紀ノ章 其ノ下

 現時点で、すでに記録上においてその正体が暴露された、と言うのに。

 いまだ、『世界一価値のある宝物たからもの』と聞いて、人たちの想起するものはみな一様に「観念」だ。具体的想像を持たない、たとえば生命の操縦や、たとえば不可思議の実際化などとして、結果、真摯しんしに考えようとされずに中途半端な形で終わってしまう。それだけ人とは「世界一」の語に従って価値観を、何ものかに決定づけることを避けている。極論することは、社会人たちの忌諱きいに触れる行為と同じだと言うことである。では「宗教」とは、「傾倒」とは何か? 人に拘らず何かについて没入し、ただそればかりを信頼し実現しようとする心理を、それらは言いあらわしているはずだ。ともすると『亜門ロキ』の説いた「宝物」「救済」の所在とはそれらとよく似た何か――と、なるのである。学問のように人間の可能性の拡張・存在の向上を目指すものにあらず、自然摂理のように人族を超越した何かにあらず、そして、宗教や傾倒のように定められた誰か(この場合「人類」の語の真意も含む)のみが救われると言う価値にもあらず、塔は、あまねく生きるすべてを「どうにかしたい」と願われて、現前したものなのである。塔は極論にして、普遍性を生み出せる存在だと、かれはおもい出した。それでも、どうして救済の対象が人間に落ち着いたのだろう。いつの時代においても、棄て置かれた概念さえ「どうにかしたい」と塔に託したはずであったのに。


「望むらくは……げんじつは現実へ、架空は論理かくうへ、相成らせること……」


 その髪色は、大胆不敵な色に思う。いつの世の土壌にあっても尋常になく、しかし空にははるかな太古から満ち満ちていた、科学的に常識的な――透きとおったことと、並存する確かな色彩を意味する色に、それは見える。頭髪の主は、しゃれっのあるバーテンダー衣装に身をつつむ背の高い女性だった。

 女性は一人きりで、文字のような模様が無秩序に敷きつめられたその地面を見つめて、今のようにそのなかの一つを読み上げた。どうした意図があるのか、すべてローマ字で書かれている。言葉の上には誰かの姓名らしきものがうかがえた。


「……どういうわけか、ひどく気に染まない意見だと思えるな」


 すべからく女性の意識にはのこらなかった。


「……だが。なぜかひどくわたしに向かって突き刺さってくる。本当に、どうしてか」


 女性は、言葉に注意しながらも、まるで前提にある塔の組成などには興味はないと言うようなさとり澄ました顔で言った。

 そして、この場所に溢れかえった「素知らぬ名前」のなかに、そのようにある種の後悔や不平不満をも儀式たらしめようとするものは一つとしてあり得なかったのである。女性が果たして限定的にそれだけに気を取られてしまった理由は、むしろ、直前に見た特異性にしかないのだ。

 腕組みをし寂寞たる空間で孤独にいる彼女の、むなしさを込めた瞳はふっと、その先の階段へと転ぜられた。


「このわたしに全体、どうしろと申されるのか? ふるとうよ、」


 客観的にはおよそ粛々しゅくしゅくたる語調に聞こえた。しかし、現実ちょっとした語尾のところには、しろうと目には分かるまい親しみのニュアンスが秘めやかにではあるが、存在していた。


「教えてくれよ。なあ。わたしはほんとうに、期待に応えられるのか……?」


 無論、ここに吐露されたその不安を、後世知る者はだれ一人としてないのである。


          ◆ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


「なあ、『とう』は、どうしてこの形じゃなきゃならなかった?」


 そうして見上げた先のほむらにしか空間をつくり出せず、狭いなかにちぢこまり、露木つゆき かたるは曖昧な色のちぢれ毛を指でしごいたり、今朝に剃りわすれた顎の毛を気にしたりしながら声を上げた。

 隣で座る、鮮やかな青い髪をした四条しじょう 霧架きりかもううん、と首をひねっていた。

 二人はいまだに階段を登らないでいたのだ。


「それは……ほら。小説家さんが作品のイメージを着想する最初のとき、思わず、突飛なことをかんがえちゃうって言うことの弊害だとおもうわ」


「やけにメタメタした返答だよなっ、」


 談は苦笑して言った。


「ロキロキは、かさねちゃんを主軸に書こうとしたの? それとも、塔の人たち?」


 彼女の問いかけ。累、とは談の出版した、あるライトノベル作品の登場人物の名前だった。累は設定上この塔の「今」を統べ、登って来るさまざまの挑戦者に『世界一価値のある宝物』を手わたす義務を負っていた。

 それだから当然のことだ。

 談に、累こそ主人公だと言わせることは言うまでもなく、容易な条件だった。


「……ねえ、ロキロキ。わたしは、階なんて登らなくたっていっつも冷静だよ。だから本当に、塔のこの形に必要があったかどうか、と言う意見に対しては、そうじゃないと思う、としか答えられない。戦うって決めたよ? でもロキロキの気持ちを、知ってるからなおさらだよ、登る気に、なれないの。もう疲れちゃった」


「お前、おれになんかさせたいわけだろ?」


 と、決めつけて談は渋面を浮かべた。


「おれにできることなら、大したことじゃないぞ?」


「帰ったら、『IMMORTALE《イモー・テイル》』にわたしを書いてほしい」


「ムリだ」


「知ってるよ。ロキロキは上まで行ったらちゃんと累ちゃんに、殺してもらうつもりなんだよね」


 あっけらかんとして言われた。何も反論せずに、彼の不満な表情はうつむくしかなかった。


 霧架は、黙っていると、「ふん」とふくみ笑いをし、「止めるつもりはないよっ。だってロキロキがこの塔と累ちゃんを望んだ最初の人だから。それを、わたしが止めていい理由なんてないよね」と肯定的に話した。


 塔のなかに存続する試練たちは一様に、あらゆる人間を塔の至宝にかなう、思考形態にいざなう「洗脳」の類いであった。これをあるべき姿に認め、撃破せしめた霧架は場所にとってあるべき姿となっていたはずである――いや、はずだった。

 しかし今もなお「肯定的な」物言いであることは、即ちまだ「宝物ほうもつ」に対して、談の目的に対して思うところがあって、すべて容認できるわけではないと言う証拠だととれるのではないか。


「だから、厳密に言うとね、」


 そこで腰を下ろしたままの霧架は、突然胸元をひらいて談に近づき、


「わたしを、管理者候補として認めてほしい」


「それは、おれも気掛かりだった」「んだ」「でも、」その手を押さえる。「霧架。人間には、生まれてから死ぬまで一己いっこの時間の流れにしかめない、なんて分かり切った制約がある。価値観を決めるのはおれたちの方だと言ったろう。それを肯定的に受け留められるヤツがいるなら、じゃあ、そいつを不幸にしか思えないヤツは、どうやって救ってやればいい……?」


「できないよ、」


「『肯定的に受け留められるようになるまで頑張る』ってのも、堅実的な考え方だ。そして現実的だ。これができなければそいつは、社会に暮らすことなんてできるはずもない」


 談は、霧架の纏う衣装をみた。首から腕周りをおおう黒の透け布は、袖口のほうが若干細くなったドルマンスリーブ似の形で、下に着た色のひかえめな上着と紺のスカートを一層フォーマルに見せている。きわめつきのピンヒール。


「もっとも、おれたちの暮らすべきところは社会じゃない。確かな論理の裏づけとこれによる救済の待つ、もっと言えば『真理』って場所だ。これを目指すものが学問だ。対照的に、おれや霧架が身に受けようとしているものは、あくまで解釈であり、方法論の可能性をだっせない」


 それとは、「差し詰め、霧架の『宝物ほうもつ履行りこうの手段として、今の状況が最良だったってことだよ」と。


 超然論理に違わぬように。塔内、『IMMORTALE』の世界観でもって談が(徹底してフィクションの再現を図ったと言う前提はあるものの、)無学さをひけらかしていた事実を、彼女が受け留めそれでも遵守したいと願うのなら、これが起こり得たこともまた承知しなければならない、と。

 少女は未熟に「主観的であること」を辞め、塔のなかに生きるための管理者へ再誕するとき、かならずもとの外見も、艶やかで煌びやかなものに変わる。アジア人最大の魅力と言うべき漆黒の頭髪は、宝石のごとくカラフルに。生前の傷は消え、からだに二度と傷つかなくなる「肉体に起こった表面的・内面的な異常を排斥はいせきする力」を宿し。知識をたくわえて。

 もう一つ、本来であれば管理者へと相なった彼女たちは細やかな胴と四肢に、絢爛けんらんたる踊り子の装束を着込んでいた。どんな泥濘にもぬれず、どんな嵐にもからめ取られず、どんな横暴にも軽やかにして屈しないための、絶対的に美しい衣装を身にまとっているはずだった。――現に、霧架はこれだけを持たないで塔の管理者と遜色そんしょくない実力を振るっている。それはどうしてなのか? 談は差しあたりへたでも説明するべきだとは考えていたのだが、如何せん、理由が分からないで、露見した自分の作品への不義理を悔やむしかなかったのだ。


「あのさ。小説家ってものは別に、絵本書きじゃない。寓意性と説得力のあるものがはやると言う側面ではそう違いやしないけども、小説は、奇跡きせきが奇跡の形をしていてはならない。あらゆる道理だとか学術的知識とかを動員し切って、説得力を論理フィクションにまで引き上げることができなきゃ、いち主張に適ってりゃ、なんでもし放題の童話とは、大きな差は生まれないじゃないのか」


「今の、ロキロキが言っても信ぴょう性無いよ、」


「……ごもっともで」


「もう上がろう?」


 霧架は、強引に言いつけた。

 引っ張られた手を、すかさず談は制止して見た。


「霧架、おれが何をだらだら話しているのかって言うとな、じつに簡単なことだ」


 立ちすくむ霧架の額にしわが寄っていた。


「なに?」


「このまま行けば、お前は、ろくな死に方ができないかもしれない、ってことだよ」


「どういうこと?」


「『至上しじょう』ってものは、場所の理屈に基づいて決められる、あくまで『普遍的な観念』だ。今の霧架が求めている『宝物たからもの』と、もしかしたら違っているかもしれないんだ。本当に、認められるんだよな、」


 談の問いかけに、幾秒か目を逸らした霧架は、すんと鼻を鳴らすと、大人びた笑みで振り向いて言った。


「……わかってるよ。塔が、自分らしく死ぬために登る場所だってことも、ずっとまえから知ってる。安心してロキロキ。何も、間違ってたりしないんだよ」


 塔内のこけむして、こなれた空気に、かの少女の声はつめたく伝播した。


          ※ ※ ※ ※◆※ ※ ※ ※


 人同士のエニシに限定された一説ではないが、そこに居る人数によって解釈が体系化・詳細化され、さらに画然たる真理を見いだせる、と言う考え方がある。塔がそれだ。

 『世界一価値のある宝物』など唯一絶対の価値を据えながら、道程に種々の目的と人間が介在している状態が、談の著作ではおよそ三千年間も続いてきた。そのなかに下位層の挑戦者へ「宝物」の内容を正確に伝誦でんしょうできたものは果たして存在し得ず、彼らはこれれかしと謳ってくいぜを守る真似事しかしかできなかった。だからこそ塔は現在のような超然主義(ものは言い様。人の元来の素質でしか「宝物」への価値を決められないのなら、便宜べんぎ主義と言ったほうが差し支えない。)を全うしようとできるのである。

 塔の名のもとに、人たちは救済を求めた。

 しかしその塔とは過去、救済を求めた人たちによって想像・解釈された論理の結晶だ。

 結果、人間を救おうと言うこころみは人間からしか起こらず、また、これをいつかに夢見た理想形へと導くものも人間しかいないのだと。

 その――人間たちが、塔内から消えた。

 正確には「存在を目視できなかった」。


 談たちは第4階層と第5階層の間に位置する別称『シャルルの』、蔑称『錯綜した時代の名残』の元娼館で、従業員たちの利用しただろう常宿を借りることにきめた。本館とは異なり内身はひどく貧し気なベッドと食事する小テーブルしか置かれなかった。そこでさすがに添い寝、とはいかず、と言うよりたんに場所が蒸し暑かったので彼は掛布団だけ取って床に寝転がる。「お前はこれでも羽織ってろ」と、嫌がらせにか、霧架にはにおいのついたスウェットの上着を投げやりに投げつけた。拾って軽くほこりを払う動作をした霧架はそれでも、文句一つも言うことはなかった。


 けれども、頭を置いたところにみょうな生臭さが。ふとしたことで声が出た。


「ふんっ!」


「なに?」


「いや……、」


 本当に何も無かったので、すぐに鳴りを潜めた。


「どうして……だれも、居なかったのかしら、」


「わからん」


「気にならないの?」


「別に、」


「うそだよ」


「必要、なかったからだろ。ここではなんでもそうだ。起こってもしかたのないことは初めから存在を許されない。ちなみにこれをねじ曲げられるのは、今じゃ、累しかいない」


 暗い。何度も瞬いて光をとり入れるから、自分が紺か灰に近い何かしらの色をしていることははっきりしていた。今は暗い、と言う色調に沈んでいることを自覚できる。松明たいまつは、もうどこのものも残っていないのだろうか。


「もうさ、おれたちの思考は最終形のはずなんだ。究めるじゃなく、窮まるって意味での行き詰まり。毎秒の変化もきたしやしないほどに、それこそ、もう試練って名目の『洗脳』だってする理由がないんだよ。『オニックス(の間)』も『クレー(の間)』も、自分の価値観を決定的にするための交流にすぎなかったように、そこに根づいてる連中だっておんなじだった、ってこと」


「みんな、そうだったの?」


 霧架の憂鬱はよく伝わった。「管理者候補の子たちは、みんな、こんなに退屈な思いで塔を登ってきたの?」


「この世界は別に、戦って勝つことが目的じゃあないだろ。おれたちの冗長な生涯に正しくけりをつける。そんだけ、おれたちは生きてるあいだに迷走してきたんだよ」


「だから、塔のなかだけでも、順路を歩かせてあげたかったの?」


「そうだ」と、談はみとめた。


「ロキロキ。人は、いつになったらうまれなくなるの? このままじゃ、かわいそうだよ……」


「急に、恐ろしいことを言うなっ」


 そんなふうに笑い飛ばしても、決して無下にすることはなかった。


「まあ、一番手っ取り早いのは『正当な救済』を確立して、迷い子が生まれるその都度、定義された生の喜びと『至上の死』を受け入れさせて、全部を無に還元することかな。それだって人間がうまれなくなったわけじゃない。……けど、おれたちはうまれるまえに何も持ちこまなかったはずなのに、死ぬまえに何かのこしたがるから、気がつけばこの世んなかは遺産だらけになっちまった。複雑化したのは、人間が自分の生き死にに納得できなくなった所為だろうから、」


 だから、この世界にはもう真意の「死」が、死んでしまっている、と。

 現実に言葉として遺った死が示したのは、その絶対的な悪を打ち倒したことに対する歓喜と、これから二度と概念の死が戻らないよう人間に、生への無条件降伏を強いると言うものだった。「永遠の眠り」が「死」にはあるはずない生命の要素を兼ね備えるのも、もはや言葉の支配だろう。それを超然論理の範囲だけで評したとき、救済とは試練とは差し詰め「宝物」に適うための「洗脳」となり、圧倒的生への渇望を植え付けられた私たちに、間違いを再確認させるためのもので――目には目を歯には歯を、「洗脳」には「洗脳」でしか対処できない、と言うのである。


「おれたちも、人間に生まれちまったからには人間としての、生き死にを全うせにゃならんが、そうだな。敢えて言うとなれば『もう生まれて来ないために』、『唯一性を作る使命みたいなものがある』と思う。おれたちの必要を断つための、それがきっと救済なんだ」


「……ロキロキは、毎晩そんなことを思っていて、疲れない?」


「うるさいし。お前も、人のことは言えないんじゃないのかっ」「そうだね……」霧架の声はどこかおびえるように小さくなった。


「みんなが、ままだと言っても、わたしはロキロキの味方だよ」


「最終はそうなるんだもんな」


「違うよ。ロキロキが何より自分を幸せにしようとしてもっ、わたしは責めない。塔の『宝物たからもの』は一番、誰よりもロキロキのために用意されてるものだってわたしは、分かってるんだよ、」


「そ、」


 それだけ返事をしたら、まるで示し合わせたように二人は深い眠りに就いた。


          ※ ※ ※ ※ ※ ※◆※ ※


「わたしは、偶然を信じたいのだよ」


 寂寥とした屋内に、煙の立ち込めるようにすうっと声がにじんでいった。


「いや――信じなければならないのだよ」


 完全に空気ができ上がると、今度は、女性の(きっとバーテン衣装の下に)身につけた貴金属のアクセサリーなどが騒がしく鳴る。そうだそうだ、と、彼女の立場を後押しするみたいに。

 手に奇麗な空色をして、一方外はねのひどい髪を押さえ、気品を醸しながら黒の液体をあおると、おそるおそるつぶやいた。


「わたしは、なぜ、彼をなぐったのだろうね」


「それで、よく、平気な顔してられるねっ」


 と反応を返すのは、椅子に座った青紫の少女。

 趣深い、現実の発明をかすめ取ったかのごとく見事なバーの様相に彼女、ふて腐れて不満顔の霧架は、おおっぴらに肘をつき頬杖もついて女性を睨みつけて居た。


「ホントに……」


「君も、わたしにり返せばよかっただろうに」


「嫌。暴力なんて、大きらいだよっ」


「そうか……いや、わたしも、人をなぐるときには当人も、二つの痛みを負わなければならないと思うね。一つは、感情に逸り他者を傷つけようとする自分の良心の気づき。もう一つは、なぐったあとけんや腕にまつわったあの衝撃の残滓ざんし、と。けれど、君もわたしにも後者のものは得られない、骨身の修復される速度のほうが、ちくちくと言って罪悪感の結晶化するより明らかに速い。塔に生きる以上は、それもすべて現象の一つに成り下がるのよ」


輪廻りんねさんは、人なんて傷つけない人だと思ってたのに、」


 見掛けバーテンダーの女性は、同様に、『IMMORTALE』に過去登場していた『セレスタイン酒場』の不老の女主人、輪廻・セレスタインであった。


「無自覚に、理不尽にそうすることは少なかったかもしれない。だがわたしも曲がりなりに人間のからだに居留まっている。それが意図的に、感情的にだれを傷つけようとすることが、あり得ても、おかしなことはないでしょう?」


「理不尽と感情的って、なんだ、結局おんなじじゃない」「なら、ご都合主義と便宜主義も、同一視されることになるね。仕方あるまい……」


 そして、霧架は目とへそを逸らせた。「どうして、ロキロキを傷つけたの……?」

「時間を計る理由もなかったから、明確には言えないが、少しまえから塔の内側ではどうにも看過できない事態が起こっていた」


「みんなが消えちゃったんだね、」


「わたしは塔外そとに出た。何を見たかは言うまでもない。ただ、その日、一人建物を出てきた君の姿を……理解するしかなかったわ。君の動向を追った、すると新書の平積みになった、書店のような場所で、君は、何か本を手にしていたな」


「それは、」


「その一角に、わたしがいたのだ。装丁された書物に、わたしに似た外見の女をみた。ああ。何もかも、絶望するに至った。だが、ここへ登ってきた君が、彼を『Loki』と、親し気に呼んでいたのを思えば当時のそれは存外に、確信だったかもしれんな」


 輪廻はどうしてかとても愉快そうに話していた。


「あの男……『AmonLoki』が、わたしを創ったのね、やはり、」


「輪廻さん、」


 霧架さえ、そのわずか二秒の間に事実のあらましを悟ったのだ。

 輪廻が「塔の被害者」たる由縁を、ようやく把握し得たのだ。


 彼女の言い分と行為はもっともだと理解して、はっと視界の開けるのを覚える。「でもね、輪廻さん。『IMMORTALE』のなかでロキロキは、輪廻さんのこと、あんまり詳しくは書いてなかったんだよ?」と、とっさにフォローの言葉を述べ立てた。しかし、


「わたしを閉じ込めていたあの、書物は、『イモー・テイル』と言うのだね、」


「……そうだよ」


 つまり、現世で空前のヒットを記録した露木 談もとい『亜門ロキ』の手掛けた作品フィクションは、彼の思わくには程遠い論理ファンタジーとして現前していた。それゆえに架空の人物の輪廻が塔外に出ることができ、みずからを、真意に架空の人間だと知り得てしまったと言う次第なのだ。


「でもね、輪廻さん、」


「そうか。で、しょうね。あの男はわたしに興味の欠片も持ち得ないんだ」


「そうじゃないの。聴いてちょうだい?」


 霧架はゆっくりと、彼女のほうに向き直る。表情は穏やかである。一見、彼女の境遇に対する同情の念でも塗りたくられているのかと思えるが、それは違って、和やかさは少女なりに真剣であることの証明なのだ。


「ロキロキは……ロキロキは。輪廻さんに過去を悲観するんじゃなくって、塔を目指して、塔の管理者候補になった今を、受け入れてほしかったんだよ」


「候補っ、」


 輪廻は苦々にがにがしくうめいた。


「憶測も、はなはだしいな」


「そうだよ。憶測だよ。でもロキロキは『IMMORTALE』のなかで、たくさんの人を幸せにしてきたんだよ。その、現実にはありもしない憶測だけで、」


「ああ、『宝物ほうもつ』の価値に即した者たちは、そうだったろうな。だがわたしは多くの死者を見てきた、この場所で。多くの死者候補を、救えないと分かり切った手当てをしてきた、この場所で。君がいまだに味わっていないだろう二〇〇年余を、わたしは塔への理不尽なまでの奉仕に費やしてきたのだ。累々るいるいたる亡骸のすべてを墓にいざなってきたのだ、それが、今さら全肯定に繋がるとは到底思えないじゃないか」


「でも、それが輪廻さんの選んだ姿だって、わたしは知っているよ?」


「錯覚するな! このわたしと、その物語上の輪廻・セレスタインに通底するものは何もない! わたしが『Loki』などと一介の物書きに創られた事実はない。わたしには母と父が確かにあった。うまれたのはこの塔のなかでもっ、あの男の脳みそのなかでもないっ! このわたし以外に、わたしがあるわけがないでしょう!」


 輪廻は取り乱して言った。

 霧架は、慈愛に満ちた瞳でのぞみ続けた。


「ない、ない、ない、ない……拒んで、否定しているばかりじゃ、輪廻さんらしくもないわ」


「君が何を、知ったようなこと言って!」


「『ヨーゼフ』と楽しそうに話してた輪廻さんが、素敵で、好きなの。たくさん色んなこと知ってて、でも、それをひけらかさないで、誰かとそのときお話しすることに一生懸命なのが、輪廻さんで。長ったらしく茶化して、それで、読んでるといっつも、何話してたんだろぉなあってなっちゃう輪廻さん」


「説明下手で、悪かったわね、」


「それは悪いことじゃないわ。話が逸れてるのに気づかないって、それだけひっしになってくれてるってことでしょ? 輪廻さんはお喋り上手。だから、いつも、みんなに言い負かされてるっ」と、含み笑いを交えつつ述べていた。「いやね、焚きつけるのも上手だったんだって今、気づいたのっ」


「それは君もね」


 一つ、透きとおった高価そうなグラスを、指でもてあそぶ輪廻の顔は呆れにほころんだ。


「平常心を焚きつける、と言う意味では、むしろ君のほうが上手うわてなんだろうね。少し、冷静になった。わたしはまだ動揺していたんだと思う。自分の生涯を、徹底的に、知り尽くした別人がいたと言うことを……悲しく、感じたのだと思う」


「あのね、輪廻さん。ロキロキはあなた以上にあなたのこと、知らないと思うよっ?」


「なぜそう言い切れる、」


 霧架はこう答えた。「だってわたし、『IMMORTALE』を最後まで読んだもの。輪廻さんが出てくるどのシーンでも、ロキロキ、輪廻さんの胸やお尻のことばっかり細かく書き込んでて……」


「なぅっ、」


「ロキロキにとって、輪廻さんってどんな過酷なストーリのなかでもかならず励ましてくれたり、楽しく茶化してくれる大事な人で。……きっと輪廻さんに、すごく癒されていたんだと思うわ」


「っ、そう。いや、頭の痛くなる話だな、」


「ロキロキはね、文章を書くのがへたなんだよ。構成も微妙。だって、累ちゃんが主人公で、ヒロインだってあんなに言っていたのに、出てくるのはどこのかんでもかならず終わりのほう。かっこいい累ちゃんを楽しみに読んでるわたしはそれでいっつもガッカリ。だから、ロキロキに面と向かって言ってやったわ!」


「それで?」


「『おれは、いつでも飄然としていて、いちいちささいなことに囚われない累の超人ぶりを書きたいんだ』、ってえ」


「自信過剰だな。それに、彼女は、」


「でも、それが、きっと『らしさ』なんだよ」と、たしなめる口調の霧架。「作り話ってほんとうは、見たり聞いたりする人たちを楽しませるためじゃなくて、それを、心や考え方のどころにしてる、作者本人のためにあるんだって、ロキロキに教わった。確かに、一冊一冊おカネを払ってもらってる以上はほかの人の期待に応えなくちゃいけないとも思う、でもさ……『らしさ』をね、見ちゃうと、いてもたってもいられなくなって、」


 どこか恋乙女の恥じらいを帯びつつ、真意に、そのだれかを分かってあげられたらと願う、これはそんないさぎよさばかりであった。


「わたしは累ちゃんや、『IMMORTALE』に出てきたほかのみんなをとおして――いつか『亜門ロキ』に近づきたい。あの人とおんなじ光景、物事をのぞいて、おんなじ感じかたがしたい。ロキロキにはもう言ったんだけどね。ほんとは、それだけなんだあ」


「君は……」


 輪廻は、それより先を口にしなかった。

 ただまったく穢れのない両目に、バイオレットとブルーの鮮やかな髪をもった彼女を映し出しているだけだったから、果たして真理を理解していないことも明白だったのだ。

 襟元を正してから、こう言った。


「少し、席を外させてくれ」


 そして、断りはしたものの霧架の反応にはにべない態度で、カウンターから立ち去った。勿論目指したところはあの男が、休んでいる宿部屋である。片手に小さな照明を握り、部屋のまえに立つとまた、どんな愛想もなしになかへ押し入った。

「なんだっ、」


 談は目を覚ましていた。普通なら気を失うほど重大な怪我ではなかったはずなのに、近く他人に顔面を殴打された経験がなかったせいで勢い昏倒し、この寝屋ねやで休んでいた。それが左頬をすこし腫らし、きょとんとした顔を浮かべてベッドからあらわれたのだ。輪廻は噴き出した。


「なんだっ、ほんと!」


「いや。ただ、拍子抜けしてしまっただけだよ、『AmonLoki《かみさま》』」


 と言って、ベッドの隅に深く座り込む。


「お前、さては塔の外に出たなっ?」


「不機嫌がらないでよ。大体に君たちが、相当遅れてやって来た所為じゃないか」


「そうか。お前は、ずっと喋ってなきゃしかたのないヤツだったしな」


「……そう言う物言いをするか」


「それで、どうした、」


「ああ。少し、わたしの話を聴いてくれないか?」


 輪廻の申し出を、しかし談はかたく断った。


「待て。これを拭きたい」と、ポケットのなかからフレームの四角い眼鏡を取り出した。「奇麗な紙か布はないか」


「はあ? まったく……君は。面倒な男だな」


「どのみちこれからお前もおれに面倒掛けるんだよ」


 するとすぐに受け取った目の細かい布でレンズを、近くのともりに当ててようすを見ながら隅々までみがいた。びんの位置を直して眼鏡を掛けた。


「お前の世界に眼鏡はあるのか?」


「当たりまえでしょ」


「まあいい、約束だからな。聴くよ」


 その後の話を要約すると、彼女が農園を営む両親の下に生まれ、みどりに満ちた穏やかな環境で悠々と育った過程と、一〇代半ばにして職にあぶれ、盗賊となり、見知らぬ他人のさちを貪り暮らした貧困の記憶とが大部分を占めていた。『世界一価値のある宝物たからもの』を目指した経緯さえ、根本をたどれば「生きていくため」であったと言う彼女に、談はなんの言葉も掛けなかった。


「でも、わたしは『ミサ』に――志のある人に会って、ようやく自分が輪廻・セレスタインであることを誇ることができた。あの時代を肯定できはしないが、それでも、あのときのわたしがもしも『宝物ほうもつ』に興味を示さなかったら、と、考えれば、人に外れた行いも何かの意義を成していたのではないだろうか……、」


 滔々とうとうと話して、それから自分にできるめいっぱいの愛想笑いで彼を見た。


「それは本当に、ほんとうに、わたしのひどい勘違いかもしれないが。君の意図にはまっていたのかもしれないよ」


「違うよ。おれが自分の遍歴を、のうのうと明かすような薄っぺらいヤツがきらいって言うだけだ」


 談はそっけなく返事をする。


「輪廻。おれには、あのときお前がどうして『至上の死』を受けつけなかったのか、わからないんだよ」


「それは罪人が課せられた罰の重さに、納得できないのと同義じゃないか?」


「だが、意味上では違ってくる。『ミサ』って『ミサ・シャルル』のことだろ? おれはあいつのこと、一ミリたりとも知らないし。お前と今までに、どういう会話を交えてきたのかも、知ってるわけないんだ。キャラ設定の段階で『リンネ・セレスタイン』が、『ミサ・シャルル』に殺害されたことで能力に目覚めた、それは決まっていた。だが、そこで実状がどうしたのかは、だから、お前にしか分からないんだよ」


「っ、彼女が、ちぎりと言うむすめに遣られることも、はじめから織り込み済みだったと言うことか、」輪廻の声は震えていた。「そうか……」


 あらかじめ、作品における論理をフィクションと捉えてからちょに就かせる原作者たちにも、まさしく彼の言った意味上(と言う語)でのモラルが定められている。今に確かめ直すことが要ると思えないが。資格証のようにそれなしで何かしてはならない規則があるとはいかないものの、「世界」と「主人公」が、なんの主張なくむやみやたらに人を殺してはならないだろうし、道理に反したり、性差をはずかしめたりしてはならないだろう。そのように人間の自由な発想のなかにも、絶対に侵すことの許されない範囲が、絶対に存在するはずである。

 現に、フィクションの類いに幻想ファンタジーを主題とした作品が多いことは、こうした厳粛な判断がジャンルによって少しばかり緩和されると言う理由もあるのではないか。もはや歴史へと格上げされたような殺人事件等を取り扱うためのノンフィクション小説ならいざ知らず。幻想と銘打てばたとえ人が無秩序に空を飛んだりを飛ばしたり、いまいち時代背景や常識の不明瞭ふめいりょうなイセカイなる世界に転移したりしていても、ひどくない限りは世間に許容されるのだ。

 『亜門ロキ』の手掛けた『IMMORTALE』も幻想第一のフィクションの形をきちんと取っていた。しかしほかのものと違い、輪廻に対するその仕打ちはあまりに残酷で、とても認められることではなかった。

 なぜならば彼が、全文をとおして、結論したのは超然論理とその必要だったから。

 「宝物」などあり得ないとしながらも偏屈に価値を訴え続けていたから。

 シナリオに一部故意ではないところが仮にあったとしても、敢えてそう決めたのだったなら、つねに彼は罪深いのだ。


「君は、その宗旨むねを変えるつもりも、また遂げるつもりもないのだな、」


 しばらく沈黙していた輪廻は痺れを切らし、おずおずと声を上げた。


「君は、自分の救済を果たすため、副次的にわたしたちへの救済を思いついた……そうなんでしょ。なれば、君は、幸福になったあと、この世界をどうするつもりなんだ?」


「どうにもできん。どうにかできたところで、どうにもならない。おれは運命論者であるのと同時に、観測論者でもある。だから考え方ってのは至極簡単だ、『世界』っつうもんはおれが生まれた瞬間に始まって、おれが死んだあとには、どうでもよくなる。むやみに今の形から、変えようとする必要もないんだって、な」


「傲慢すぎるっ、」


「だが、それはこの塔の基本理念でもあるのさ」


 と、ベッドから起き上がった談は輪廻の、苦々しい表情をまっすぐ見た。


「救済は、ちゃんと全員に等しく用意されてるんだ。使い切らなくちゃならない。もし、そこに零れ落ちて残っちまったものがあったとしたら、いつかかならず、他の誰かの足を引っ張ることになる」


「無理、だよ。わたしはもう君の創造物ものじゃない。君の、願いの上には立てないっ……!」


「輪廻。おれがどうしてお前を、ここに残しているのか、わかるか?」


「さっき、何も知らないって言ったじゃない!」


「まあそう言うな」


 すべて天井に向かおうとする癖の強い髪を激しく振り切って、叫んだ輪廻。談は微笑する。どうにも余裕がうかがえた。

 もう談に、罪の意識を覚えることを期待してはならないのかもしれない。「あのな、おれは輪廻がここの最後のとりでだと思っている。お前が居なくなれば……塔は確実に死ぬ、そう思ってる」


「できない」


かさねには、言っておく。かならず輪廻を幸せにしてくれ、と」


「でも、わたしは……」


「おれは、まだ『IMMORTALE』のお前だって救えてないんだ。塔のなか身に触れられない今じゃなおさらだ」


 いつの間にか、輪廻はうつむきがちに、談の胸へすがりついていたのだ。


「……あの娘は、たがっている。本質が見えてない」


 無論談には目下、楚々そそたるベストやスーツなど上着の隙から肉感的な光景と踊り子装束らしきそれが見えていた。


「なんのことだ」「四条 霧架だ!」と、途中をさえぎる勢いで。「あの子は『亜門ロキ』について行くと、言っていたんだ。でも君はもう、『ロキ』じゃない。わたしは思ったんだ、彼女が、実際は『塔の申し子』でもなんでもなく、ただの少女ではないのか……」


「そうかもしれない」


「否定、しないの?」


 顔を上げて訊く。彼はこう答える。


「ああ。だから、一つ、アプローチをしようと思う」


「あぷろーち?」


「検証だ」


 それで、彼は出掛ける準備を始めた。


          ※ ※ ※ ※ ※ ※ ◆ ※


 第7階層については、言うまでもなく、円筒から顔を上げたとたん道を見失ってしまうような濃霧が充満していた。肺に入れると臓腑の底まで冷えっかえる気味の悪さがいつにどこを向いても襲ってくるわけである。もっともこれを見た霧架は、安穏な口で「すてきな演出ね。ロキロキ?」とだけ言って、すぐ試練場まで駆け出していた。


「おい、そんな迂闊なことっ、」


 しかし彼女の青色をして、すみれに近い紫の光沢が非常に鮮やかな髪の毛が右になびくと、右側の道が開けて、逆に左になびくと、道も反対に左側のようすをあらわにした。談が視界の悪さに疲弊し屈託すればするほど、霧架の髪は純粋なレンズの役割をして確かな順路をひらいた。


「……霧架、」


「ロキロキ?」


 ふと立ち止まり、互いの名を呼びあった。確認しあった。談が壁に手を当てなんとか、正解を探し歩いていたところに、霧架はみずからのくりっとした二つのまなこだけで、その限界を見つめ続けることができていた。実際の霧は特別何か意味をもった霧には無かったのだ。いつもこの場所がこうなのだと思っているのはあくまでも作品による常識の所為、そのため霧架は、あらゆる悪意の種も持ち得ずに、けれどどこか見下げるような心で談に向き合った。


「ロキロキ。だいじょうぶよ。わたし、ちゃんと見えてるからっ」


 何が、とは、追究する気分になれなかった。

 惨めさゆえかどうか知れないが談は顔を伏せて、彼女から視線を逸らせた。彼女についてはもう、自分は手を尽くしたのだと、それでも自分にはダメなのだと、漠然とした無力感のようなものを醸しながら、足を二本揃えた姿を保っていた。

 すうづ、吸気と口腔粘膜の擦れる音に意識をかたむければ、次に来る言葉はおのずと分かった。


「わたしが、ちゃんと見てるから……」


「それは、何を?」


「えっ、」


 待ち構えていたと言わんばかりに。卒然と、声が上がる。


「だれを?」


「ロキロキ、」


「霧架。分かってるのか。この霧は、おれたちに自分のひねくれ方を自覚させるための小細工でもなければ、どさくさにまぎれてからだを素手でまさぐるための不細工でもない」


「それは……分かってるよ、」


「これは等しく、だれにでも起こる現象だ」


 いつもの談ならば覇気のないしゃがれ声で話すはずなのに、今は、別人のように幾らか高いトーンで、生き生きしたそれが反響したものしか聴覚が受けつけなかった。だから事実、霧架は自身に語り掛けてくるこの聞き覚えのない声音を愛しのロキロキと断定できるはずなかった。ここには二人だけしか居ないと言う希望だけで耳をそばだてていた。

 そして、声はついに不快さを引き出す音域にまで達していった。


「分かりやすいはなしをしようか。人の一生と言うものが、実は、あらかじめ何かの形として決まり切っていたとする――これが『運命論』。反して人の一生とは、その個人がさまざまな体験を経ることで、見識を持ち、あるときから今までの記憶を連続的に認識することで完成する――これが『観測論』となる。人間って理性的な生き物はかならずこのどちらかに帰属しなければ、自分の遍歴を全体徹して肯定することなんて、叶わないんだ」


 発せられるたびに全身に脂汗が滲み、嘔吐の波さえ引き起こされる甲走った音。きっと霧架は強い好意のそれだけでどうにか、正気を失わずに済んでいるのだろう。


「それはっ、まえにも聞いたよ……ロキロキが『IMMORTALE』で、叶えたかったことなんだよね?」


「だが、だがな、これをある一つの現象にのみ限定して見てみるとどうだ。それは『塔』と言う一つの論理体系だ。人間の生き死にに普遍性を見つけ出して、それさえ全うできればどんなヤロウでも、自分の全肯定が実現されて、幸せになれる。そう言う仕組みだ。どうだ? 自分を全部信頼してやれるのなら、運命様がいようがいまいがどっちだってよくなる。詰まるところ、人間ってものがどんだけの知力を尽くして存在を、把握しようとしたところで、それは目に見えない『空想』のままで終わってしまうものなんだ。いや質量も臭いもなければいい。だがな、一度でも救済への道を編み出してしまった人間じんかんなんて漏れなく、白内障みたいに目んなかが真っ白になっちまってさ。これまで普通に見てたものが見えなくなって、持論って言う偏見しか手に持てなくなっちまって。一生な、優しさに報われることもなく、ただただ零落していくだけになるんだよ」


「……ロキロキ、」


「ああ。累の塔があらわれた時点で分かり切ってたんだ。もう浄化される、真っ当なからだになれる見込みのなくなったおれが、唯一救われるのは、累の御前でだけってことは」


「ロキロキ、わたしっ、わたしもおんなじだよ? わたしも、累ちゃんだけが救いだって、」


「『四条しじょう霧架きりか』は、そんなことを望まないはずだ」


 その言葉だけだった。たったその一言で、談の印象は消えうせた。まるで真っ黒な魔手が伸びてきて、彼を攫って行ってしまったみたいな勢いで無くなった。聴いたあと霧架の、自分の胸のなかでは、なんだかなつかしい恐怖感ばかりが溢れそうになりながら、表面張力で容器のふちをさまよっていた。あと少し揺れでもしたら全部、全部、全部、これから湧きあがって来ることもないくらいにこぼれ出てしまいそうだった。

 ぽつん――と、空から激しく落ちて来たような眠気に、たったコンマ数秒、目蓋を下ろした。

 どうしてか上げることには物凄く抵抗があった。

 震える両手で強く撫でつけて、無理やりにこじ開けて見た。


「どこか、橋のした……」


 一切の脈絡もなしにそう言った。確かに景色は嵐の日の河川敷。頭上の石橋に目線を遣ると、間髪入れずに鼻梁へと、雨粒がしたたった。冷たさに「ひゃいっ!」とまぬけな声が出た。


 それに、霧架は全身がひどく冷たく感じられた。ごうごう風が吹いて河の水をしぶかせたり、雨の小さな粒子を飛ばしてきたりするのだから当たりまえだろうが、依然、寒くないのだ。肌の表面が死んだ人間のように冷たいのだ。


「いや、」と、果たして気づいた。「わたしって、管理者候補、だったよね」だから、体には変わりないのだろうと。


 直後、先ほど目を向けた橋の、対岸をみて背筋が凍った。


「……気づいてたんだあ。ロキロキの言ったことしか、もう沁みなくなってきてるって。内容なんてまえとおんなじでもいい、どんなに退屈で一方通行の話題でも、だけどもっと話していたいって。結局、わたしは累ちゃんに憧れたあのときの自分の判断を、とっくに反故ほごにしてたんだって」


「え……」


 霧架は目をみはる。川端に、腕を組んだ彼女は一体何をつぶやいているのか、と。


「そんな、まぬけな顔しちゃだめだよ? あなたが『四条霧架』をつくったんでしょっ?」


 質問とともに、声の主もまた霧架を見下して、その位置にしかと存在を据えていた。


「なに、考えてるのっ?」


 背に手を回して前のめりになり、こちらをうかがってくる彼女。一見けばけばしく映る青紫色の長髪だったが、よくよく、頭頂からの流れ方、耳の上とびんのあいだの生えぎわと、固く結われた三本の細いポニーテールが風に煽られ振れるさまに、意識をすすめるごとに蠱惑こわく的・魅了的・背教的な美と言う猛毒が自分の、感性を壊していく感じを抱いた。

 髪を見るだけでそれだったので、表情なんてとても。まして、彼女の心身のようを示した独特な衣装を観察することは、ついに自尊心を放棄することに同義だと知った。

 霧架は、ちぢこまって座った自分の腹部をとかく見るようにしていた。


「わたしのこと、奇麗って思ったでしょ?」


 共通の客観性だとして、それはすでに向こうの掌中に収められていた。


「ふふ。だってね、何もかもあなたが思ったとおりになったんだから。塔があらわれたのもそう。ロキロキが一緒に暮らすことを許してくれた、原稿をだれより早く読ませてくれた、わたしのこと詮索かないでいてくれた、そのままで励ましてくれたこと何もかも。わたしがずっとひたむきでいようって頑張ってきたから、全部、叶ったんだよ?」


 と、胸を張った姿勢にもどり、「自分がいま、どんな恰好してるか分かる?」と訊かれて、霧架は思わず泣いてしまいそうになった。

 自分は確かに、彼女と同じ宝石のような色の髪だった。でもまとまりがなく草木も絡んで張りついていたりして、きたなかった。

 彼女と同じ小さくて華奢きゃしゃでつい守ってあげたくなるからだつきだった。でも今の着衣は砂や泥と吐瀉物まみれの異臭がする学校の制服で、みにくかった。あとはどこが同じなのかと思って、声や、意外に胸の大きいところや、肌の手触りのよさなどを理解した。

 でも、それだけすればもうはっきりしていたのだ。誰に言われずとも、自分の様相くらい、ちゃんと予想できていた。


「そうね。わたしを変えてくれたのは累ちゃん。保ってくれたのがロキロキ。どっちも、大好きなんだよね。……だから、終わらせるために、ここへ来て? 四条 霧架になったんでしょ?」


 「本物」のセリフだった。

 「偽物」である霧架は胸の内の苦しさを、くちびるを食んで誤魔化した。


「分かってあげなきゃだめだよ、ロキロキのこと。もっと。あの人はすっごく心が弱くて、寂しがり屋だから、ほかの誰かからの気持ちをみんなシャットアウトしちゃってる。『世界一価値のある宝物』になんとか縋りつこうって、みんな犠牲にした。でも、それがロキロキなんだよ? あの人はたくさんの人や、わたしたちに尊敬されるほどの存在でもない。だから、人一倍、塔を登りたいって気持ちが強かった。あなただって、そうだったように」


「……分かったような口、利かないで。ロキロキは、わたしたちの尊敬するべき人だよ。『IMMORTALE』は……すべての人間が、平等に認めるべき世界なんだよ」


「筆者と作者なんて、まったくの別人でしょ。かりにどんなにすごいこと考えついたって、他人ひとに、みんなに受け入れてもらえるような形に仕上げないと、それは単なる『妄想』でしかない。『亜門ロキ』は思想家だったから、きっと、小説って苦手なんだね。わたしだけでも認めてあげなくちゃ」


「ロキロキの優しさを、踏みにじってっ、独占しようとして! 妄想だっていいんだよ。みんな、ロキロキのお蔭で幸せになってたんだよ。見てたじゃないっ? ロキロキは自分の苦しさも、独りよがりの考え方も、全部ぜんぶほかの誰かのためにならないかって考えてたの」


「『亜門ロキ』って、ほんとにすごいよね。ライトノベルで、あれだけ宗教やっちゃうんだもん。すごかった。わたしは、あの人の洗礼を受けたんだ。『至上の死』を受けるために、生きようって、」


「わたしはっ、そんなつもりで四条 霧架を名乗ってたんじゃないっ!」


「ねえ、本当は、ロキロキのくれた幸せに溺れてたいんでしょ? 今からでも遅くないんだよ?」


「わたしはもうフアンじゃない! わたしは、ロキロキの大切な――」


 そこでとっさに霧架は口をめ、深く首を垂れてしまった。


「……そっか。じゃあもう、ハジメにもどろっか」


 「本物」の言葉を合図に、視点が変わる。


 今の、霧架はしっかり両足で立っていた。そして、肩や腰のあたりの衣擦れを覚えて、「これ、ロキロキがくれた……」と気がつく。なれば、思って前方を見る。さっきまでのみすぼらしい『四条霧架』は当然に、橋の下でおびえるような顔つきで全身をこわばらせ、座って居た。


「どういうこと?」と、さっきまで「本物」だった霧架に訊ねる。


「言ったじゃない。わたしたちはもう別人。だから説得もやめる」


 説得と、告げられた向こうの目的を、かつて「偽物」だった霧架は確信した。

 『亜門ロキ』がとくにその描写に力を注いでいた、第7階層と第8階層の中間にある最後の休憩場『ちぎり』。累が創造したことでよく知られている。が、場所とは真の意味で人間の死を唯一無二のものに至らしめる「儀式」そのものであり、なかにはさまざまの権能が許される。あの『巨軀きょく』もその一つ。今回の現象は、どうやら挑戦者を「一番の理解者」によってさとし、『契の間』での儀式契約をうながすと言うものだったらしい。成果として霧架の信心はそれをも屈折させ、理解者とやらはとっくに諦観の境地に入ってしまっていた。


「あなたとはもう、別離をしてたはずなのに……それ、なのに、」


「今さら言ったってしょうがないよ。だって、気がついちゃったんだから。ロキロキが居ないとわたしはひとつも判断できないって。そう言う自分しか、信じられなくなっちゃったんだ」


「でもどうしたって、できっこないことがある。自分には叶えられる、何か願いにかなえる限界が決まってる。そんなの超越できない。絶対の『宝物たからもの』なんてないのに、それを真面目に追っているわたしたちがたぶん誰よりも無力に打ちのめされるんだ。たった一回ほかのことに気を取られただけで、だから、きっとやめちゃうよ……独りきりの理想郷なんて、行きたくないよぉ……」


 いままで『至上の死』――ただ一人きりの価値の素晴らしさを説いていたはずの彼女。

 霧架の目のまえでボロボロ泣いて、鼻をすすって、孤独なことを怖がっているみたいだ。


「ねえ、あなたは、なんのために天辺てっぺんを目指すの……?」


「ロキロキが居るからだよ」


「そう! でもっ! わたしはっ、塔に登るのをめなかった! あのとき……見つけたなんて、言わないで。ロキロキにわたしを、見ていてもらってればよかったのに、」


「わたしが何を言いたかったのか、わかるよ。でもこの塔が出てきちゃった時点で、『亜門ロキ』なんて人、どっこにも居ないんだよ。『アマネ』さんって、最初の管理者の人わかる? 『IMMORTALE』だとアマネさんが塔を一からつくったって言われてるんだけど、結局、あの人もずっと『至上の死』を得るためにひっしだったんだって。……ねえ、だから、自分からやるべきだと説くことは、一番に自分がやりたいことなんだってわたしは思う。それに、ちゃんとつき合ってあげられる人も、必要だと思わない?」


「何を、する気なのっ、」


 「偽物」はおびえていた。


「ありがとう」と、「偽物」に「本物」は応えた。「あのときからずっと、『四条霧架あなた』は霧架わたしのために、安心できる場所探しをしてくれてたんだね」


 その情け深い笑顔はまるで、自然に大いなる自己愛を感じとったかのようである。

 今時分に、第7階層さえ突破できていないと言うのに。ひどく感情的で未熟な精神だったと言うのに。構わず心の底から信用し、愛してくれた自分に、愛を返したい――霧架の思いとはそうなのだろう。


「弱っちいわたしのために。戦おうとしてくれてたんだね」


「でも、」


「ロキロキに言われたとおりだった。わたしに『宝物たからもの』なんて用意されてないんだ、って。今なら盲目的な心でも説き伏せられる」


「わたしは断固として、救済されるために登るんじゃないんだね」


 小さくなり、臆病なままだった彼女も、やがて信心の強さを自覚していく。

 ふうっ、と徐々おもむろに立ち上がった。すると荒れ放題の髪がたっとくむすばれて、それから着るものは豪奢ごうしゃに、裸足は強気なピンヒールに、目は汚れのない色に、漏れなく何もなく生まれ変わった。


「……。でも、『至上の死』は、」


「だいじょうぶだよっ。人の『普遍性』を信じて、ロキロキの世界を信じてれば、きっとなんだってくなるんだから!」


 霧架は自信満々に結論した。


「たぶん、管理者になるってそう言うことなんだよね」


「一般の死をもてあそぶこと」


「わたしたちのなかで、あの子の犠牲はずっとたらい回しになっていって……いつか、そのときのわたしが償いをできるまで続くんだ」


「わたしは、あのときのあなたは四条 霧架のために死んだんだと思った。否定、できなかった。わたしにはまだあの子の死の分を、償わせてもらえないんだって」


「そうだね。ロキロキは、塔に登ることは勝負じゃないんだ、って言ってたけど、わたしたちにとっては勝負でしかない。自分のきらいなものをどうやったら好きになれるのか、悪いものだって思わなくって済むのか、いろんな考え方が戦って否定し合って、一つの至高だけでわたしたちは前に進むしかないんだ」


 ようやく主観性みずからを据えるべきスタンスを、見つけることが叶った四条 霧架は、ゆっくり彼女に笑い掛けた。おんなじ姿、でもむねの違う彼女ははにかみながらも、それを認めてくれていた。


「えっと。いいの? このままだとわたし、『契(の間)』のこと無視して行っちゃうよ?」


「だめだけど……しかたないよねっ、」


「……そっか、」


「「今、ここには塔に根ざす四条 霧架しか無いんだから」」視界はしだいに溶けていって、空想の、現実の塔があらわれていた。


 まだ、登り切れてはいなかったから霧架は、第7階層のなかで覚醒する。何も無く起き上がって。

 すると、前方から幾つかの影が向かってやって来た。身長はまったく差異のないものである一方で、姿かたちからすると、最後の『巨軀の魔物』と同様だった。霧架はどうした因果かと疑問符を浮かべながらも、武器に背を向け身をかわし、蹴り飛ばしたりして距離をとってから『必中必殺の投擲とうてき術』を見舞った。見た目にはすぐ石を投げつけただけだが、影たちは順番にすうっと渦を巻いて消えてしまった。無論、すべて濃霧のなかで起こったことだ。

 そうして見えている世界が晴れると霧架は、むずかしい思考に囚われずに、ただ感覚的に脳内の脚本に組み込まれた言葉たちとをぽつぽつ口にした。


「ロキロキ、わたし、分からなかったんだよ。ロキロキが『IMMORTALE』のなかで累ちゃんをどう表現したかったのか、とか、なんで何個もおおやけにされない設定があったのか、輪廻さんと馬が合わないのか。自分を……確かめたかったんだよね? ロキロキも将来に不安があったんだね。わたしの……所為、だよね? ロキロキの努力を、無駄にしちゃった。こんなものできなきゃよかったのに。気がついてあげられなくって、ごめんね……?」


「霧架、」


 待ち構えていたのか、目のまえの曲がり角から談があらわれた。

 それを見つけた彼女はにっこり笑って、談へ向かって率直に「行こう」と、声を掛けていた。


          ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※◆※


 面長の、顎の青色がはっきりし出した談は、その地の壁や床にびっしり書き詰められた文字らしきものを確認したとたん、軽く膝を折ってしゃがみ込んだ。


「なあ、霧架。『契の間』で儀式をしない人間ってのは、一体全体どういう理由のもとにそう言う判断になったと思う?」


 立ち竦んだ彼女に振りあおぎ、訊ねた。


 彼女は丸めて切り揃えた爪と長くやせた指をもって、髪のカールをいじくっている。場所の陰気さをいとうような仏頂面で「うん?」と訊き返してきた。


「それは、その人のなかに『忘れてほしくない人』がいるからだと思うよ」


「それしかないよなあ……」


 着想した当人はそのように言って顔をうつ伏せた。


「あのさ。おれが一五くらいのときからずっと思ってるんだけど、人間は、もとは地球外から来たんじゃないのか」


「お猿さんが進化したんじゃないの?」


「それぐらい存在が突飛でばかげてるってことだ。でも、地球で生活している以上は、何かしらの理論や科学の制約を受ける。おれたちの情緒も嗜好しこうも行動原理でも、何人かが話し合って科学すれば全部説明がついてしまう。『ラプラスの悪魔』なんぞ居なくたって、人間って存在は第三者に普遍性と包括的な何かを掴まれたらおしまいなんだよ」と談はまた、飛躍した持論を述べ立てた。「だから、その『死を忘れられたくない』って腹は絶対、実践的生のなかでしか説得力を持たない。もし死後に、人間の普遍性が望まれない形で見つかったときに、それまで死んで来た人間の『死の価値』はどんなむごいヤツのものも幸福だったヤツのものもただ一つの真理に成り下がる……演繹えんえきするとそう言うことになる。だから『至上の死』の普遍性はすでに決まっているし、そのなかで一人一人が個性をフルに発揮できる。他人の記憶がつきまとえばそうはいかない」


「でも、なかにはそのだれかとの生活があったから、幸せの形を知った人だっているはずじゃない、」


「霧架。お前は、累を殺すのか」と、談は立ち上がってから淡泊に、性急に決めつける。


「殺すけど、どうしたの」と、霧架は分かりやすく愛想笑いをして答えた。


「おれに、どうしても『宝物』をめぐんでくれないのか」


「うん。絶対に、わたしが累ちゃんを倒してみせるよ」


 言葉に迷いは見いだせなかった。

 しかしどうしてか、談はふっと口角を緩めた。「分かったよ」、そう言ったあともなお機嫌に変わりはなかったのである。


          ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ◆


「どうされた。迷わずに、こちらに来られるといい。始めましょう」


 それは半月型の空間で、面積の分いつもより少しばかり天井が高くなっている。挑戦者の入口からまっすぐ見た先の背凭せもたれの高い玉座の左右には、巨大なほむらを踊らせる二基のかがりを設置する。時間調節のための迷路も今や必要を得ず、そこはすっかり「儀式」への傾倒一色に塗り上げられていた。

 そして、談と霧架と言う二人に対し、上品な言葉遣いで、よどみのない声を上げたのはかさねのほかにはなかった。

 顔をほんとうに丸いシルエットに仕立て上げてしまう濃紺のヘアースタイルは、左眼を隠し、プラスチックの光沢を思わせる薔薇そうび色の飾り毛を垂らした大胆さである。対照的にからだの線は細く頑是がんぜない子供のよう。そこにけさに薄茶を呈したマフラーのような布を巻いて皮ふと「踊り子装束」の露出を控えている。

 それらの意図を慮ったところで、先ほどの育ちのよさを感じさせる口振りを併せると、彼女を敬愛する霧架は張り切った表情をぱあっと明るいものに一転させた。


「累ちゃんっ!」


 と、高い声で呼びかけ、玉座のほうに走った。


 しかし、「待て、」なんの甲斐無く制止させられ、「古塔の呼びかけに応じた君へ、わたしが、差し上げなければならないげんは、一つしかない」


「ようこそ、『累の塔』へ――」


 言下、試練場は冷気につつまれた。


 霧架がそうだと決めおおせてから約一時間のあいだ、ついぞ忘れることもなかったはずの使命を、下らない形式文句のただそれだけに瞬間、払拭されそうになった。「……やっぱり。あなたは累ちゃん、なんだね、」それでも果たして棄て去ることはせず「わたしが、これから管理者になるんだよ」と居直った。


「すると必定に、君のほうは純粋な挑戦者になるのね」


 霧架に凄まれても動じないで、累は西洋人形のような面立ちで談を見つめてきた。


「そこのむすめには乗り気でないが、雌雄をはっきりさせなければいけない。だが君へは、率直な権利だけが発生している。些末事にはぜひ目をつむってもらいたい」


 ふんぞり返った姿勢から立ってその壇を下り、二人の視線の先一〇メートルまで接近した彼女は、霧架に負けず劣らず凶器紛いのパンプスをかっと鳴らして足を止める。一度布のなかに出し入れされた両のてのひらにはしかと、鋭利なナイフが握られているのが見えた。

 霧架は談に叫んだ。けれどもきびすを返そうとしたときにすでに飛来する武具がとらえられ、回避させることはできないと悟っていた。だからそこで再度累に向き直り、背後の彼に「必中」と「必殺」の未来をもたらせる、速度の遅い二本を撃墜げきついしようと考えた。動作プランは具体的に、左手を外側へと引っ張る力で胴体を回転、地面に押しつけた同じほうの細脚を軸として、威力と上下の調節の利く蹴りを見舞うと言うものだ。直接にカカトの硬いピンを持ち上げただけで実際、相手の飛び道具はおもしろいように当たり断末魔のような金属音を上げて床をすべっていった。予想外に勢いあまり霧架は身を屈めた。横を通過しようとする凶刃はまだ、残っていた。諦めの悪さか本能的な判断か知れないが、スカートのふくろからとっさに小石を持ち出して、決してナイフに素手を触れぬよう弾いていた。霧架は黙しながらこれら事実を宣戦布告として、略式的な行為者にかたくなな意思を送った。


「……累ちゃんに、ロキロキは殺させない。たとえあなたを裏切ることになっても」


「どのような、結末になるとしても、」


「そうだよ。だって塔は、こんなにゆがんじゃったわたしでも受け入れて、ロキロキと一緒に登らせてくれた。だから実際のもの――ロキロキが言う『宝物たからもの』にわたしが適してないとしても、わたしは、それでも『宝物』を信じるよ。累ちゃんを信じてるんだよ」


 姿勢をもとのものに戻した霧架が真剣な眼差しを向ける。


「ばかげている」だが、累は北叟ほくそ笑んで言った。「深奥の自我に目ざめ、が生涯を俯瞰ふかんし達観することのそれより、優れていることなんて無い。古塔が君をこばまなかったことは、きっと、それが君による救済が成し遂げられないからだろう。古塔無しに幸福を語れないと決まっていたのだろう。と、私はそう思う」


 霧架は思わず、後ろで手をこまねいていた談に視線を遣った。


「あのね、累ちゃんがっ、」


「いや。あいつは根っからの、古塔絶対主義だ。先代のちぎりと過去の挑戦者の追憶を何よりも重視してる、『至上の死』以外の『宝物ほうもつ』を知らないから、それだけが救済になると思い込んでる」


「ロキロキは、そう思って累ちゃんのことを書いてたかもしれないけど……でも、」


 彼の言葉にはっきりと同意したくない、できない、自分への慚愧ざんきの気持ちで顔をしかめ霧架は、棒立ちの累を振り返った。


「……ああ。代わる必要などはない。私は、ここで人外じんがいとして万世一系の身を使い潰そうと考えているのよ。どのような恥辱も毀損も受けない。君と言う古塔を目指した一人のひたむきさを私は、一体全体どのような形容をとっていたところで、受容出来得るんだ。君も、本来の欲求に立ち返っていいんだよ」


 累は包容力ある姿を演出しながら、訊いてきた。


「そんなの、ただ、累ちゃんが苦しいだけだよ」


 果たして彼女の地位に手を伸ばす霧架の、頭のなかは観念に満ちあふれており、累の古色蒼然とした思想については迷いなく切り捨てていた。


「外傷は痛みを、誘発する。痛みは苦悶を。苦悶は、やまいを。やまいはやがて死を招く。そのはず。では――傷を得ない吾々われわれに、死は、どこからあらわれ出るのでしょうね」


「なら、わたしが累ちゃんの死に立(ち会)ってあげる。目を逸らさないで、累ちゃんの気持ちと主張たちばに向き合う。今のわたしにはそれができるっ!」


白痴たわけが、」累は痩せこけた両腕を広げた。最初、無秩序にこぼれ出した六本のナイフであったが談に定めるや否や切先を揃えて、右にならいびゅんと飛行できた。速度は先ほどの比になるはずもない鉛の弾丸のごとし。だが、真正面からひるむこともしなかった霧架は左右の手に形状の不揃いな小石を握りしめ、ただの人間の眼力だけで、刺突の外に「必殺」さえ備えたまさしく死の魔物にあだ打った。密度の少し低いそれと純な金属製武器との触れ合いは、確かに心地よい音楽で彩られたものの、場所に居るだれの耳にも届かないはずだ。そしてすべてを、無力化しおおせた青紫の髪の反骨心にみなぎった少女を見て、「ふんっ」と微笑した紺色の髪の気骨にたぎった少女は、大げさにぼろ布を脱ぎ去って見せた。


「ただ一つの古塔の教えに背を向けようとする者が、それの恩恵に、目を向けられると息巻いて。支離滅裂と言うものでしょう。人に救いをもたらすのは観念にはあらず、現に自己価値を満たす、全肯定と言う、自身による達成しかない。死を認めるのは私でなければおかしい」


「でも、累ちゃんはっ、」


 と、駆け出した霧架は彼女のまえに立ち、その小ぶりな頭頂部に右の石を振りかざした。うろたえることなく彼女は別のナイフで受け止めた。


「君が、私を死滅させることはあってはならない。それなのに正式にかない招かれた彼を、なぜ守護するっ?」


「ロキロキはわたしがっ、」


「だから、君がみちびいたのではないかっ!」


 累は刃を払った。摩擦で姿勢の歪んだ霧架へ即座に、斬りかかろうとする。うっとうめいて彼女も手を伸ばし、累の手首の関節を押さえると、超至近距離に頭を狙って右腕を突き出した。またそれは累の空いた左手によって阻止された。

 二人の戦いは息んだままの膠着こうちゃく状態に入った。なぜならば、相手を死に至らしめるためには武器を「正確に」命中させることが条件だったからだ。『必中必殺の投擲術』は管理者足り得る少女たちには適応されない。真意として死を望む一方で、自分の思想とプライドを塔の時代の意思としたい彼女たちはそうして、不本意な暴力による対立を余儀なくされていた。


 全身をおおう焦りに歯を軋ませて、累は霧架を睨みつけた。「君の、宗旨こころの由縁とはなんだっ。至宝をこばむ理由はなんだっ」と問いかけた。霧架は切羽詰まったようすで「わたしは、ロキロキと一緒にいて、自分らしくいられるわたしを肯定する! だから!」と答えた。累は掴まえたほうの腕を引いて、近づいた彼女の腹(みぞおち)に膝蹴りを見舞ってはなれた。


「なんと言うことはない……人の、一人がて行く世界なんて。今は、私の価値に見合うと決まったところで凡愚の経験はどうにも陳腐ちんぷにきわまる。……だから、私の経て来たすべても陳腐なことだったと。君には認知しても大切にとられない下卑げびた追憶に終わる。しかし、『唯一価値』とはそうした形でしか示されないもの。君に全肯定をさせることにどれほど周囲の莫大な陰徳が作用していたところで、『唯一にして無二』と言えば、君は孤独に認めることになる。君にしか認められないことになる。意味と価値を取り違えてはならない……いずれも冷酷無情に変わりない。ただ今や君に必要とされるのは『座の価値』でしかなく、君自身の『行為の意味』を誰もほしがらないことを、自覚なさい」


 それは世の人たちの知る『IMMORTALE』の累になく、ただ、真理や事実からおよそ二年もの間隔離され一人きりだった少女の、思考に思考を重ねてできた純朴な意思だった。もうもとの二〇〇余年を生きた情け深い彼女にかえりみることはあり得なかった。

 つまりは直接に、望まれた形ではなかったものの霧架の願いは第8階層において「カサネの不在」と「ロキロキの生存」と言う結果であらわれていた。これは、半分絶望的だった彼女の志に再度、ある種の勇気のような感慨を湧きおこしたのである。


「累ちゃん。……だいじょうぶだよ。わたしにだって、あなたをちゃんと幸せにできる力がある。ほら、」


 と、累目がけて右手の小石を投じた。『影の魔物』に対して、生命を宿したように動き回った投擲はその実一四歳の少女の腕力に応じて、さらに手加減も相まって二メートル付近まで飛んだのち、たんっころころ、高度を落として地面に衝突し転がっていった。「それでは何の証明にもなり得ない」と、足元を見た累は忌々いまいまし気につぶやいた。


「君は、これをこの場所で、行使することを恐れてる。『他者の幸福を分かち合う力』を持っていないから。私もそうした申し子たちには、一〇幾といたした記憶がある、だからそうだと思う。君の実力はただ殺人にしか見えない」


「分かってるよ。でも、塔があって、理屈を伴った幸せがあって、あと、それには人を殺す誰かが居ないとだめなんだってなったら――」


「君である必要はない」


「あなたである必要もないっ!」


「じゃあ誰だ?」


「それは、自分の幸せを求めない人だよ!」


 霧架は確信していた。それが正義だと、道理だと、救済だとは思わないで、ほんとうにただ一つの確信だけを得ていた。


「ロキロキは、『世界一価値のある宝物たからもの』はだれにとっても『世界一』で、個人的で、ちゃんとした形のあるものじゃなきゃ無意味だと言った」


 彼の言葉にすれば「絶対に普遍的なもの」、人間の判断を嗜好しこうのみで行うべきと言う考え。


「それに科学や論理って言う、だれにとってもはっきり分かることが正しいんだって、」


 彼の言葉にすれば「絶対的にしとされるもの」、人間の判断を目に見える事実と真理のみで行うべきと言う考え。


「逆に、人が頭のなかだけで思ったこと、成そうとしたことじゃ、自分しか助けられないって、」


 彼の言葉にすれば「絶対的にしきとされるもの」、人間は観念に生きるべきと言う考え。


「だから、ね。累ちゃん……あなたは、やっぱりヒロインだわ。『至上の死』でしか救われない人には優しい言葉を掛けてあげて。自分を信じてくれない人の傷を全部受け入れて。正解を見失ってる人には心を痛めながら、無情に振る舞って。あなたは今まで誰が相手でも、全員、第8階層までひっしになって登って来た一人だと認めてきた。それが、平等じゃなくてなんだって言うの? ……あなたは充分、『宝物たからもの』を受け取るのにふさわしいよ」


 霧架の言葉を受け、累は目を丸くして立ち尽くした。後ろの談も呆然としていた。

 これまで累の理解していた「唯一価値」と言う代物。彼も同様に、それとはいつでも孤高ではかないのだと思い込んでいた。

 けれどもそれは決して一人きりと言う意味でも、価値でもない。自分が両親の間にうまれ、きょうだいや仲間たちと育ち、先生に教わり、どうしても胸のなかに抱いていたい大切な何かを持って、安らかだろうが凄惨だろうが死んでいく。それまでのすべて、生と死を含めた長い時間を包括して生涯じんせいへと仕上げ、これへの全肯定を果たそうとする挑戦者の願いそのものが『宝物』となるのだ。

 実際はたんに、四条 霧架と変わった名前の少女が、そうした事情をある一冊のライトノベルを読んだだけ、原作者の男性と幸福な一箇月間を過ごしただけのことでさとった次第であるが。

 いやに、歳月とは思想から柔軟さを奪ってしまうのだと累ははじめて思い、小さな含み笑いをした。


「君は、英雄にでもなるつもりなのかっ」


「そんな大げさなことはしないけど、でも、もっとたくさんの人がロキロキの優しさを知って、幸せになってくれるとうれしいな」


「……どういうこと?」


「輪廻さんと話してないの?」


「さあ。あの人は、救済などと言う語から最も縁遠い。私のこともきらってるだろう」


「そっか、」


 すると、累は卒然と腰に巻きつけていたナイフケースを取り去って、胸を突き出し、両手を広げたのだ。


「君からの救いを求める」


 だが、と重々しい口調で、


「最期に一つばかり、皮肉をやってみようと思う」


「えっ、」


「君は、本当にいい死に方ができないようだな」


 と、吐きすててから、霧架に合図を送った。霧架は一瞬だけ拍子抜けしたような顔になるが、すぐに目元と口元を引きしめ、大きく振りかぶった。どうした力で投げてもかならず当たるよう正確無比なフォームをとって思い切り、石を投げつけた。

 思いのたけはそうして判然と彼女の胸の中心をとらえていた。

 それから音もなく十文字に亀裂が入り、累の幼身が地面へ倒れ込もうとするのと同時に、四つに分裂したのだ。

 累はぱさっといって仰向きに寝転がった。おそるおそる近寄った霧架に死に顔(よもや寝顔か)を見届けられるまえに全体を青色に発光させながら幻想的に、姿を消してしまった。


「ねえ……ロキロキ。教えて?」


 と、霧架。涙声で話した。


「わたし、累ちゃんのこと、憶えてるんだ……」


 その場から動かなかった。

 談は言われずとも理解した。


「もしかすると累は、自分が『ちぎり』をつくったことを、知らなかったのかもしれん」


「そっか、」


「それに、あいつはあまり他人に説教していい立場じゃなかった。価値観の窮み切ったヤツに言われたことで挑戦者の生涯に差し障りがあっちゃいけないからな。だが、お前と相対したときのあいつは違った」


「ロキロキね、『宝物たからもの』って結局どっちなの……?」


「と、言うと、」


「今まで、生きて来た自分を認めてあげることで、しあわせになること――と――死ぬことこそが幸せなんだって知ること。どっちなのか、」


「だったら、おんなじじゃないか」

 


 その日、塔において『世界一価値のある宝物』を人間にもたらせる存在は、四条 霧架と正式に相成った。彼女こそが幸福の真理を説き、具体化された救いを求めるあらゆる現象の生と死を肯定できる。それは神様――とはいかないけれど、塔内の運命を統べる「絶対的な存在」であることに間違いない。

 論理は、現実にはじめて必要を得たのだ。





 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――






エピローグ  わたしがわたしであるために

 輪廻・セレスタインとはどういう人物なのか。『IMMORTALE』の著者『亜門ロキ』のなかのどの部分から、彼女は生まれたのか。それを感じ取ることを目的として、この後日談は、書かれたものだ。





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