紀ノ章 其ノ上

第1話  諡号しごう魔人まじん

 因果の存在。過去と現在と未来と知られざる世界を統べて、一本のより糸にしたもの。それを解きほぐして、見えてくるものとは1体。





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 その日の夜、都内某所の群れアパートの一棟に住む露木つゆき かたるのもとへ、荷物が届くことになっていた。昨今のネットショッピングのサービスの利便性向上には目をみはるものがある。いまや、即日発送をわざと唱えずとも運輸会社は、おのれの勤勉さをもってわたしたちに的確な物品受け渡しをしてくれるのだ。テレビニュースや新聞記事等々ではこれを過剰に問題視して、働き方のなんたるかについて討議されてきたが、それも国民の根本意識、詰まるところ「自分のために」と言う意識の改革を始めるまではあくまで無用の長物なのだと考えられよう。

 このような時節がら、無理もない、一時の生計をライトノベル作家としての稼ぎだけでまかなおうとおもっていた談も先日、仕事上のトラブルをこうむったばかりなのだが。『亜門ロキ』の名前でいえばその界隈で知らない者がないくらい、彼の著名人ぶりはすさまじかった。若年層向けとは断定しづらい、話ごとの濃淡がはっきりした超然論理主義を掲げ、『世界一価値のある宝物たからもの』と呼ばれるナニかを巡り苦悩する別世界の人たちの物語で、当初、華やかな作家デビューをかざり。なんとも宗教チックで人間の無力さの再現にこだわった作風でありながら「それが、らしさで、よいのだ」と強い支持を得たことは遠い日の記録である。それから、原作は第七巻まで刊行されていた。

 一見して、このラノベ作家の成功体験とはどこに落ち度があったと言えるだろう。果たして、見つけられそうにない。なぜならば、彼は、ついぞ失敗をしたことが無かったからだ。このときもそれの枠内だった。

 ただ如何いかに建設的で斬新なアイディアがそこに生まれたのだとしても、これの、社会的な風体がうまく認められてきたとしても、特別彼の著作物は「論理フィクション」の塊物に変わりなどない。彼の全編をとおして主張した真意が、伝わらなければ一生涯、無価値であり続けてしまえるものであり、結局、その実際に起きた失楽であろうと、こうした「論理」の性格上では必然の域を出ないとされる。彼は、ただただ現実に対して無力な立場だった。

 けれども今や、実存社会に拒まれた誰であっても応対せねばならないのが「自分のための」仕事と言うものだろうから、案じていたとおり、宅配物は談の自宅へたどりおおせていた。彼は部屋着に使っている丈の短いスウェットのまま廊下まで出てきて、即座になか身を検めようとする。六月末に二七歳を迎えようと言う背の高い男なので、多少ふくよかな程度が健康的だろうと、言っても、外に暴すそのからだは見るに堪えない痩せ方。


 いやほかにもある。恥じらいのないぼさぼさの髪と厚ぼったい眼鏡。「ありがとうございますぅ、」懸命に働く配達員に対して、そしてそのような気の抜けたあいさつでよかったのか。もはや彼の零落ぶりは、遍歴にかんがみた詳説などなくとも誰に分かるもののわけだった。


 とにかく、少しだるそうに歩いて、リビングに戻った彼は同居人に出むかえられていた。

 どうしてもまだうら若い少女のように見えた。一方で、全体に漏れなく紺碧こんぺきかあるいは紫紺の鮮やかな色味をていした頭髪、彼と同様の服装はつまり、言わずもがなの親密な関係を示しているのである。とても小柄で育ちも未成熟だから、では、年齢は中学生あたりになるのかどうか。


 少女は、毛先の美しいカールを蝶々の触角のごとく器用に揺らしながら、近づいてくる。それに談は「霧架きりか。届いたよ」などと、つとめて無骨な表情で向き合った。へたをすれば彼女にすぐにそこらの木石で遣らてしまいそうな具合であった。


 四条しじょう 霧架――思春期におもい悩むかの者の所為とはさもありなんと取れるが、それにしても、およそ実名の形ではないだろう。彼の所有する『亜門ロキ』の不評さ加減について、世のなかに対する意趣返しのつもりで名乗っているのでは、と言うことで現状は決着するつもりでいる。

 ちなみに談は彼女から、ひととおり「ロキロキ」と呼称されていた。


「ロキロキっ、」さながらボールトスを待ち望む子犬のひらめきで、「さっそく、着替えるか?」「うん!」彼女は、嬉しそうに何度も首をたてに振った。談はそれから手元のものを彼女に預け、ついでにコンビニにでも行ってくるよと部屋をあとにした。


 家に戻ったのは一〇分も経たないあとのこと。片手に提げたレジ袋のなかで大量の安全ピンはぎらぎらと、穏やかさとは無縁のかがやきを持って覗いていた。コンビニに向かったのではないのか。しかし時間帯もそうなので、あらかじめ近くに具備していたものだろう。


「おお、」


 と、おもわず声が上がる。目のまえに可憐な模様の霧架が舞い、これからのうつくしい姿をぞんぶんに発揮する。「どおっ?」彼女のうわついた感じは、短い反応からでも容易に分かってしまった。鎖骨周辺から、両腕の先にまとわれたシースルーをしめった風に揺蕩たゆとわせ、胸元のワンピース調、薄ら黒色で生地の厚いスカートのドレープらは、幼い足つきに合わせひかえめなリズムを、それぞれ取っていた。彼女は言う。「ロキロキの、望んでたとおりになったでしょっ?」とても甘やかなひびきに声音だ。茣蓙ござの上でピンヒールのパンプスになっていなければさらに快く思えたことだろう。すぐに、差し出された彼女の背なか(細かいようだが、シースルーと白ワンピ調の服のあいだには敢えて肩甲骨を覗かすような空白がある。ようはそこの布の接する面)へ安全ピンを幾つかとおした。ピンヒールももぎとった。


「ははあ。いっちょうまえになったじゃない、」


 あらためて遠目に、彼女を眺めてみた談はつるつるのあごに手を当てながら、そうして感嘆の意を表する。確かに、髪の絢爛けんらん豪華な色のほかで言えば黒と白のコントラストが見事の一言に尽きよう。つい今までのクソダサな衣装に身を包んでいた面影などはどこにも見つからず、単純に、霧架は愛嬌をみなぎらせていた。


「ロキロキ、」


「ん?」


 とたん、彼女は疑問ありげに訊いてきた。


「もう、作品は書いてくれないの?」


「え」


 唐突で。だが妥当でもあった。彼女はてっきり、自分が当作の新ヒロインのモデルになるものと期待して、それで張り切った恰好をすることに一点の恥じらいも、不安も見いださなかったのだ。

 彼女がここに来るまえからすでに『亜門ロキ』に傾倒する一人だと言うことは、これも、詳説するに値しない事項だろう。さもなければここで暮らしている現状の理由がつかなかった。


「わたし、『IMMORTALE《イモー・テイル》』のために何もできてない。ロキロキは、それでもまだ住まわせてくれるんだよね。ほんとはそれだけで嬉しいんだけどね。でも、」


「何を気負ってるんだか……お前に、仕事のことは頼まないだろうさ」談は他人事への無関心さみたいな情動で、返事をした。「いや、今じゃ、趣味ってものか」


「ロキロキはまたっ、『IMMORTALE』書きたいって、みんなに読んでほしいなあって、思わない……?」


「っ、思わないよ」


「そっか」


 霧架は、とっ、とっ、とかわいらしい足音で自室ねぐらに入っていった。太い三束のポニーテールがどこか強い勢いで揺れているようにも見えた。

 談も寝床についた。だが、またいつものカフェインの過剰摂取から、うまく目蓋が下がらないで、いつしか眠ろうとする意欲もついえてしまい。遣る方無しに机のまえに座る。両肘をキーボードのそばに据えてしばらく照明を見つめることばかりしていた。瞬間、意識が飛んだ気がした。ようよう、赤橙色の睡魔がやってくる。パソコンを開いた。それで時刻を確認し、じゃあ、午前四時を過ぎるまでは目覚めていようときめて、白紙の上下を黒の魔物が行ったり来たりするゲームに興じていた。

 翌朝。談はそのままの姿勢で起こされることになる。もはや日常と化したそれに従えば今はキッチンで朝食を作ってくれているはずの霧架だが、どうしてかこの部屋まで彼を呼びに来ていた。薄もやの晴れ得ない視界でさえよく映える昨日の衣装で、ひっしな顔の霧架は、この両肩を掴んではなさなかったのだ。


「ロキロキ起きなさい!」


「ハハオヤみたいに起こすなあ……」


「まだ、寝ぼけてるのっ? チューするよっ?」


「したら通報する……」したら通報されるのは自分であることに気がつかない。


 五分、寝起きの悪くなさ、と言えばよいかそれに定評があった談だったけども、他人に乱暴に眠りから覚まされることについては苦手らしく、不毛な問答をひとしきり続けたあと外に出た。無論、装いはあのままである。彼女は玄関で待っていた。「ロキロキ、」と、まさに消え入るような調子。この霧架の表情にまみえた経験は一度たりとも無かったものだから談も、若干とり乱して、「なんだっ。向かい(とは、別の一棟のことだ。この場所には合計四棟もの賃貸アパートが東西南北、正四角形をえがいて建っていた。)が、燃えてたりするのか?」安易にでっち上げた無根拠を口に出してしまった。


 違うよ、と言うと、霧架はおそるおそる緑色の鉄扉の取っ手に手を掛けた。


 そして限界までけはなった。「なんだ?」


 ようやく鮮明になったばかりの視覚――ついに、焼きが回ってしまったのだろうか。四階建ての第三フロアによる展望を埋め尽くしたのは、見紛みまがうことのあるはずない「奇麗な石積いしづみの景勝」だった。鉄柵まで近寄ろうともそれとは何の変哲もなく広がったままだった。談は、開いた口がふさがらないで困ってしまった。

 とっさに指で眉間みけんを押さえつけていた。


「ああ、夢だと言ってくれ、」


「ユメダヨ?」


「霧架、ちょっとチューのくだりやり直してもらえないか、」


「イヤダヨ?」


「イヤなのかよ」


 本能的にコミカルな会話を求めたのもそうであるし、


「……なんだよ、これあ」


 何より、納得できなかった。「霧架、降りるぞ」談の声は気だるげな感などどこへやら、はっきりと芯のあるものだ。そのあと彼女の「あいあいさあ」もこわだかに反響した。

 つまり、正体とは可もなく不可もない判断のでき得るものであった。



「ああ、」


「『とう』だね……」


 アパート一棟の地上約二〇メートル高を容易に見下ろせる異様な巨大さをまえに、霧架はありのままのにこにこ・へらへらした態度を変えないでいた。


「なんでお前っ、そう冷静なんだ、」


「だって、わたしもロキロキも、こうなるってずっと信じていたんだよ。だから当然だよっ!」


 言うに事を欠いて霧架は、歓喜した。全身をぱっと奮い立てて、そのアパートの倍近くはあるような、「塔」と言うよりホールケーキ状の建物のそばで舞い踊っていた。


 けれども談はまだ幻想の可能性を捨て切れていなかった。とりあえず入ってみれば一目瞭然じゃないか、と引きつった声で、彼女を伴いなかへ。「すごいな、」外はまだ早朝だと言うのに、竜か何かの口をとおっただけで色彩の明度はがらりと夜の気配に移ろいだ。唯一照明をしてくれる人工的なほのおのほとばしりが点々とまみえる狭い進路に向かうと、ようやく談も状況を理解できたようである。「おれの、思い描いてた塔とおんなじだ……」そうつぶやき、霧架の顔を覗き込んだ。


「霧架。これはなんだ?」


「え、」


「お前がやったんだろ?」


「えぇっ。違うよお! わたしじゃないのお!」


「何、ちょっとそれっぽい顔と演技をしてるんだっ、」


 談は、彼女のある特殊な境遇に思うところがあった。

 彼女と初めて出会ったとき、そのよそおいはまずしく汚れていて、おまけに頭髪は(今では嫌気が差すほどに見慣れたものだ、)明らかに地毛の色ではなく、一四歳と自己紹介されたことに大層おどろいた。さらに自分の大フアンであると、アパート三階の自宅に窓を割って侵入した経緯や理由などすべて、こと細かに説き聴かせられた。それからのなりゆきで住まわせてやることになっていたが、そのあいだにも、霧架に訊ねようとしては何度も失敗し、疑問符を払拭できなかったことがただ一つだけ談の心に、今なおわだかまっていたのだ。


「霧架、上を向け」と淡泊に告げると、ええ、何しちゃうの、痛いのはいやだよ、などとまたゴネ始めるので問答無用にあごを持ち上げさせる。


「やはり……」白い皮ふのかがやく首筋だ。彼女がこまめに唾液だえきを呑むさまもよく分かるし、表面に走った緑の血管さえ、ある種の高貴な模様のように美しく思えてくる。これがどうしたのか。


「首を絞めたあとがない、それに、骨が折れてるようでもない」


 顎骨の張りや後頭部の髪の生えぎわも触れて確かめるから、間違えるはずもない。


「どういうこと?」


「まえに、霧架を不審者とおもって首絞めたことがあったろう」とは、誇れる発言でないはずだ。現に撤回されることも、まったく無さそうだが。「それで。やっぱりおれの手には、お前を――殺してしまった感覚がまだ、残ってるんだよ。罪悪感もな、」


「ロキロキ、」


 いたたまれず目を伏せる霧架。


「あのさ。お前のそれは、かさねの持っているものと同じ何かじゃないのか?」


 それに構うことなどあるだろうか、談は迷いのない口振りで言いあらわしたのだった。

 累は彼の著作『IMMORTALE』の主人公兼メインヒロイン、幼い見掛けをし、それに似つかわしくない大人びた態度・独自の言い回しをする不思議な人物である。ここにおいて彼の指す「持っているもの」とはまさに、この突如として現出した古塔に深く根差したものだった。現状彼ははっきり言及するつもりがないのだろう、しかし、累は塔の意義に直接関係する「異能」を使い、そこの頂上を目指した人たちに例の『世界一価値のある宝物たからもの』をもたらすと言う職責を負っていた。極論するとそこで異能を行使する際、かならず備えて居なければならないとされるものこそ、「肉体に起こった表面的・内面的な異常を排斥はいせきする力」なのだ。

 果たしてこれで、霧架の境遇についても納得がいく。彼女が傷つかなかったこと、命に関わる重大なケガもたやすく平癒できること、それらは論理フィクションの産物たる塔と累による異能が原因であった、と。


「……まあだとしても、それで塔を起こせるかと言えば、そうじゃない。話が飛躍しすぎたな」


 談は、一度そのせ首に回していた手指をはなすと、彼女の頭の上に置きなおした。


「お前は、はじめっからここが塔だってことに、疑いもしなかったな」


「うんっ!」


「おれは、嬉しいんだ。まだ塔は、だれかに必要とされている、そうだと思えて、な」


 談はいきおいよく髪を払った。


「たぶんだがな、おれもお前も、ここ以外の場所じゃもうむくわれない人間だ、」


「そうだね。だから、行こうっ?」


「ああ!」


 そして、順路をめざし歩き出した。

 おのずと迷路には価値が見いだされていた。二人は誰よりもこの場所を理解して、要求してきたから。二人ににんによって手にしたい「世界一」の歴然たる姿と、行為の意味も、分からないわけはなかった。


かげが、出てこない、」


 しかし、なかには見逃すことのできない異状をも感じとった。


「いいことじゃん」


「いやまあ、そうだけどさ。うん、」


 と、思っていたところに、道幅の広くなった虚無空間があらわれる。「こんなところ、小説版にあったんだ」と霧架。「読み込んでるわけじゃないのか?」「そりゃ人並みに、だよお。わたしは、別に累ちゃんと『ヨーゼフ』が好きなだけなんだから」「……どうして、『ヨーゼフ』なんだ?」「あの人だけ、塔に入るまえとあとで、何も変わってなかった。変わらなかった。きっと自分の意思で塔に来てたんだよ。それが、羨ましくって、話の展開も、『ヨーゼフ』のが一番おもしろかったし」「そうか」「だよ!」「まあ、だったら仕方ないか、」どうしてか、意味ありげに拡張された不可思議に接する談は沈着冷静に、そのなかを進んでいく。状態を油断、と形容するのはすこしあやまりがあるのだが、まさにここでは何も起こるまいと言う、無情さに衝き動かされているようだった。


「『影の魔物』ってものは、ようするに、そいつのこころざしと塔の掲げる救済の形とに折り合いをつけるための役割で……おれたちが普段使う言葉で言えばまさに『迎合きょうちょう性』に当たるのな」


「それで? この場所は、」


「エニシを断つ魔物のための空間だ。設定上じゃ、『巨軀きょく』と名づけて居るがな。そう滅多やたらに出せるものじゃないし。お前が、知らなかったことも、当たりまえだ」


 しかし談はおもった。その『巨軀』が現前するために、これまで考えてきた塔内の迷路では確実に空間が狭すぎた、と。いや、知ったのか。彼の生み出したものは所詮架空の物語であり、根幹に繋がるストーリを除いた、細かな描写などはほとんど読者嗜好に委ねられるようにできていたのだ。これを不備とすればいいか、特徴とすればいいか、ともかくも「論理的には」機能していないのに同義である。もはや、この場所は露木 談ないし『亜門ロキ』に元来創造されたものには当てはまらないと言うことにでもなるのだろうか。結論できないにしろ、現状理解をすすめるほかに二人の判断はなかった。


「だがまあ、あれは試練と何一つ関係のないしろものなのでな。気にしないままでいい」


 と、語る。頭上の松明たいまつによる温風の止み、代わりに黒霧の流れ込むさまを想起することもないで、その場に立っていた。

 瞬間、二人の肌は異状をとらえた。布越しのにぶった触覚でさえ過敏に、毛穴の震えを総動員して自身らに伝達した。最初に声を上げたのは霧架だった。


「ロキロキは、女の子どういう趣味?」


「うんま、きらいではないけど好きでもないって言うか。家を出てこの方、バイトと執筆にしか時間を割いてこなかった気がするし、正直必要も感じなかった」


「そっか。それはまことに、残念なことです。ところで、」


「ゔおああっ――あ!」


 談は気がつくと、まるで目前の蜘蛛の巣を払いのけるようなおどろきで身をひるがえした。前方数メートル、この有意義な広場の終わりにさしかかったところに例の「魔物」は待ち構えていた。

 その、情景について、彼の著作中における表現を借りるなら『それはよもや「影」の域を逸脱した。塔によりつかわされた衛兵にあるのか、この神域にはあってはならない人間を傷つけることに特化した大鉈おおなた、これを支える漆黒のからだは天に触れるほどで、われわれの到底敵う相手に無い。かの書物を読みこなした女主人によれば、人のまえに時折姿を見せ、かならず誰かをほふりおおせるこの存在を「巨軀の魔物」とよぶのだそうだ。』と、言うことで、つまりそうである。塔内の儀式では試練として影を討伐することになっているが、『巨軀』とはその範疇にあると考えられるはずもない大きさに戦闘能力を併せ持つことで、絶対的な力を行使できる存在。一体何の、誰のためにあるものなのか、それを知るのは結局著者のみになるわけだ。つまりそのように「エニシを断つ魔物」と位置づけられる、露木 談だけが。


「どうする?」


 先ほどの体たらくをすすぐように努めて、談は慎重な言葉をえらんでいた。ただし、霧架からの返答はなかった。彼が即座に後ろへ振り向くと、彼女は、足元にただならぬ数量の小石を集めて並べており、表情もいつにないきりりとこわ張ったものになっていたから。これから彼女が何をしようとしているのか察知して、出来得る限りの声音で「お前、正気かっ!」と叫ぶ。無論自分こそ動揺し切っているのだともわかっていた。


 だから、彼女の「今は、向こうの意図を知ってあげなくちゃいけないよね、ロキロキ?」と言う切なさが、ひどく胸に突き刺さった。


 今度は申し訳なさそうな顔を浮かべた。


 霧架きりかは右手をひろく振りかぶると、半身に、そして左足を強く踏み出して、まさに全身の機構を駆使した第一投を、影の王に見舞った。小石の速度はさいごまでさほど伸びなかったけれど、反対に、途中でおとろえることもなく、王の中心まで飛んでいった。次に当たると酸に浸したゴム風船の破裂によく似た具合に王は、弾け消えた。瞬間にしていなくなるシャボン玉の美しさになく、みにくく膨張し弾けたあとも残り続ける製品のそれが真相だった。談は驚がくしたが、霧架は当然の笑みだ。「――あれ、」するとそこにまた王を見つけた。「そんな、わたし……」彼女の第二投も見事炸裂し、王は消え、遺骸からはまた王が生まれた。「お前、『投擲とうてき術』は持ってなかったのか?」「そんなことないよ! だって、わたしがっ、」もはや彼女が勝利できないことは明白だった。人の像を成した影を消すこと自体が無理な話だったのである。しかし霧架はまた石ころを投げつけ始めた。どんなに拙劣に不精にほうってもかならず、それらは王の一匹に向かい、淘汰とうたできていたものの、「なんで!」一向に王の受け身が変わろうとはしない。彼女の石は発動すると、彼者が破裂したあと、真んなかからきずを生じ四つくしりになって割れ落ちていた。それがただ積み重なるばかりのことに、どちらも、後方で見守る談でさえ辟易へきえきするほどだった。そして災厄との邂逅から一四分が経った。


 霧架の呼吸はみだれることがなかった。一体、初観測から何代目であろうか影の王にも、疲労の感を読みとれない。


「何」


 霧架にはそれが許せない。口のひどいふるえと、


「何よ、」


 目を見開いて言う。

 正常な意識の喪失は目に見えていて。彼女は、武器の一つとして持たないはかなげな肢体のまま、王へ駆け出した。なぐり掛かろうとしていた。無駄かどうかと言うまえに、自分の無力を、ここに見留めたくなかったのだ。


 彼女の眼前に立ちふさがる王とは、やがて右手の鉈を大きく構えて見せ、刹那、見惚れるような鮮やかな青に目がけて叩きつけた。「づっ――、」命中直下のひびきに、唾液混じりの嗚咽が聞こえる。彼女の目前で談が、肩から胸、脇腹のあたりを血色に染めながら倒れ伏してしまった。


「どうして?」


「……下がれ、」


 立ち上がろうとするひっしさに、思わず声がかすれていた。


「ロキロキ、わたしは、大丈夫なのに、」


「いい、か。これには意味がある。分かったら、さっさと、下がれ、」


 談は無表情に告げた。

 激甚げきじんな痛みをものともせず、霧架と二人そこから逃げおおせた。ひずみの通路を抜けると、王からの、追跡を受けることも無かったからだ。


 談を支えて歩いて来た霧架は少し、奥まったところに彼の傷をおく。すかさず自分のシースルーを取って手当てをこころみるが、「やめてくれ。その必要はないんだ」と彼に、なぜか制止されてしまい、何もせず自分もとなりに腰を下ろした。


 彼の言い分と言うか、考えて居ることがまるでわからなかった。


「霧架。お前、まだ振り切ってなかったのか」


 ままに彼は、頭を撫でつけてきた。「……なにが?」


「霧架。第1階層の『試練』を、忘れたか?」


 いつにも、彼は霧架が『IMMORTALE』についてなんでも知っている前提で話をした。


「『生誕と命名。みずからの出自と、今の姿に繋がる経緯を知っていること』、そうだよね、」


「憶えてるなら、いいけどさ」


「でも、あの影っ、」


 でもそれはじつに、彼女になら気兼ねをしないで話すことができるから。何を始めても徹頭徹尾、説明ができるから。――など、つまらない理由に尽きる。彼の自己解釈をすべて明かせると言う道理は、発祥から今まで彼女にしかつうじていなかった。


「あれは縁故を断つと言ったろう。まあ、なぜそれができるのか、なんてのはつまらないことだがな。あれ自体が縁故の集合場所とか、それそのものをつかさどっているわけでな。自分の掌中にあるからこそ、どうにでもなるし、それが塔の法的に許されている」


「ロキロキ、」


「霧架。お前だって、実は特別なんだよ」


 彼は自信満々に言い切った。


「それでお前が、管理者になる素質を見いだされたヤツだ、ってなら、この場所の必然を受け入れないといけない」


「どういうこと……?」


「お前にはいま、お前自身の決めた『四条しじょう霧架きりか』になれるかどうか。それが問われている」「わたしが、」「だから正解はお前にしか分からん。けどさっ、」談は負傷した左肩を持ち上げる。「これが、少しでもヒントにはならないか?」


 実際に、彼のからだにケガは生まれていなかったのだ。服装に染み込んだはずの血液もあとかた無く、きっと、先の態度は「斬られた」と言う意識による過剰反応だったのだと知れた。


「『巨軀』ってのは、人間のエニシを物質的にとらえ、切断する権利があたえられている」


「なんで。そんなことしなくっても。人同士別れさせるのってそんなに難しい?」


えんってものがまずもって人間たちの純然としたこじつけだ。そんなもの、存在しちゃならない。本人の主体性を無視して、他人の杓子しゃくし定規を押し当ててくるなんてな、そんなの、罪深すぎる。でも繋がってられるのは安心になる。自分の正しさもあくどさも、誰かが正当に認めてくれる。だから、エニシはあるべきものなんだよ」


「食い違ってるよ、ロキロキ……」


「まあ、そう言うなよ。ものは考えようなんだ。たった一つそこにある事実に、おれたちは結局、自分の嗜好と合うのかそぐわないのかって決めつけるに精一杯ってな。それなら『巨軀』に対しても同じだろ? あれをいものか悪いものか、判断つけるのは霧架しか居ない、居ちゃならない。お前が、全部けりをつけるんだよ」


 談と霧架が出会ったのはわずかに一月ひとつき前。当時、まったく正反対の方向に感情が先走っていた二人は、以降、たった一冊のライトノベルの存在だけで親交を深め、今日までやって来ることができた。それは相互に、「必要のない身上しんじょう談や思わくを開示しない」と言うルールを遵守しようとしたからこその結実。どちらもが何に対しても好意的で、肯定的で、また自分の死生観にかたくなであったからこその信頼。

 無知による有識と言えよう。

 だから、談は霧架を知って、『四条霧架』を知ろうとしなかった。彼女がいつか、これをおのずと解決できるように、何も、助言しなかった。


「いいか霧架。何度も言うがあいつは、必要があるときにしかあらわれない。お前は、今、だれかとの『無為むいの縁』に縛られているんだよ。それを――お前が、ってい」


 談が、『亜門ロキ』として言えるさいごの言葉がそれだった。

 道理で独り、悟り澄ました顔をしている彼は霧架の目元をぬぐっていた。


 それに、何がための正当さだろう。人間の主観性を失わせるはずの縁故、一方的な客観視の産物であるエニシが、めぐりめぐってその当人の「正誤」を見定める論理。むしろそれなしでは人間たちにその「正邪」しか認められないと言う。だから、「ロキロキは……どうしていっつも、わたしを認めてくれるの?」塔以外の方法論に関してすれば、彼の思考はつねに間違っている。


 自己の決まった主観性を説かない、その男は締めくくりにこう述べた。


「おれも、ここもそう言う場所だからだよ」


「……そうだよね。ロキロキは、そう言うよねっ」どうしても結局霧架は笑っていた。


 そして、影の王との再対峙。今度は引かない。霧架は右手に小石をかたく握り込み、反対に彼者の両腕には武器の一つも見当たらなかった。すると彼女が叫んだ。「もう、決心がついたよ」一歩、踏み出してから続けざまに言う。「『四条霧架』は、わたしが示したもので、あなたが見つけだそうとひっしになっているもの。でも……それは、ほんとに大切だから。ほかの人には、教えてあげないっ」三又に分かれた婀娜あだ色のポニーテールを遊ばせて、裾のひだ、フリルを乱し、かっかとするどく足音を立てる姿。そのくせまだ幼稚な言葉尻と、屈託ない笑いのさまは、真意の潔さを確固として示すものであった。はっきり明暗を浮かべて進んで行く。「もう、その恰好にも、理由は無いよね?」と霧架が訊ねると刹那っ、影は天井ぎりぎりのところまで逆巻いて、小さな人形ひとがたあいった。彼女に酷似するそれは見掛けだった。床に触れるかどうかと言う大振りな一本をもち、右手にあの大鉈をあらわすと鼻先に向けてきた。霧架とおおきく違っていたのはやはりそれが無貌の存在で、つまり、「影」としての役割を果たそうとするひとりであること。ちょっとした親近感にまた距離を縮める霧架。いつの間にか、ふたりのあいだは大鉈の長さの分だけになって居た。「……そう。あなたもまだ、挑戦者でいたいのね」でも……と、てのひらの小石を見せつけ、「でもっ今はわたしのほうがずっと、理性的なんだよ、」振りかぶる。予想どおりの円弧をえがいて向こうのやいばもまた斬りかかって来る。霧架はそのままに受け止めた。どうしてか二つの摩擦音と衝撃音は無かった。ただジリジリと言う擬音を見いだして今は、双方間合いを確かめようと足を揺らめかせていた。霧架の筋書きとしては、次こそ、投擲を当ててしまえば絶対に勝てることになっていた。しかもそれは事実だった。彼女が『IMMORTALE』のほとんどを読みこなし、この塔の現前にもそれほど驚かなかったことや、談のショウセツを省いた話にも理解を見せたことを思えば、この確信が、何も根拠を持たないはずはなく、真理となるだろう。「ねえ、知らないのっ? たとえなんでも殺せる強い力があったって、きちんと殺す実力がないと、無意味なんだよ!」霧架は真正面のものに投げかけた。先に言われた理性的であるさまがそこに表出していた。彼女が一旦腕を引っ込める、すると一撃はかたると線対称的な位置に見舞われて、視界の情景はいっきに鈍色にびいろへ表情を変える。血液の漏出に尽力した霧架だが、どうしてあいまとったあの独自な服飾は独自の型をまもり切った。それさえ織り込み済みだった、と言う向こうのさかしら顔を見て。影の鉈とは輪郭に巻きとられたかと思えば、むちを打つような目にも止まらぬ高速さで霧架の胴上をねとばした。瞬間に衣装は丈の短い白ワンピを胸、生地の厚いフレアスカートを腰にそれぞれ残し、居場所をことにされてしまった。彼女の飄逸なイメージも、倫理を喪失した廃人のそれにされていた。血潮の噴き出せる部分に、やがて、肉の糸が通うと胴体はふたたび元の形に戻ったのであったが、霧架は面食らった感覚を忘れようとはできないでいた。「生きてるの、って、こんなにつらいの……? いたいの……?」あの影に分かるまい。はっきりとした職責を抱き、生まれるべくして生まれた彼者たちに人間じんかんの「痛み」の観念は無く、それも、使命履行するうえで必須の「損失の可能性」にすぎないから。霧架はようやく同格のものと戦えているのだと痛感していたが、それは本当にただの痛みにきわまり、結局、名状し難い霧架のようなものと対等になったのは物質的な価値だけであるのだ。そうして、仰向きのままにあれの破壊の術を受けることも、正当じゃないだろうかと霧架は考えて立ち上がろうとはしなかった。


「霧架、怯むな!」


 何を、誰が言うのか、とおもった。彼の激励になら元気をもらえると確信していたはずなのに。

 これほどまでに狂気には敵わない姿を演出させられて、今さら、個人観念まみれのいびつな「宝物ほうもつ」へ向かおうとするやる気も、霧架には起こりようもなかった。


「ロキロキ。おしえて。『世界一価値のある宝物たからもの』ってね、本当にわたしに振り向いてくれるのかな、許してくれるかな?」


「おれは、その、自分の理想を書いただけだ。どうやったら報われるのかそれだけを、考えて、最初からあくまでご都合主義で書いてきた」


「じゃあ、わたしって……なんのために目指してるの?」


 霧架はとうに泣き腫らした目でうるみ、さかのぼる血流を喉に押さえつけながら話した。

 談は、助けに行こうともしなかった。ただの痩せ肉で後ろに突っ立っていた。


「そんなものは、分からん。ここじゃ、おれはもう、かみさまじゃないんだよな。おれが言ってきたこともだから全部、つじつま合わせに必要なだけだった」


「ロキロキ、」


「霧架。おれは、お前を背負ってやれないぞ」


 どうしてだろう、


「……まあだけど、お前が、かさねに会うまではつき合ってやるつもりよ。別に、頼りたければ頼ったらいい、邪魔なら、好きにすればいいし。ただお前の、かならずそばに居られるわけがねえんだと言うことを、知っててくれ」


 どうしてかれは、こんなにも、冷静で客観的なのか、と霧架は思って見ていた。しばらく見ていた。かれと目を合わせられたことは一度もなかったし、今でも、とかく視線ばかりが独歩しているかのようだ。

 そうだ。ここは、最初の人に創造された古塔ことうである、以前に。

 『亜門ロキ』、いては露木 談そのものの価値観によって想像された、知の世界なのである。

 なれば、霧架に限らず人間はみな、その「世界一」と呼び声高いしろものに魅了され、いち生涯を懸けてでもきわめようとする。人間に出来得る最小限度にして最大至高の救済が、塔には現存している。かれによる原初の、利己的な真理こそが今では超然論理のなかで、だれをも救える事実を成した。どうした奇跡ぐうぜんだろう。

 その、奇跡をつくった張本人はへそ曲がりのまま、かたくなに自分だけが幸福になれる目的のことを説くけれど、もう彼の思想はこの場所だけに留まらない。


 いずれ世界中の「未熟な救済」を吸収し切って、「――あなたが、わたしの幸せを『至上しじょう』と決めたから――、」塔の真意と正当さはようやく証明されるのだ。



「この世はどいつでも、極論でかたれる。たとえれば善と悪のように明白なものもあるが、その狭間、中立にこそおれは真理が眠ってると信じている。善悪の主張に介在する中立は、どちらでもない、と言う答えに、どちらでもある、なんて裏解釈ができるだろ。でもそれは善悪のように振れの大きなものじゃなく、まえにも言ったが自分の嗜好に沿うかどうかだけの結論だ。世のなか全っ部の摂理にこれみたく、『絶対的に善しとされるもの』と『絶対的に悪しきとされるもの』、そしてあいだには意識のニュートラルな状態、つまりおれらに好き嫌いしか決めさせない『絶対に普遍的なもの』が、運命的に存在を確かめられていると言うわけで。塔の『宝物たからもの』はそれを再現しようってこころみなのさ。終極は。おれたちは人間の時点でこれに引き寄せられるようになる。自分だけのそれらしい解釈ばっか述べ立てるのだって、なあ? 楽しいことなわけない。極性は反発か癒着ゆちゃくかしか生まないんだ。思考思索じゃどうしたって、精神距離は埋められないんだ。……だから、塔はるんだ。るんだ。おれにもお前にも、だれにとっても『世界一』で、それで個人的で、ちゃんと形を成した救いが必要なんだっておもう。まあな、これで人類救済だなんて大それたことは言わんがな。ただ全員に、漏れなく吾が儘になってほしい、とは、不道徳な言い方だけどな、それでもそうなってほしいんだ、」


 霧架がついに、影の王をうちほろぼしたあとのこと。

 見た目には外傷のない彼女だったが、内側の神経系にのこるあの激痛からようよう自立を諦めて、わずかに背負われた先、階段のあるドーム状の部屋で休養をとっていた。


「つまらない、講話でした」


「そんなことないよ?」


「退屈すぎて、頭痛くなるだろ」


「たぶん知恵熱ね」


「そうかお前、まだ子供だったな」


 談は額を押さえようとするが、誤って眼鏡にべったり触ってしまう。ああ、と拭きものを探しても見つからないので、遣る方無くズボンのなかに突っ込むしかない。「災難続きだ」と、談は言った。スウェットの軽薄さとはどこまでも信用に値しなかった。


「ロキロキは、『IMMORTALE』は何巻まで書くつもりだったの?」


「そんなもん、あれだろ、編集のなんとやらってやつだ」


「質問の意味りかいしてっ!」


「いや、あの、ほんとは一巻で終わる予定だったんだ、けどなんか思ってた以上に反響あって、ヘンに期待とか重圧とか掛けられて、そしたら……」


 すると、霧架ははにかむような笑いを起こして、口元をおおげさに隠した。どうにか噴き出すのをこらえようと、そう言うさまは愛らしさだけでなく生来の、人品のよさを見せつけた。


「うんっ、知ってた、よ。だって『ヨーゼフ』の話がいっちばん最初だもん! わたし、それだけ何回も読み返したよっ」「やめろ、そう言うこと言うな。あれまだかなり文章がアレだから、」なぜか影響されたらしい談もそして両手に顔を覆いつつんだ。眼鏡をしまったのはやはり正解であったか。「確かに、小説だもんね。文章はだいじよ。でも、」


 と、霧架の、アンティークドールと見紛う小さな手が、血管と皮ふの上をった。目を見開けば本当におさなくて痩せていて、奇麗な指の生動がよくわかった。


「『亜門ロキ』の世界は、わたしにいのちをくれたわ。だからほんとうに生きているの。見掛けのうえでの出来なんて、わたしには関係ない。あなたが正しいと、うれしいとおもったことを、わたしも同じように感じて居たい」


 四条 霧架はすてきな表情になった。

 対面した談はおもわず尻込みして、黙り込んでいた。


「わたしはずっと、つまらない人間でいたよ。何も楽しいことなくて、誰かを、恨むこともなくて、ずっと無価値だったの。それをね、『生涯に気づきがない所為だ。わたしの報われる道は、すべてこの古塔以外には示せないのだ』って累ちゃんは言ってた。えつと一巻の最後のね? それでわたしも、『IMMORTALE』に誘われて。管理者候補になってから、ロキロキと一緒に暮らしてみてそれで、ああこの人が書いてたんだなあっ、てすごくうれしくなって!」


「なんでだよ……」


「とにかく、ロキロキはわたしのいのちの恩人なんだよ!」


「お前の熱弁にはついて行けんな、」


 それで談は立ち上がると、伸びとストレッチを入念に行う。「ロキロキ、おじさんみたいっ」「お前よりはずっと、中年に近いほうだからな。突発的な運動でっ、どこか痛めたりでもしたらしゃれにならんぞ」「だいじょうぶよ、ロキロキ」「どうして?」腰の曲げ伸ばしに真剣にとり組む談の詰まった声に、霧架は含み笑いしつつ「だってね、わたしが、全部ぜんぶ分っ戦うもの」強気な言葉でそうくくった。





 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――






第2話  塔の呪い

 結局、この物語とは、みずからの価値観を肯定できるようになるための冗漫な、積み重ねに同じだと。――それはまさに「呪い」のよう。





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