紀ノ章 エピローグ

 累による統治のなされていた塔が、最高管理を四条しじょう 霧架きりかに切り替えてからしばらく経った、それはある日のこと。無風と梅雨入り前くらいの気候をつねに保ち続ける場所に、どういった変化が生じたのかを探るために一人で下位階層へもどっていた露木つゆき かたるが、久々に『セレスタイン酒場』まで登って来たのである。


「やあ。ツユキ、挑戦者かれらはどうだったかい?」と、螺旋階段から頭頂をのぞかせただけの談にすかさず声を掛けたのは、ここの宿屋兼バーの経営者の輪廻りんね・セレスタイン。


 外はねの強い空色の髪の毛は変わらず美しく、ベストとスーツの衣装でくっきりと浮かび上がったボディラインも文句なしに扇情的だった。ただ顔を合わせた当時に比べるとなんとなくくだけた口調になっているうえ、並みならぬ因縁のあった彼に対して「ツユキ」と言うニックネームを使っている点が、気になった。それほど二人の過ごした時間とは、長く色濃いものであったのだろう。


「君の同胞は?」


「家族ができてた。近く、子供をつくりたいそうだ」


「それは……なんとも、言えないわね、」


 輪廻は目を伏せた。カウンターに立つ彼女の表情のちょうど見える席に、談は陣取った。

 黄土がかった黒髪と同じ色どりの顎髭は輪郭線みたいに広がって、とくに濃い上口唇うわくちびるの部分は彼が触れると歯ブラシ的なしなりを見せた。


「元々、塔に関わりのない世界に根ざしてた人間だからな。目に見える幸福ってものはどこにだって転がっている。いや、今後はもっと分別ふんべつの人間が増えていくだろうな」と、談が言った。


「なれば、ツユキが、挑戦者たちの生活をのぞき見するいわれはないのじゃないか?」微温のコーヒーが注がれた同型のカップを二個持って、輪廻が訊ねた。彼のまえにひとつを置いた。


「無分別のまま放置しろってか」


「君は早計そうけいに過ぎるんだよ。彼らはこれから分別を得ていく者たちだ。形式的な理解を持たないものがかりに無分別となるのなら、塔の名を知らない民間は全部もって愚か者じゃない。そうは言い切れないでしょう?」


「それもそうか」


 談が素直に肯定すると、輪廻は軽く笑んで、上身を机の仕切りへと垂れた。「君はかたくなだが、同時に相手の意図をねじ曲げようとしない心のひたむきさも備えている。だからどうか否定してやるなよ」


「なあ輪廻。人の言葉遣いが、さ、責任能力に比例している、と、思わないか、」


「それは他人に理解されるために辞書を引く、物書きとしての所感か?」


「どうかね。豊富な語彙ごいに正確な用法を兼ねても、知らないヤツには分かってもらえない。分かってもらえないってことは、知られもしないってこと。意味のないこと。おれたちは自分の責任能力を全うするために、まずは言葉を習う必要があるとおもうんだよ」


「だとすれば比例するのは責任能力になく、責任感じゃないかな……」


 と、輪廻は言って首を横にかたむけた。


「本当に、この時代を選んでよかったのか?」


「塔の原形は観念だ。観念ってものは、他人との意見交換やとある思想体系との出会いでよりよい容姿、より具体的な性質を伴っていくものだろ。大多数に選ばれるために、必要なのは、そう言う変化に対する柔軟さなのさ」


「ツユキ、君が柔軟さを語る分には、どうも信頼性を欠いてしまうよな」


「うるさいよ……」


「ああ。『変化』で思い出したけれど――今度の塔は青く光らないんだね」


 すると、談は一瞬おどろいた顔をして、すぐに黒い光沢のある液体を飲み乾してしまった。


「何?」


「どうして、今まで訊かなかった、」


「それは、忘れていたからだよ……」


「そうか」


 輪廻の弱々しい態度をそれ以上は追及せず、談は息を整えた。

 どうした大仰さかと、彼女は思っていた。


「おれの、憶測が正しければ、まえに青くなったのは『チギリ』と『カサネ』が入れ替わったときだよな?」


「ああ。もう二〇〇年も昔のことだから印象があいまいだが、彼女の死を契機にことが起こったのは確かだ。それに、あのころから挑戦者かれらの様相も違った」姿勢をもどし、疑わし気に美貌を歪める輪廻は、陶器のコーヒーを右手に揺らしながら接客位置をうろうろとする。「この第7階層間近まで来られたにもかかわらず『宝物ほうもつ』を、手にしようと言う気骨の感じられないやからが多かったように思う。いや、わたしこそたがっているかもしれないが、」


「……さっきも言ったが、塔はあらゆる人間に受け入れられなきゃならない、塔を受け入れられない世のなかになれば、塔自体が広義としての目的とか判断基準を一新する必要が出てくる。『塔の存在意義の変質』って現象ルールはそうして起こる」


「変質、とは……彼女の時代から、一体何が変わった?」


「輪廻の推察どおり、『挑戦者の受け入れ方が変わった』。カサネはほかの管理者とは違う。この塔じゃ、二五〇年周期で時代に合うための改変が起こるよう決まってて、そのつど管理者になる『申し子』の存在が欠かせない。累は、おれたちのこんがらがったエニシの解消を果たしてくれる『ちぎり』を生み出し、それと『宝物』の思いにかなえばどんなヤツでも登らせた」


「それでも、塔の目指す至高は変わってない、」


「『宗教』だって、信じる気持ちだけじゃ成り立たんだろう。『教』えと入っているからには学問だしな、教育のれっきとした一部だ。教育の方法は難易度や年齢エイジに大きく関わるから、個人にどうやって伝えるのか、それは先生の自由にすればいい。しかし教育方針まで如何どうこうすることはできない。どんな教えだろうと必然的に抜かせない要素があるからこそ、教えはその教えらしくることができるんだ」


「そうやってツユキは、一本槍をつらぬくんだね」


「他人には寛容であれ。自我には厳格であれ。ってな?」


「その厳格さを周囲にも押しつけてしまっている張本人とは、思えない発言ね」


「やめてやれ……」


 彼の卑屈な顔を見て、ふっと輪廻は目元と口元をほころばせる。そして、無謀にもブラックコーヒーを容器の底が見えるまで飲んだ。勢いがつけば存外いけるものだと勘違いしていた輪廻は、案の定、涙目でえづいてしまった。


「いや、そんなになるくせに、何故なにゆえいつもコーヒー飲むんだよ……」


「分からないっ。物資を仕入れに行くと、そこの人間は大概にワインよりコーヒーを寄越すんだ。気のつくときに飲んでおかないとそのうち、わたしの家はこの泥水に酔わされてしまうだろ、」


「もう酒場の女主人ってより、喫茶店のウェイトレスのが幾分似合うんじゃないのか?」


 談に茶化され、輪廻は不機嫌を絵に描いたような面持ちになった。


「……君の、観念が現実になるまではそれでもよかったんだけど。だから、ツユキの理想は二度と叶わない。古塔が摂理に成り下がった時点で、君もまた、挑戦者に格下げされていたのさ」


 そのために、彼女からは一切の忌憚きたんなしにそう告げられた。


「それより気掛かりなのは、二五〇年の周期とやらのことだ。わたしに言わせれば、チギリからカサネまで一〇〇年も経過してなかったはずだ。まさか、権能からして異なっていると言うの?」


「そもそもが、だな、『二五〇年』って数字は最初のアマネが次の管理者に座を譲るまでの時間で、それ以上の意義なんてない。発生をαとしよう――それから二五〇年経ったとき一度目の改変が起こった。累が管理者になったのはαから三千と三年後。するとそれまでに約一〇回、お前が見たような発光現象が起こっていたことになる」


「つまり、今の複雑化した塔の姿は幾つもの時代による価値をそのままに残留させている所為、なのか、」


「そう言うことだな」


「やはり、わたしの解釈は間違っていた。ツユキは神様なんて崇高なものじゃない。君は塔の、名づけ親だ」


「それも、どうだかね。名前なんて決めてないし。生みの親っても育ての親ってもいかないか」


「どのみち、君の知らないところで、この子はちゃんと生きているのさ」


「……ああ。それは、嫌ってほど自覚してるよ、」


 はにかみ笑いをして談はそこに座りなおした。


「今日は、泊まって行きなさいよ。あんなカビた場所で眠らずとも、質のいいねやを用意してある」


「だめだ。霧架が、まったくもって無駄な焼きもちを焼くからな」


無粋ぶすいなことを言うなよっ」


 と、輪廻が顔をしかめる。それを見て困ったように顎を撫でた談は勢い降参と言うように両手を上げて、「ははあ。どうぞ、ご随意に……」嘆息交じりに了承したのであった。


          ※ ※ ※ ※ ※ ※◆※ ※


 また、別の日の夜。第8階層から下りて来た談は、『セレスタイン酒場』を訪れた。

 ちょうど、彼は数時間前にある挑戦者の救済されるさまを見とどけたばかりだった。そうと言うのに事々しく気落ちしたようすであり、明らかに不自然に感じられた。


「どうした?」と、一方で待ち受けていた輪廻が飄々として訊いた。「あの子どもが、ぽっくりったよ」「そうか。わたしは妥当だと思って、止めなかったがな」「そう言うことじゃない。問題は、霧架のほうだ」そう言ってからの談はさらに表情を曇らせる。


「何か、あったのか、」


「あぁ……まあヒステリーと言うか、ひどいときのホームシックかな」


「なんて?」


「おれと、塔に登って来るまえの生活が、恋しいんだと」


「もうしばらく経つものね。彼女も、殺しまがいの行為のくり返しに辟易へきえきしてしまったんだろう。それも、かねて分かっていたことじゃないか」


 呆れ顔の輪廻は手もとの布巾を置くと、カウンターに出てきて大胆に腰掛けた。魅惑の脚線美をこれでもかと掲げて足を組み、立ちすくむ談を見据えた。


「……でもさ。正直おれのほうも、今じゃ先行き不安で困り果ててる。できたらお前がさ、最上階で、おれのこと殺してくれないか?」


しなよ。わたしは人間に手を掛けたりしない。とくに、君には」


 輪廻は、彼から目線を逸らした。


「冗談だ。でも、それ以外にはもう塔を下りて外に、出ちまったほうがうまくいくんじゃないかなって考えてるのは、本当のことだ……」


 しかしその言葉を聞いたのち、ちらっと横目に彼の顔をのぞき見た。


「なあ、その件なのだが、わたしがともに外へ出るとっ、どうなる……?」


「おれみたいなのから聞かなくても、自分で試してみたことくらいあるだろ、」


「ああ、夢のような経験だった。他人に認識されていない。あれで、ものに触れることさえできていたならば、文句はなかった」


「運命って、信じるか?」


「ふん。わたしがもし信じないと言っても、君は意地いぢくで納得させに掛かるくせに!」


「分かってるじゃないか」


 談も着席し、面と向かって彼女に言葉をていした。


「今、こうして向き合っているおれとお前だが、それは塔の存在のお蔭だ。塔はいつでも普遍的な価値観にもとづいているからどんな論理にも偏らない。よって、二つの『運命論的支配』に属する、おれたちを一つの世界に固着させているんだ」


「待て待て! 詳説もなにも無しに、意味不明な語を足してくるなよ。『運命論的支配』とは、一体なんのことだ、」


「輪廻。お前は『必中必殺の投擲とうてき術』と、『不老の力』のほかに宿していないだろうが、『他人の走馬燈そうまとうを覗く能力』ってものが管理者の異能には本来含まれている」


「また、そのまんまの名前ね……」


「ネーミングを気にしだしたら終いだ」談は短い呼吸でつないだ。「実際のところ、『宝物ほうもつ』のなか身については厳密に定められてるわけじゃない。だが、『走馬燈を覗く能力』はその内容を、生涯の追憶、ただそれだけに限定することで発現する。ところで管理者ってのはどうして、他人の追憶を仔細しさい覗けると思う?」


「それこそ、運命の存在を裏づけると言いたいのだろう?」


「おれたちが生まれてから死ぬまでのかん起こることを総覧するためには、それが確定事項である必要がある。けど塔に入った時点で、おれたちはその内容どおりの道を歩くことはできなくなっちまった。なぜなら塔は『存在しないことが当たりまえ』だから。つまり『宝物』を受ける側の一部はな、自分が経験してもいない将来を望み、それでもなお全肯定を果たしてたことになる。でもこれって、おかしくないか? 生命にあらかじめ運命が決まってでもしない限り、未体験の記憶をスッと自分のものとは思えないはずだろ?」


「君の言い分はわかった。その、走馬燈を覗く力とやらはなぜ、わたしには備わっていない?」


「しかたない、『申し子』の概念さ。二五〇年毎に、その時代の情勢を追憶から汲んでやって塔の意思につなぐ。だから別に力自体なくてもお前が欠陥品だと言うことはないんだよ」


「そう……」


「んで、話をもどすが、運命ってものが人間の自己肯定を生む観念だとすれば事実、管理者は全員『宝物』を享受きょうじゅできないことになる」


「どうして?」


「お前たちは基本第8階層で挑戦者として殺害されたあと、管理者の素質に目覚めている、自分の生涯をすべて見ても肯定的になれなかった連中だ。でも、むしろそっちのほうが妥当ではあるはずだ。自分が最後まで懸命に生き抜いている姿を見たからって、かならず使命感だとか、命の意義だとかに気づけるかどうか、わからん。それで済めばいいが、最悪『運命論』によって決められた必然性を憎悪することだってあり得るだろう」


 重々しい語りを、輪廻はだまって聴いている。


「だから、そうならないため『運命論的支配』は二種類ある。塔外のものと、塔内のもの。前者は塔に入ってくるすべての挑戦者に『宝物』を与えるため、心理的な発達の猶予ゆうよを設ける。対して後者は管理者としてのお前らに具体的な成果をともなった救済と言う記憶をこしらえて、『宝物』に導くために、二五〇年って明確な猶予を設ける。前者は塔の外部で起こるどんな現象をも必然とし、塔の内部で起こるあらゆる現象をも偶然とする。後者はその真逆にある」


「……それは、」


「お前が塔外そとに出たとき、誰にも目視されなかったのはそれが原因だよ。『運命論的支配』って言わば超観念だから、塔と同じように『存在しないことが当たりまえ』なんだ。だから管理者を殺せるのはいつも、塔外からやって来た素質のある普通の少女だけになるわけだ」


「でも、ツユキっ、」


 すると、急に苦々しい声を輪廻は張り上げたのだ。


「なら、わたしはこれからどうすればいい?」


 つややかな睫毛を悲し気に垂れ、眉を震わせて、食い縛る歯にさらなる力を込めていた。輪廻のそれらは表情とはとれなかった。

 無意識のなかから来る衝動のように談は覚えた。


「おれは、霧架に頼んだほうがいいと思う」


 淡々と答えた。勿論彼女には激怒され一蹴された。


「君だって、断行しなければいけない状態は一緒のはずだ。もうどうしたって、彼女の優しさによって救われることはない。この塔のなかで、君を助けられるのは今や霧架しか居ない……理解しているでしょ?」


「ああ、」


 煮え切らない態度で、髭のさわり心地にただただ集中する談。


「なあ、ツユキ。わたしと心中しんぢゅうしないか?」


 自分の惨めさをどんな言論で示されても、理性に準じ、なおもぎこちないお澄まし顔でいようとする輪廻。


「夢半ばで、満たされずに死ぬ意味では、わたしたちは同志だろ……?」


 と、強引に向こうの手を握りしめた。

 談の指は伸び切ったまま、いっこうにこの健気な女性の気持ちに応えようとしなかった。


「なあ。ツユキ、わたしは今になって君が『不老の力』に頓着とんちゃくしているのを恨むよ。もしも、君がわたしの見目のよさを『不死』のものとして、つくってくれたのだったなら……わたしは開き直って、君の志につき合おうと思えたのに。どうして、わたしに死の選択を残した……これじゃ、君を、笑って送り出せないだろ……!」


「すまない」


 そうして謝罪すると、輪廻はたまらずに押し黙ってしまった。

 やがて掴んでいた手を引っ込めた。


「おれが、輪廻に限らず全員の能力をあくまで『不老の力』にしているのは、やっぱり、おれのままなんだ。何ものも一切合切消し去る死の存在があるから、おれたちは生きてることのありがたみも苦しみも知ることができる。死ってものは、ほかの誰かに操作されちゃいけないものだ。絶対に、侵害されてはいけないものだ。それでおれは、お前たちから『自分で判断する機会』を奪うことができなかった」


「たかだかいち小説の、登場人物に過ぎないのに……」


「おれが自分の小説にれていた馬鹿だって、罵ってくれていいよ。でもさ、こうやってお前とかがいざ目のまえにあらわれて、おれの話を聴いてくれているのを見てるうちに、さ。……ああ、馬鹿でよかったなって、思っちまうんだよな、」


 談は、本質的には霧架きりかと大差のない潔白さで言ったのだ。


はなから輪廻のことを網羅してたら、今にこうして話し合うこともできなかっただろうし」


「……ああ。そうだね」


「だから、輪廻。お前とは心中しない。お前がおれに感じているものは、なんでもないただの好奇心だ。お前に新たな可能性を提示できるって魅力しかないおれに、お前の死に方を決めつける権利なんて、ないんだよ」


「そう、か」


 ただの一秒だけ、返答をためらった。

 けれど一秒後に、輪廻はちゃんと返事をしていた。

 彼女はまちがいに気づいた。


「わたしは、いつか君にこのあとの世界をどうするのか、と訊いた。君は、君にはどうすることもできないと言っていたけれど……それは、虚偽なんでしょ」


「違うな。正確には、『どうにかできたところで、どうにもならない』だった」


「『ちぎり』、あれがツユキの意味だろう。これほどまで広漠とした場所のなかで、君の現実的な価値が作用したのはあそこだけ。やはり、君ははじめから君主体の重要度をはなはだしくおとしめていたわけだ」


「何が、言いたい、」


「君が、下層の人間にこだわる理由だよ」


 と、判然たる悪意で、輪廻はその先を濁した。


「そんな君が、わたしを死なせないように、わたしも君を殺さない。けれど同時に、わたしたちは互いの死を認め合って、うながし合う。まさに四条しじょう 霧架きりかの欠いた成分だ」


「あいつは、どうなっていると思う……、」


「『運命論的支配』とやらの見地でか? それは、分からない。けど彼女もまた率直にして、みずからの生死を受けとめ切れなかった者に変わりはない」


「霧架の存在は、この塔の道理にも外の道理にもかなってない。いろいろと不明瞭だ」


「なれば、君が明らかにするしかないな」


「……どうやって?」


「君はこの先、ちぎりによって俗世での価値と言うものを抹消するつもりなのだろ。普遍的な『宝物』の一部に成りおおせて、存在を永世絶えない幸福のなかにうずめるのだろ。そのときのツユキは言ってしまえば、ある種の『絶対的な立場』を手にしたことになる――差し詰め偶然と必然に並ぶ第三の概念だ。君がそうやってこの世を俯瞰ふかんしていれば、おのずと彼女の構成も、塔の行末ゆくすえも、はっきり理解できるのじゃないかな」


「……お前が言ってること、実はかなり無理があるぞ」


「ああ。ご都合主義と言うやつの、それはそれは進退の窮まった意見だ」


「輪廻らしくもない、」と、談が首を振ると「君がわたしのなんたるかを語るな」輪廻は苦笑して当てこすりを言った。


「だが、彼女が幸福に至るためにはそれしかない。君が、模索してやれ。大丈夫、君が退いたあとも、わたしが彼女の面倒を見る」


「へえ、そう。まるで今後の展開を知ってるような口振りだよな、」


「『読める』ようにしたのは、君自身じゃないか」


 空色のくせ毛を跳ねるように揺らして、輪廻は自慢気な顔をしていた。談は、眼下の細指に思わず自分の指を絡ませていた。愛憎入り混じった衝動で。彼女のほうからも力がこめられた。


「わたしは……君を、買いかぶりすぎていたようね。たとえ絶対による救いの宗教とその論旨をつくっていたところで、ツユキもまた、尋常な人間ちょうせんしゃに変わりないと言うことを……わたしは失念していた」


「すると、おれが消えることもまた正式に受領したみたいに聞こえるが……?」


 談がなんとなく気恥ずかしげに声を抑えて言うと、反対にすぐそばの輪廻の呼吸がだんだんと深く穏やかな旋律をかなで始める。


「わたしを誰だと思っている……塔にとっての普遍性だぞ」


「一度『できない』と言ったことを、お前はじ曲げるのか」


「ふ。何も、分かっていないんだな。わたしがこの塔こそを憎み続けていた理由には、最も憎らしいわたし自身を肯定するほかに救済手段がないと言う事実があった。あらがうためにわたしは自分の出生に芯から満足していたふりをずっと継続すべきだと思った。それが、やがて酒場の女主人であると言う自覚によって払拭され。つまり、今、君のように偏屈な男も、あるべき姿の人倫として受けとめることができている。今の、わたしにできぬことはない」


 輪廻は鳥籠のふたを開けはなすように、談の手を自由にさせた。


「もっとも、君との時間が無に帰したあとにもそうである保証は、どこにもないけれどね……」


「でも、輪廻には柔軟さがある。そうだろ? 時代に順応しようとしなくとも別にお前は苦労しないよ」


 と、多少みだれた衣類を正して談は気安くそう言った。輪廻にはどうみても有難ありがた迷惑にしかとることのできない言動だと、恐らく彼が一番理解していたのだろう。二人ともに愛想よく笑んでいるが、どことなく噛み合わないのだ。


「じゃあな」


「ああ……」


 次の瞬間には、もう、彼の爪先は第8階層への決められたルートを辿って行った。輪廻は手を振って見守っていたが、彼が振り返ることはあるはずもなかった。

 のちに、すでに塔ありきのこの世界において露木 談と『亜門ロキ』の価値がそれぞれどうなるのか。今後も言及するべきでないことは分かっている。

 また輪廻・セレスタインのむねは彼に根ざした精神――本質的には、破滅の運命をき込んだ決意――によっていつに満たされていた。もうどうしたことが起ころうとも、それが基礎となって、彼女の言行がなされることは決まり切った未来であった。


「…………」


 決まり切った未来であった。


「君を忘失したあとの、わたしは……ふたたび塔を憎み続けるのだろうな」


 輪廻はこれから起こることについて甘受したのではなく、断じて歓迎していた。


「だが、君の望んだ『リンネ・セレスタイン』とは、そう言う女なのだろ……?」


 彼女の、現世についての二年間の待望はこうして果たされ――不本意な形としてこれからも、繋がっていく。

 それは、今代の管理者として絶対惡ほうもつを執行しつづける四条 霧架と同様に、である。


          ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ◆

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