3.梅雨籠り

3‐1 

 八百万の神様たちが住む小さな国がある。神様も動物も人も、それぞれがそれぞれの領分で暮らしている、穏やかで平和な国。

 自然豊かなこの国には、梅雨という季節がある。


 しとしとと連日降る雨には、愁える人、儲かる人、嫌われる神様、喜ぶ動物や植物…と、反応は様々に分かれるのだが──…。



 しとしとと降る雨は柔らかい音を奏でて、雨の神様の愛らしいレインコートを濡らす。ここは水の京と呼ばれる、小さな水郷の村。

 小さな神様は緑色のレインコートを着て、村の中心にある公園を散策していた。

 この村に神様が居を構えるのは、毎年梅雨の季節である。長雨にうんざりした人々や動物達の、雨に対するぼやきを聞きたくないからだ。


 水の京の公園には、梅雨を歓迎する空気が満ちていて、誰も雨の神様への文句を言わない。

 梅雨籠りするのには、うってつけの場所だ。


「神様ったら、小さな雨蛙みたいに見えるわ。」

 朝からご機嫌の紫陽花の妖精が、神様に声を掛ける。


「お気に入りのレインコートなのよ。」

 紫陽花を見上げて神様が笑った。その時だった。

 突然大きな網が、神様の上にバサーッと落ちてきたのだ。


「キャーッ、神様っ!?」

 妖精の悲鳴に重なって、

「捕まえた!!」

 明るく弾んだ声が響いた。


「綺麗な碧色の雨が…え、る……じゃ、ないっ!?」

 神様をムズッと捕まえて、顔を近づけた青年の声が素頓狂に裏返った。


「えぇっ!?お…女の子!?」


 雨の神様が固まる。

 ──見えてる、私が…

 それが、出逢い。



 珍しい碧色の、綺麗な雨蛙を見つけたと思ったのだ。捕まえたら、それは小さな女の子で。

 混乱したまま林淳平はやしじゅんぺいは、捕まえた女の子をアトリエに持ち帰ってしまった。


 淳平はしがない絵描きだ。

 画家として芽は出ていないが、幸い図鑑などに用いられるボタニカルアート等で、生活に困らない程度の収入を得ている。


 この水の京にアトリエを構えたのは、昔やはり絵描きだった叔父が、ここにアトリエを持っていたからだった。

 懐かしい記憶に誘われて、霧雨の中を散歩しているうちに、この不思議な少女を捕まえてしまったのである。


「きみは、妖精?」


 机の上に柔らかなタオルを敷き、その上に神様をそっと降ろした淳平は、神様を驚かさないように囁く声音で問い掛けた。


 神様は困る。

 この国には、時折こうして神様と遭遇してしまう人が意外と存在するし、神様と夫婦になっている人も思ったより居る訳で。

 想像以上に、神様はポピュラーな存在ではあるのだが。


 雨の神様は、人見知りなのだ。


 人見知りだから、極力人の目に留まらないように気をつけてきた。

 雨の日は緑色のレインコートのお蔭で、万一見つかっても雨蛙だろうと思って見過ごして貰える。

 まさか雨蛙を嬉々として捕まえる大人がいるとは、思ってもいなかったのだ。誤算である。


 淳平は図鑑などに絵を描いているせいもあって、小さな生き物や昆虫に多大な興味を持っている。その為、散策に出掛ける時などは補中網を持って、周りに変人と思われても一向に気にせず、子供のように捕まえて歩くのだ。

 餌食となった神様は、不運だったとしか言えない。


 困惑したまま黙っている神様に、淳平も困った顔をした。

「言葉、分からないかな?」


 どうやら淳平は、言葉が通じてないのかと思ったようだ。

 神様は慌てて、ふるふると首を左右に振って見せた。


「あれ?…じゃあ、話せないのかな?」

 更に困った顔をする淳平にもう一度、首を左右に振った神様は、小さな小さな声で返事をした。

「話せます…。」

 聞き逃してしまいそうなほど小さな声に、淳平は安堵の笑顔を見せた。


 淳平は小さな神様が、自分と同じように困惑しているのだと気づいた。

 これ以上困らせてはいけないなと、質問したい気持ちを押さえて、


「絵を、描いてもいいかな。きみの絵を。」

 そう尋ねてみる。


 神様はポカンと淳平を見上げた。

 自分を描きたいと言う淳平に、初めて興味が湧いたのだ。

 神様が小さく頷くと、淳平はスケッチブックを持ち出してきた。


「…あ、きみはそこに居てくれればいいよ。動いても構わないからね。」


 淳平はサラサラと鉛筆を動かし始めた。時折、じっと神様を見つめてはサラサラと描く。

 最初は何が始まったのかと緊張し、硬直したように動かなかった神様だったが、慣れてくるうちに、淳平の真剣な眼差しに釘付けになっていた。


 意外に長い睫毛が影を落とす瞳の色は、アンバーを思わせ吸い込まれそうだ。

 綺麗な瞳。

 子供のように穢れのない、けれど深い想いを映す瞳。

 昔こんな瞳をしていた人が居たと、神様はぼんやりと思い返していた。



 それからというもの、神様は毎日のように淳平のアトリエを訪れるようになった。

 淳平もまた、神様が来てくれることを心待ちにするようになっていた。


 しとしと雨が降る庭先に、小さな緑色のレインコート姿を見つけると、淳平は急いでテラスへと続くガラス戸を開ける。


「いらっしゃい。」


 恋人を招き入れるように優しい眼差しで笑う淳平に、神様は胸がときめいてしまう。


 人見知りの神様は、恋をしてしまったのだ。

 恋をしているとは、気づかずに。


 淳平が描く絵を見たり、窓から雨に濡れる庭を見つめたり。そんな過ごし方をするだけの神様だったが、とても心穏やかに、満ち足りた気持ちになれるのだった。


「神様はどこに住んでいるの?」

 ある日、淳平が静かに問い掛けてきた。


 どこ、と聞かれると困ってしまう神様だ。人の世とは違う理の世界に籍を置く神様たちは、人のような生活形式はない。


 家は在るようで無いし、無いようで在る。

 そんなだから住所などは当たり前だが無いし、住んでる場所を説明するのは、大変難しいのである。


「…なんと言えば───。」

 説明が出来ない神様に、淳平は少し寂しそうな笑みを見せた。


「神様や妖精や精霊…って、やっぱり不思議な存在なんだね。」


 人とは違うのだ、と言っているような呟きに、神様の胸の奥がツキンと小さく痛んだ。


 ──…今のは、なに…?

 神様は胸を押さえる。

 小さな小さな恋心が、痛みに震えていることに気づかないまま。


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