷たさが臆病になっていた自分を研ぎ澄ます。弱気になっていた自分に叱咤をもらえる。

 そう。自分には名前がある。ペットでもなければ見世物でもない。


「今が、この瞬間が! 我の復活の時である! 讃えるがいい!」

「あ、あまり大きな声だすと……ここ山の中だから結構響くよ」

「構わん!もう怯えるのは飽きたのだ、それで現状が変わるわけでもあるまい」


 不遜な態度で腕を組み、二対の翼を広げて、ふんと鼻息を荒くする。


「それより朝餉はまだか。ありがたく食ってやる」

「あ、食べられるんだ」

「動くからには腹が減る。何でも構わんから持ってくるがいい。我に好き嫌いはないからな」

「それは助かるな。麦飯と焼き魚、漬物だけど、それでいい?」

「充分である! ヘルシーでシンプル、楽しみであるぞ!」


 やっと甲冑を脱いだ気分になった。そしてそれが許される場にある。


「……その、助けてもらったことには感謝しておる。大儀であった」


 珍妙なものを見るではなく、真正面から向かい合い、目を見てくれた人間は初めてだった。

 顔をそらしたリリアンに大護はかすかに笑みを浮かべただけで、それ以上の言葉はつけなかった。


 足跡が遠のいていき、それを背中で聞いていたリリアンは仁王立ちのまま早朝の空を見上げた。まだ雲は分厚く、昨日の雨脚を引きずっているかのように思える。

だがその沼にはもうハマらない。翼なら、もう暖めてもらった。


「さて、ここからどうするか……」


 追っ手を懸念するが、それは数時間もたたないうちに訪れる。

 そして大護からはとんでもない提案を持ちかけられるのだった。


「僕はまだ特定の『スティグマ』を持ってないんだ」


 前中という少年を打ち負かしたあと。大護は握り返せないだろうに握手を促すよう手をリリアンに出した。


「リリアン、僕はリリアンとともに戦いたい。『スティグマ』として力を貸してほしい。その代わり追っ手なら僕が全て打ち落とす」


 可能か不可能か、そんなことはどうでもよかった。もう自分の身を預けてしまったも同じなのだ。藤崎大護はリリアンという『スティグマ』の特性で戦い、勝った。


 彼にとって、自分がどんな存在であろうが関係ないのだ。些細なもので、もっと大きなものを見てくれる。自分を。リリアンという存在を無条件で受け入れてくれた。

 口元が自然とほころんだ。


「いいだろう、我に仕えることを特別に赦す」


 リリアンに視線を合わせるよう膝をついていた大護は、差し出していた手を握り、そっとリリアンの側に置く。ここで必要なものは、縛りつけて力を搾取することでもなく、かしずくことでもなく。


 同じ戦場に立つ同志として、拳を交わす約束だ。

 リリアンも握り拳を作り、大護の拳に合わせるとニヤリと笑った。


「これで、我との契約完了だな」

「無論勝利を献上するさ。これから試合とかにも出たいしね」

「面白そうだ。貴様がどう戦っていくか、我は楽しみにして力を貸そう。その代わり、戦果は必ず上げることが目的である」


 リリアンの言葉に大護は大きくうなずき、屈託のない笑みを浮かべた。言葉にしなくても声にしなくても分かる。

 楽しみだ。そうワクワクする童子のように、無垢な瞳が語っていた。

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