紀ノ章 エピローグ
累による統治のなされていた塔が、最高管理を
「やあ。ツユキ、
外はねの強い空色の髪の毛は変わらず美しく、ベストとスーツの衣装でくっきりと浮かび上がったボディラインも文句なしに扇情的だった。ただ顔を合わせた当時に比べるとなんとなくくだけた口調になっているうえ、並みならぬ因縁のあった彼に対して「ツユキ」と言うニックネームを使っている点が、気になった。それほど二人の過ごした時間とは、長く色濃いものであったのだろう。
「君の同胞は?」
「家族ができてた。近く、子供をつくりたいそうだ」
「それは……なんとも、言えないわね、」
輪廻は目を伏せた。カウンターに立つ彼女の表情のちょうど見える席に、談は陣取った。
黄土がかった黒髪と同じ色どりの顎髭は輪郭線みたいに広がって、とくに濃い
「元々、塔に関わりのない世界に根ざしてた人間だからな。目に見える幸福ってものはどこにだって転がっている。いや、今後はもっと
「なれば、ツユキが、挑戦者たちの生活をのぞき見するいわれはないのじゃないか?」微温のコーヒーが注がれた同型のカップを二個持って、輪廻が訊ねた。彼のまえにひとつを置いた。
「無分別のまま放置しろってか」
「君は
「それもそうか」
談が素直に肯定すると、輪廻は軽く笑んで、上身を机の仕切りへと垂れた。「君はかたくなだが、同時に相手の意図をねじ曲げようとしない心のひたむきさも備えている。だからどうか否定してやるなよ」
「なあ輪廻。人の言葉遣いが、さ、責任能力に比例している、と、思わないか、」
「それは他人に理解されるために辞書を引く、物書きとしての所感か?」
「どうかね。豊富な
「だとすれば比例するのは責任能力になく、責任感じゃないかな……」
と、輪廻は言って首を横にかたむけた。
「本当に、この時代を選んでよかったのか?」
「塔の原形は観念だ。観念ってものは、他人との意見交換やとある思想体系との出会いでよりよい容姿、より具体的な性質を伴っていくものだろ。大多数に選ばれるために、必要なのは、そう言う変化に対する柔軟さなのさ」
「ツユキ、君が柔軟さを語る分には、どうも信頼性を欠いてしまうよな」
「うるさいよ……」
「ああ。『変化』で思い出したけれど――今度の塔は青く光らないんだね」
すると、談は一瞬おどろいた顔をして、すぐに黒い光沢のある液体を飲み乾してしまった。
「何?」
「どうして、今まで訊かなかった、」
「それは、忘れていたからだよ……」
「そうか」
輪廻の弱々しい態度をそれ以上は追及せず、談は息を整えた。
どうした大仰さかと、彼女は思っていた。
「おれの、憶測が正しければ、まえに青くなったのは『チギリ』と『カサネ』が入れ替わったときだよな?」
「ああ。もう二〇〇年も昔のことだから印象があいまいだが、彼女の死を契機にことが起こったのは確かだ。それに、あのころから
「……さっきも言ったが、塔はあらゆる人間に受け入れられなきゃならない、塔を受け入れられない世のなかになれば、塔自体が広義としての目的とか判断基準を一新する必要が出てくる。『塔の存在意義の変質』って
「変質、とは……彼女の時代から、一体何が変わった?」
「輪廻の推察どおり、『挑戦者の受け入れ方が変わった』。
「それでも、塔の目指す至高は変わってない、」
「『宗教』だって、信じる気持ちだけじゃ成り立たんだろう。『教』えと入っているからには学問だしな、教育の
「そうやってツユキは、一本槍を
「他人には寛容であれ。自我には厳格であれ。ってな?」
「その厳格さを周囲にも押しつけてしまっている張本人とは、思えない発言ね」
「やめてやれ……」
彼の卑屈な顔を見て、ふっと輪廻は目元と口元をほころばせる。そして、無謀にもブラックコーヒーを容器の底が見えるまで飲んだ。勢いがつけば存外いけるものだと勘違いしていた輪廻は、案の定、涙目でえづいてしまった。
「いや、そんなになるくせに、
「分からないっ。物資を仕入れに行くと、そこの人間は大概にワインよりコーヒーを寄越すんだ。気のつくときに飲んでおかないとそのうち、わたしの家はこの泥水に酔わされてしまうだろ、」
「もう酒場の女主人ってより、喫茶店のウェイトレスのが幾分似合うんじゃないのか?」
談に茶化され、輪廻は不機嫌を絵に描いたような面持ちになった。
「……君の、観念が現実になるまではそれでもよかったんだけど。だから、ツユキの理想は二度と叶わない。古塔が摂理に成り下がった時点で、君もまた、挑戦者に格下げされていたのさ」
そのために、彼女からは一切の
「それより気掛かりなのは、二五〇年の周期とやらのことだ。わたしに言わせれば、
「そもそもが、だな、『二五〇年』って数字は最初の
「つまり、今の複雑化した塔の姿は幾つもの時代による価値をそのままに残留させている所為、なのか、」
「そう言うことだな」
「やはり、わたしの解釈は間違っていた。ツユキは神様なんて崇高なものじゃない。君は塔の、名づけ親だ」
「それも、どうだかね。名前なんて決めてないし。生みの親っても育ての親ってもいかないか」
「どのみち、君の知らないところで、この子はちゃんと生きているのさ」
「……ああ。それは、嫌ってほど自覚してるよ、」
はにかみ笑いをして談はそこに座りなおした。
「今日は、泊まって行きなさいよ。あんなカビた場所で眠らずとも、質のいい
「だめだ。霧架が、まったくもって無駄な焼きもちを焼くからな」
「
と、輪廻が顔をしかめる。それを見て困ったように顎を撫でた談は勢い降参と言うように両手を上げて、「ははあ。どうぞ、ご随意に……」嘆息交じりに了承したのであった。
※ ※ ※ ※ ※ ※◆※ ※
また、別の日の夜。第8階層から下りて来た談は、『セレスタイン酒場』を訪れた。
ちょうど、彼は数時間前にある挑戦者の救済されるさまを見とどけたばかりだった。そうと言うのに事々しく気落ちしたようすであり、明らかに不自然に感じられた。
「どうした?」と、一方で待ち受けていた輪廻が飄々として訊いた。「あの子どもが、ぽっくり
「何か、あったのか、」
「あぁ……まあヒステリーと言うか、ひどいときのホームシックかな」
「なんて?」
「おれと、塔に登って来るまえの生活が、恋しいんだと」
「もうしばらく経つものね。彼女も、殺し
呆れ顔の輪廻は手もとの布巾を置くと、カウンターに出てきて大胆に腰掛けた。魅惑の脚線美をこれでもかと掲げて足を組み、立ち
「……でもさ。正直おれのほうも、今じゃ先行き不安で困り果ててる。できたらお前がさ、最上階で、おれのこと殺してくれないか?」
「
輪廻は、彼から目線を逸らした。
「冗談だ。でも、それ以外にはもう塔を下りて外に、出ちまったほうがうまくいくんじゃないかなって考えてるのは、本当のことだ……」
しかしその言葉を聞いたのち、ちらっと横目に彼の顔をのぞき見た。
「なあ、その件なのだが、わたしがともに外へ出るとっ、どうなる……?」
「おれみたいなのから聞かなくても、自分で試してみたことくらいあるだろ、」
「ああ、夢のような経験だった。他人に認識されていない。あれで、ものに触れることさえできていたならば、文句はなかった」
「運命って、信じるか?」
「ふん。わたしがもし信じないと言っても、君は
「分かってるじゃないか」
談も着席し、面と向かって彼女に言葉を
「今、こうして向き合っているおれとお前だが、それは塔の存在のお蔭だ。塔はいつでも普遍的な価値観にもとづいているからどんな論理にも偏らない。よって、二つの『運命論的支配』に属する、おれたちを一つの世界に固着させているんだ」
「待て待て! 詳説もなにも無しに、意味不明な語を足してくるなよ。『運命論的支配』とは、一体なんのことだ、」
「輪廻。お前は『必中必殺の
「また、そのまんまの名前ね……」
「ネーミングを気にしだしたら終いだ」談は短い呼吸でつないだ。「実際のところ、『
「それこそ、運命の存在を裏づけると言いたいのだろう?」
「おれたちが生まれてから死ぬまでの
「君の言い分はわかった。その、走馬燈を覗く力とやらはなぜ、わたしには備わっていない?」
「しかたない、『申し子』の概念さ。二五〇年毎に、その時代の情勢を追憶から汲んでやって塔の意思につなぐ。だから別に力自体なくてもお前が欠陥品だと言うことはないんだよ」
「そう……」
「んで、話をもどすが、運命ってものが人間の自己肯定を生む観念だとすれば事実、管理者は全員『宝物』を
「どうして?」
「お前たちは基本第8階層で挑戦者として殺害されたあと、管理者の素質に目覚めている、自分の生涯をすべて見ても肯定的になれなかった連中だ。でも、むしろそっちのほうが妥当ではあるはずだ。自分が最後まで懸命に生き抜いている姿を見たからって、かならず使命感だとか、命の意義だとかに気づけるかどうか、わからん。それで済めばいいが、最悪『運命論』によって決められた必然性を憎悪することだってあり得るだろう」
重々しい語りを、輪廻はだまって聴いている。
「だから、そうならないため『運命論的支配』は二種類ある。塔外のものと、塔内のもの。前者は塔に入ってくるすべての挑戦者に『宝物』を与えるため、心理的な発達の
「……それは、」
「お前が
「でも、ツユキっ、」
すると、急に苦々しい声を輪廻は張り上げたのだ。
「なら、わたしはこれからどうすればいい?」
つややかな睫毛を悲し気に垂れ、眉を震わせて、食い縛る歯にさらなる力を込めていた。輪廻のそれらは表情とはとれなかった。
無意識のなかから来る衝動のように談は覚えた。
「おれは、霧架に頼んだほうがいいと思う」
淡々と答えた。勿論彼女には激怒され一蹴された。
「君だって、断行しなければいけない状態は一緒のはずだ。もうどうしたって、彼女の優しさによって救われることはない。この塔のなかで、君を助けられるのは今や霧架しか居ない……理解しているでしょ?」
「ああ、」
煮え切らない態度で、髭のさわり心地にただただ集中する談。
「なあ、ツユキ。わたしと
自分の惨めさをどんな言論で示されても、理性に準じ、なおもぎこちないお澄まし顔でいようとする輪廻。
「夢半ばで、満たされずに死ぬ意味では、わたしたちは同志だろ……?」
と、強引に向こうの手を握りしめた。
談の指は伸び切ったまま、いっこうにこの健気な女性の気持ちに応えようとしなかった。
「なあ。ツユキ、わたしは今になって君が『不老の力』に
「すまない」
そうして謝罪すると、輪廻はたまらずに押し黙ってしまった。
やがて掴んでいた手を引っ込めた。
「おれが、輪廻に限らず全員の能力をあくまで『不老の力』にしているのは、やっぱり、おれの
「たかだか
「おれが自分の小説に
談は、本質的には
「
「……ああ。そうだね」
「だから、輪廻。お前とは心中しない。お前がおれに感じているものは、なんでもないただの好奇心だ。お前に新たな可能性を提示できるって魅力しかないおれに、お前の死に方を決めつける権利なんて、ないんだよ」
「そう、か」
ただの一秒だけ、返答をためらった。
けれど一秒後に、輪廻はちゃんと返事をしていた。
彼女はまちがいに気づいた。
「わたしは、いつか君にこのあとの世界をどうするのか、と訊いた。君は、君にはどうすることもできないと言っていたけれど……それは、虚偽なんでしょ」
「違うな。正確には、『どうにかできたところで、どうにもならない』だった」
「『
「何が、言いたい、」
「君が、下層の人間にこだわる理由だよ」
と、判然たる悪意で、輪廻はその先を濁した。
「そんな君が、わたしを死なせないように、わたしも君を殺さない。けれど同時に、わたしたちは互いの死を認め合って、うながし合う。まさに
「あいつは、どうなっていると思う……、」
「『運命論的支配』とやらの見地でか? それは、分からない。けど彼女もまた率直にして、みずからの生死を受けとめ切れなかった者に変わりはない」
「霧架の存在は、この塔の道理にも外の道理にも
「なれば、君が明らかにするしかないな」
「……どうやって?」
「君はこの先、
「……お前が言ってること、実はかなり無理があるぞ」
「ああ。ご都合主義と言うやつの、それはそれは進退の窮まった意見だ」
「輪廻らしくもない、」と、談が首を振ると「君がわたしの
「だが、彼女が幸福に至るためにはそれしかない。君が、模索してやれ。大丈夫、君が退いたあとも、わたしが彼女の面倒を見る」
「へえ、そう。まるで今後の展開を知ってるような口振りだよな、」
「『読める』ようにしたのは、君自身じゃないか」
空色のくせ毛を跳ねるように揺らして、輪廻は自慢気な顔をしていた。談は、眼下の細指に思わず自分の指を絡ませていた。愛憎入り混じった衝動で。彼女のほうからも力がこめられた。
「わたしは……君を、買いかぶりすぎていたようね。たとえ絶対による救いの宗教とその論旨をつくっていたところで、ツユキもまた、尋常な
「すると、おれが消えることもまた正式に受領したみたいに聞こえるが……?」
談がなんとなく気恥ずかしげに声を抑えて言うと、反対にすぐそばの輪廻の呼吸がだんだんと深く穏やかな旋律をかなで始める。
「わたしを誰だと思っている……塔にとっての普遍性だぞ」
「一度『できない』と言ったことを、お前は
「ふ。何も、分かっていないんだな。わたしがこの塔こそを憎み続けていた理由には、最も憎らしいわたし自身を肯定するほかに救済手段がないと言う事実があった。
輪廻は鳥籠の
「もっとも、君との時間が無に帰したあとにもそうである保証は、どこにもないけれどね……」
「でも、輪廻には柔軟さがある。そうだろ? 時代に順応しようとしなくとも別にお前は苦労しないよ」
と、多少みだれた衣類を正して談は気安くそう言った。輪廻にはどうみても
「じゃあな」
「ああ……」
次の瞬間には、もう、彼の爪先は第8階層への決められたルートを辿って行った。輪廻は手を振って見守っていたが、彼が振り返ることはあるはずもなかった。
のちに、すでに塔ありきのこの世界において露木 談と『亜門ロキ』の価値がそれぞれどうなるのか。今後も言及するべきでないことは分かっている。
また輪廻・セレスタインのむねは彼に根ざした精神――本質的には、破滅の運命を
「…………」
決まり切った未来であった。
「君を忘失したあとの、わたしは……ふたたび塔を憎み続けるのだろうな」
輪廻はこれから起こることについて甘受したのではなく、断じて歓迎していた。
「だが、君の望んだ『リンネ・セレスタイン』とは、そう言う女なのだろ……?」
彼女の、現世についての二年間の待望はこうして果たされ――不本意な形としてこれからも、繋がっていく。
それは、今代の管理者として
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ◆
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