5‐2
今日は休日だということもあって、ゆっくりと朝風呂を堪能した奈津美は、キッチンへと移動して立ち止まった。
そこに、見知らぬ者が居た。ひとめで、人ではないと分かる気配を纏った
「こんなモノで拒めると考えたとは、安易な女だな。」
背筋が冷たくなるような声音で蔑むように吐き捨て、男神は手にした御守りを無造作に放り投げる。
その行動に奈津美はカチンときた。
元来、奈津美は勝ち気な上に短気ときている。
八尋に手渡された、静流からの大切な御守りを粗雑に扱われて、黙っていられるタイプではないのだ。
ツカツカと歩み寄った次の瞬間、奈津美は右手を振り抜いた。
パンッと小気味良い音をたてて、奈津美の右手は、男神の頬を平手打ちしていた。
「たとえ神様だってね、やっていいことと悪いことがあるわよ!」
「ふん、神に手を挙げるとは、ずいぶん遠慮が無い女だな?」
「手を挙げられるようなことをした、あなたが悪いんでしょ!」
全くブレない奈津美の強い言葉に、男神の目が細く眇られる。
ゆらりと立ち上がると、男神は奈津美の胸ぐらを掴んだ。
「先に、赦されぬことをしたおまえが、偉そうなことを言うじゃないか?おまえ、とうの昔に忘れているようだな、おまえの罪深さを?」
「え──…?」
思いもよらない言葉に、奈津美は狼狽える。
罪深いと、忘れていると詰られても、奈津美には何も思い出せない。
「俺と来るがいい。おまえの罪を教えてやる。」
男神はそう言うと奈津美を左腕に抱き、何かを唱えた。
ぐにゃりと景色が歪み、強烈な目眩が奈津美を襲った。咄嗟にギュッと目を瞑った次の瞬間、
「見るがいい。」
男神の言葉に弾かれたように目を開いた奈津美は、そこに疫病神の姿を見つけて息を呑んだ。
疫病神は両手を繋がれ、吊るされていた。その背には、血を滲ませた鞭の傷痕が縦横無尽に走っている。
思わず叫んで駆け寄りそうになった奈津美の口を塞ぎ、ガッシリと自由を封じた男神が、低く憎々しげに言った。
「あれが、おまえの罪だ。」
涙を溜めた目で奈津美が男神を振り向く。自分の罪ならば、自分に罰を与えろと目で訴える奈津美に、男神は残酷な言葉を言い放った。
「おまえを消せば、あやつの科も消せる。神はな、人が思う慈悲深い存在ではない。本来、神は無情な存在。己れの欲に忠実な、虫けらなんぞ踏みにじってきた存在ぞ。あやつがいつまでも、おまえのような者に縛られているなど、俺には赦せぬ。あやつが考えを変えぬと言うなら、いっそのこと、俺がおまえを…。」
男神が残忍な笑みを唇の端に浮かべた、その時だった。
「やめろ
凛とした声が響いた。
吊り下げられたままの姿で、疫病神が奈津美と男神を見ていた。
奈津美は辺りを見もせず危険も考えず、真っ直ぐ疫病神へと駆け寄った。
「御守りを、受け取らなかったのか、奈津美?」
「受け取ったわよ。それより、どうしてこんな酷い目に…。」
言葉が続かなかった。
奈津美はボロボロと泣きながら、そっと疫病神の胸に触れる。
「泣くな、奈津美。俺がおまえを守るから。」
吊り下げられて何を言ってるんだ、という軽口は返せなかった。
痛々しい疫病神の姿に、おぼろげに重なる記憶の面影。
───泣くな、奈津美。奈津美が嫌ならこの嵐は二度と吹かせない、約束する!
幼い奈津美にそう約束して、笑った少年の面影。あれは、あの少年は、確か冬将軍だと名乗った。
「まさか──…。」
記憶が雪崩のように押し寄せる。
近所の子と大喧嘩をして、叱られた挙げ句に外へ放り出された寒い夜、反省するまで入れないと言われ、意地になって家出を決行した奈津美の前に現れた少年。
この年初めての木枯らしを従えた少年は、寒いと震える奈津美を抱き締めて言ったのだ。
───俺が奈津美を守ってやる!
大切な役目を投げ捨てて、奈津美に温もりを分け与えてくれた、まだ幼い冬将軍の名前は…──。
「
その瞬間を奈津美は一生忘れない。
名前を呼ばれた疫病神の身体が光を放ち、目を疑う
銀を秘めた蒼い髪が伸び、瞳の色は淡い空色へと変わり、まるで凛と澄んだ冬の空気のように透明な眼差しが、奈津美を見つめた。
「思い出したか。」
悪戯を見つけられた子供のような笑顔で、疫病神…いや、冬将軍が囁いた。
「そんな…、あんな子供の…。」
木枯らしなんか大嫌いと言った奈津美の、子供特有の無責任な戯言を、約束だと言って本気で守っていたのか。そんな約束のせいで、冬将軍は科を責められていたのかと、奈津美は自分の無責任さに胸を締め付けられる。
「泣くな、奈津美。俺が勝手にしたことだ。科は俺自身が招いたこと。誰のせいでもない。」
「そうだ、おまえが馬鹿なせいで、暖冬の異常気象に皆が苦しんでいたのだ。この役立たず。真名が戻ったからには、役を果たして貰うぞ。」
情け容赦ない言葉を浴びせ、雪と呼ばれた神が指を鳴らす。
ジャラリと重い音と共に、冬将軍の手枷が外れた。
「帰って良い。務めは忘れるなよ。」
「ありがとう、雪。」
礼など不要と姿を消した仲間を、冬将軍は思う。いつまでも進展しない、解決もしない状況に業を煮やして、奈津美をここへ連れて来たのだろうことは明白だった。
仲間を思う彼なりの思いやりだったのだ。奈津美にはちょっときつい荒療治ではあったが。
「奈津美、帰ろう。」
そっと抱き締めると奈津美が顔をあげ、八つ当たり気味に怒る。
「馬鹿、なんで話してくれなかったのよ。」
困ったように冬将軍は笑う。
話したくとも話せなかったのだ。それが、真名を喪った冬将軍に課せられた科だ。
「俺の真名を口にしたからには、奈津美は俺の嫁だな。」
不意に話題を反らされ、奈津美はとんでもない事実を突きつけられる。
「そんなの!」
もうずっと前に、受け入れたのと同じじゃないか、とは返せない。結局、意地っ張りは変わらないのだ。
奈津美は言葉にならない想いを込めて、冬将軍を抱き締めた。
今日も。
八百万の神様の住む国は
つつがなく平穏である。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます