3‐2
梅雨の季節も、まもなく終わろうというある日。
淳平は神様を散策に誘った。
小さな神様を肩に乗せ、落とさないようにそっと歩く。
神様は、淳平の思いやりにドキドキと高鳴る心臓の音が、聞こえてしまわないかと思うほど、心踊っていた。
「昔、この村に叔父が住んでいたんだ。」
歩きながら、淳平がゆったりと語りだした。
「叔父も画家で…、僕が画家になったのは、叔父の影響なんだけど…。」
大好きな叔父の住んでいた、こじんまりとしたアトリエの庭が、特に好きだった。その庭を神様にも見せたいと、淳平が笑う。
「アトリエが残っていればいいのだけど…。」
無くなっているかもしれない、と呟きながら歩いていた淳平が、立ち止まった。
「あぁ、残ってた…。」
嬉しそうに笑う淳平の肩で、雨の神様は驚きに目を見開いていた。そのアトリエの庭を、神様は知っていたのだ。そこは昔、神様がとても気に入っていた庭だった。
白や淡いピンクの薔薇と、優しい空色の小さな花が咲き乱れる美しい庭。
確か花の名前は…、
「ブルースターが見事だ。」
そう、ブルースター。
この小さな青い花に逢いたくて、時々訪れていた。
いいや、本当は違う。
ブルースターを手入れする淳平の叔父の横顔に淡い恋心を抱いて、神様はこの庭を訪れていたのだ。
優しく温かい眼差しの、穏やかな人だった。
決してその目には映ることがない自分は、ただただ、ブルースターを手入れする姿を見つめるだけで、精一杯だった。
ある日、いつものように庭を訪れた神様は、異変に気づいた。
ブルースターの妖精が真っ赤に泣き腫らした目で、神様を迎えたのだ。
庭には黒い喪服姿の人々がいて、微かなすすり泣きが満ちていた。
───なんと、儚い命…
人の命とは、花よりも呆気なく、唐突に喪われてしまうものなのかと…───。
信じがたい事実に茫然と立ち尽くし、静かに涙したあの日を最後に、神様はこの庭を訪れなくなっていた。
あまりにも悲しくて。
あまりにも、愛おしくて…。
「…やっぱり、きみだったんだね。」
淳平の声に、回想から戻った神様はハッとした。
いつの間にか神様は、淳平の隣に並んでいた。淳平の肩ほどまでの背丈の、人のサイズに
神様を眩しげに見つめ、淳平は静かに続けた。
「あの日…。叔父を見送ったあの日に、僕は庭で泣いているきみを見たんだ。」
それは、一枚の絵のような静かで透明な情景だった。
しとしとと降る雨の中、忽然と現れた美しいひと。
はらはらと涙を溢し、涙したまま溶けるように姿を消した人───。
「泣いていたきみに、僕は恋をしたんだ。」
淳平はそう言って、神様をそっと抱き締めた。
忘れられなかった。
あの日から、ずっと探し求めていた。ひとめで淳平の心を虜にした、初恋のひとを…───。
想いを込めて、しっかりと抱き締める。
「好きです。もう、きみを離したくない。僕のものになってくれませんか?」
淳平の告白に神様は震えた。
深い想いが、淳平の全身から伝わってくる。
ふと気づけば、ブルースターの妖精が、嬉しそうにこちらを見つめて笑っていた。
──おめでとう、神様…
小さな祝福が聞こえた。
*
梅雨明け。
すっかり晴れ渡った早朝に、淳平はいそいそと庭で何かをしていた。
「淳平さん、何をしているの?」
その背に神様が声を掛ける。
神様は告白を受けた日から、淳平のアトリエで暮らし始めたのだ。
「きみが喜ぶかなって思って。」
振り返った淳平が、弾んだ声で神様を手招きする。
近寄った神様は、小さく「あら!?」と驚きの声を洩らした。
そこには、ブルースターの花が植えられていた。
「あの庭のブルースターを分けて貰ったんだよ。」
今は他の人の手に渡った叔父のアトリエの庭から、淳平は頼み込んでブルースターを一株だけ分けて貰ってきたのだ。
小さな株の上には、あの妖精が座っていた。
「神様、私がたくさん増やしてあげるわ。」
妖精が幸せそうに笑う。
神様は淳平の背中にギュッと抱きついた。
「ねぇ、ブルースターの花言葉を知っている?」
囁くように問う神様に、
「信頼、信じる心…だろう?」
ちゃんと調べたよと淳平が笑う。その眩しい笑顔に、神様は淳平の耳許でそっと囁いた。
「私の名前は…
魂の真名を告げられ、淳平はとても幸せそうに微笑み、神様をしっかりと抱き締めるのだった。
今日も。
八百万の神様の住む国は
つつがなく平穏である。
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