4‐3
「…吾は、変わってしまった。」
苦しげな呟き。
そのまま俯き黙り込んでしまった荒神に、高梨は掛ける言葉を探しあぐねる。ふと、買ってきた物の中にチョコレートがあったのを思い出し、おもむろに袋をガサガサと漁った。
音に釣られて顔を挙げた荒神の目の前に、高梨は包装紙を外したチョコレートを一粒差し出した。
「甘い菓子です。神様食べてみて、美味しいですよ。」
人に見えない神様が、人の食べ物を食べられるか分からなかったが、とりあえず自分と手を繋げたのだから、自分が持っていれば食べられるのではないかと、高梨は考えたのだ。
荒神の口元にそっと差し出す。すると荒神は高梨の手に触れながら、恐る恐るチョコレートを口にした。
チュッと高梨の指先から吸い取るように、チョコレートを口にした荒神の目が丸くなる。
「甘いでしょ?」
問う高梨に、こくこくと頷いた荒神の目から涙が溢れた。
「か、神様?」
「嬉しかったのだ…。」
泣かれて狼狽える高梨に、荒神はぽろぽろと涙を溢しながら続ける。
「昔、同じようにして、吾に菓子を食べさせてくれた少女がいた。毎日遊びに来てくれて、吾には大事な大事な存在だったのだ。」
自分の大事なおやつを荒神の為にと持ってきては、半分こにしてくれた心優しい少女。妹のように可愛がり、ずっと共にいようと名を交わして誓ったのに。
あの日。少女は泣きながら助けを求めて来た。親が勝手に決めてきた縁談で、嫁がねばならないと…───。
嫁いだら、もう此処には来られない。行きたくない、そう泣く少女を荒神は護る事が出来なかった。
少女は親兄弟に引きずられるようにして、荒神の元を去った。
泣き叫び助けてと手を伸ばされたのに、荒神にはその手を掴む事が出来なかったのだ。
荒神は、奪われる哀しみと怒りで、その時には既に、本質に変異を来していた。だから掴めなかった。少女の手を。きっと、少女には荒神の姿も見えなくなっていただろう。
あの時、少女は荒神の真名を叫んだのに、変異を来していた荒神には、真名の力が届かなかったのだ。
そうして名を喪った神は、荒神に堕ちた。怒りと哀しみに捕らわれた諍いの神へと───…。
「もう…吾は、戻れない。」
真名を思い出せない。
真名を呼んでくれる、呼び戻してくれる少女も居ない。
ぽろぽろと泣く荒神に、高梨は茫然としていた。
───その、話…
聞いたことが、ある。たった一度、死んだ祖母に。
幼かった頃に、祖母が大事な言葉を預かってくれないかと、高梨に話してくれたのだ。
当時、祖母は少し認知症が始まっていて、幼い高梨の他は誰も、祖母をまともには扱っていなかった。
高梨だけが、甘い菓子をくれる祖母の話相手になっていたのだ。
祖母は、まるで少女のように頬を染めて話してくれた。美しい神様の話を。その神様の名前を自分だけが知っているのだと。
とてもとても大事な名前で、いつか自分の代わりに神様に届けてくれないかと、真剣に話してくれた祖母。
一人前の大人にお願いしているような祖母に、なんだか誇らしい気持ちになって、受け取った名前は…───。
「まさか…、“
偶然にも程があるだろうと、半信半疑で高梨が呼んだ瞬間、
「吾の、真名だ!」
カッと荒神の全身から光が迸った。
腕を翳して光をやり過ごした高梨の前に、先程までとは別人のような姿の荒神が立っていた。
柔らかく波打つ栗色の長い髪、大きな栗色の瞳にふっくらとした紅い唇。ほんのりと紅潮した頬が色の白さを際立たせる可憐な美少女に、高梨はただ唖然とする。
「何故、吾の真名を…。」
震える声に、高梨は祖母との約束が果たされたのだと思いつつ、
「俺の婆ちゃんです。貴女と名前を交わした絹江は、俺の大好きだった婆ちゃんなんです。」
こんなことがあるのかと笑った。
おとぎ話かと思っていた。それでも忘れずにいたのは、祖母が真剣だったからなのか、話の中の美しい神様に憧れたからなのか。
まさかこんな形で出逢い、約束を果たすことになるとは、思ってもいなかったのだが。
「そうか…、絹江は…。」
死んだのか、とは問えなかった。
人の命は短い。その儚さを、真名を喪うまでは、
真名を取り戻しても、もう鎮守としてこの地に祀られていた頃には、戻れない。
思いは、死んだのだ。
あの日。
「高梨、おまえの真名を吾にくれないか?」
「えっ?」
唐突な申し出に、高梨は目を見張った。その顔をまっすぐに見つめ、今一度問う。
「吾と共に、生きてはくれまいか?」
真名と共に新たな力を授けてくれた高梨を、孤独の闇を払ってくれた笑顔を、喪いたくないと願いながら。
「俺を選んで後悔しませんか?名前を交わしたら──。」
「高梨が、良いのだ。吾は高梨を喪いたくない。」
ひたむきな眼差しに、高梨は天を仰いだ。こんな美少女にかき口説かれて、墜ちない男が居たら顔を拝んでみたいと唸る。
最初から一目惚れだったのだ。
姿形が変わっても、内面から滲み出る可憐な愛らしさは変わらない。
傍に居たいと、守ってやりたいと思う自分は騙せない。
「いいですよ。」
「本当か!?」
胸に飛び込んで来た神様を抱き締め、高梨は耳許で囁く。
「俺の名は、高梨
一生離しませんよ、と続けた高梨に、神様は可憐に幸せな笑顔を浮かべた。
今日も。
八百万の神様の住む国は
つつがなく平穏である。
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