6.散る花の恋

6‐1

 八百万の神様たちが住む、小さな国がある。

 八百万、というだけあって、数多居る神様には、好まれる神もあれば嫌われる神もある訳で。

 特にこの神様に至っては、人も動物も、生きとし生けるものみなにとって、特別に畏怖を抱かせる存在と言えるのかもしれない。



 明花さやかは、その存在に気付いていた。もう、ずっと前から。たぶん母から産まれた、あの日から。


 大好きな祖父の葬儀の最中、その人は姿を現した。

 周囲の誰も気付かない。気付かないのではない、見えていないのだ。その人を見ているのは自分だけだと、明花は分かっていた。

 黙ったまま見つめる明花に気づいたように、その人は振り向いた。


 暗い赤を秘めた暗褐色の無表情な瞳が、真っ直ぐに明花を捉える。

 初めて自分を認識した、と明花が思った時だった。


「…大きくなったな。」


 低いが艶のある声で、その人が明花に話し掛けたのだ。

 思いもよらなかったことに明花は返事も出来ずに、ただ目を見張ったまま立ち竦んでいた。


「明花ちゃん、大丈夫?」

 声を掛けられ、明花はハッと我に返った。


「疲れたでしょう?こちらで休むといいよ。」

 そう言って手招いてくれる祖母に従い、明花は庭先から移動する。

 チラリと振り返ってみたが、既にその人の姿は消えていた。


 その人を、明花は“死神”と呼んでいた。


 本当は何なのかは分からない。ただ、自分が死の近くにある時、その人の存在を感じることが多い。だから死神だと、明花は単純に考えただけである。

 大人びていてもまだ12歳の少女だ。世の中の知識や経験はまだまだ少ないのだから、当たり前と言えば至極当たり前な答えだろう。

 

 ───初めて、声を聞いたわ…


 艶めいた張りのある低い声は、どの大人の声よりも美しく、明花の心をときめかせた。


 ───私の成長を、見ていてくれてるのかしら…


 大きくなったな、と言われた。それは、明花をずっと見ていたということだ。

 見守られている。それがたとえ死神だとしても、明花は嬉しかった。


 明花には母親が居ない。

 母親は明花を産んですぐに、亡くなってしまったのだ。

 仕事で多忙な父親は祖父母に明花を託し、明花は祖父母の元で育った。

 優しい祖父母。週末には必ず明花と過ごしてくれる優しい父親。

 母親が居ない寂しさを埋めてくれる周囲の大人達に、明花は感謝している。自分は愛されている、と。


 けれど時折思うのだ。

 自分さえ居なければ、母親は死なずに済んだ。祖父母も父親も、大切な母親を喪わずに済んだのに、と…。

 そんな痛みを抱える明花にとって、死神の存在はとても意味深いように思えた。なぜ自分の傍に居るのか。自分とどんな関係があるのか。


 特別な、何か。

 そういうものに惹かれる少女特有の乙女心が、恋に似た想いを死神に対して抱かせていた。



 春休みに入ると、明花は祖父の眠る霊園へ毎日のように通った。

 霊園は家から歩いて30分程の場所にあり、美しく整備され遊具も設置されている為、明るい公園のようになっている。広い園庭にはとりどりの花が植えられていて、明花のお気に入りの場所なのだ。

 ここには母親も眠っている。

 きっと今頃、祖父と母親は明花の話をしながら、笑い合っているかもしれない。そんなことを考えながら、園庭を見渡せる小高い丘の、一本の欅の木陰に佇んでいた明花は、不意に隣に気配を感じた。


 特に驚きもせずチラリと隣を見る明花を、その人がじっと見つめていた。


「何歳に、なった?」

 静かに問われる。その深い声音に、明花は胸の高鳴りを抑えて答える。


「もうじき、13歳になるわ。」

「…そうか。早いものだな。」


 まるで旧知の間柄のように、肩を並べて言葉を交わすその人に、明花は訊きたいことがたくさんあった。

 けれど何一つ尋ねることも出来ないまま、ただ隣に佇む穏やかな空気に包まれていた。


「…明花。」

  

 名前を呼ばれ、驚いて振り向いた明花は、暗褐色の痛みを堪えるような瞳に囚われる。

 その人は、左手を伸ばすと明花の髪を撫で、泣き笑いのような笑みを浮かべた。


「明花…、幸せか?」


 明花に問い掛ける表情は、どうか幸せと答えて欲しいと、告げているようだった。


「幸せ…、…。」

 自問するように小さく呟き、明花は言葉を噛み締める。

 自分の幸せは、何だろうと。

 考えてもみなかった。今まで、自分は幸せなのかどうか、などとは。


「幸せって、よく分からないわ。」


 ただ、毎日は穏やかで優しさに包まれていると思う。祖母と父親が、精一杯に明花を愛してくれるから。


「私の、幸せ…。」


 考えてもみなかったのではない、と明花は気づく。考えないようにしてきたのだ。無意識に。なぜなら、自分は、幸せではないから──…。


「明花…。」


 困ったように名前を呼びながら、頬に伝わった涙を拭う指先に、明花はそっと手を重ねた。


「なぜ、そんなことを聞くの?あなたは、なぜ、私の傍にいるの?あなたは、死神なの?」


 堰を切ったように尋ねる明花に、男は諦めたようにため息をついた。


「死神では、ない。似たようなものだが…、この国では、我々は霊守たまもりと呼ばれている。」

「霊守?我々って、一人ではないの?たくさん居るの?」

「霊守は数多存在する。命は数が多いから、一人では護りきれない。」


 命を見守り、生を終えた命を迎えては送る…。それが霊守の役目だ。

 そう語る霊守を見つめ、明花は一番訊きたかったことを尋ねた。


「じゃあ、あなたは私の霊守なの?」

「──…、そうであって、そうでない、ということになる。」


 まるで禅問答のような答えに、明花は眉を寄せ、難しい表情を浮かべた。

 嘘をついている訳ではないと、顔を見ていれば分かる。たぶん言えない何かを隠しているのだと、明花は感じたが口にしなかった。


 自分の年齢では、聞いても理解が出来ないのかもしれないと、明花は思ったのだ。


「じゃあ、母の…。」


 なんの気も無しに、ふと漏れた言葉だった。だが、それを口にしたことを、明花は激しく後悔した。


「違う…っ!」

 絞り出すような声だった。

 痛みと苦しみと深い悲哀に、暗く、どこまでも暗く凝れる眼差しを残して、霊守は姿を消した。


 明花は声も無く、ただ泣いた。

「ごめんなさい…。」

 そんなつもりじゃなかったのだ。

 傷つけるつもりではなかった。なのに深く傷つけてしまった。

 自分が、子供だから…。

 

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