纏ノ章 五日目

 五日目。

 その足裏はついに第8階層を踏みしめていた。と言うのも、じつは彼女と別れた同じ日に、試練を果たし、休憩場にたどり着くとそのまま、倒れ込むようにして眠ってしまったのである。秀継ひでつぐの目的とはつまりそこを「最後のピリオド」に定めていた。

 事実、現在地とは古塔の最上階。けれど一切、登り切ったと言う感覚がないことは、やはり、自然世界の理をねっ返さん無機質な構造の所為だろうか。何かが終わる実感さえ、彼のてのひらの上にはまったく無いわけであった。

 螺旋階段の先は、それで、名前どおりの試練場のはずなのに、どうして迷路の形をしていなかったのだ。

 秀継は今や、実感よりもっと高位の悟りについて理解していた。思い出しもした。ここでの「宝物ほうもつ」と言う呼名が、執行される儀式そのものを示しているのだと、そんな誰かの忠言を。だからごうごう、うなるようにたいて木材を破裂させる勢いのともりと、人跡ばかりつのった虚無空間とは、儀式をおこすための必要に違いない。憶測にやがて根拠と論証がまつわりついた。

 秀継は道理で能動的に、その正円の中心に向かって、歩き出していた。

 場所はつねに一基の篝火かがりびの明るさで満たされていた。


「ねえ、」


 十二分に酸素はあるのだ。臆することなく、そして、知的にだれかの声はひびき広がったはずだ。


「面白いはなしがあるの。聴いてちょうだい」


 とても、幼かった。いや舌足らずなばかりではない。それこそ一〇才じっさいの少女が、大人に話し掛けたくても、歳柄すなおには甘えられず、勿体つけた言い方しか許せない。ほんとうのところは定かではないが、これに類する情緒を、声の主はちょうど使いこなれているようすだった。

 そして彼女は遠くで、背凭れが高くそびえた大きな椅子の上に、枯葉色の襤褸ぼろ切れにくるまり、小さくなって座っている。頭髪は珊瑚のように鮮やかな青にきらめいていたが、秀継の足を止めるほどの、惨めさと言ったらほかに無かった。


「わたしと、女給じょきゅうさんが居てね。二人で洋服の話をしたわ。『どうして、女給さんは着替えないの?』ってわたしが訊いたら、女給さんは『汗が、出ないもの。においも出ないもの』って言った。でもわたしは、ほんとは着替えようと思わない理由が知りたかったから、女給さんに『同じ服は嫌にならない?』と言ったの。女給さんは『滅多に着れないものに囲まれてるほうが辟易へきえきする。大事なのは、どこで一つ何を着るべきなのか、なんだよ』って答えて、ね。おかしいよね。やるべきことって、結局はやりたいことなのに。わたしは『そう』って、『じゃあ、ここでわたしの着るべきお洋服を、作ってくれませんか』って、意趣返しに言ったわ。女給さんは喜んでいたんだけどね、」


「――その話は、オチがあるのか?」


 秀継はそうと告げてやらないことを我慢できなかった。


「結果論じゃ、何も救われないんだよ?」


「違う。結果論しか、何者も救えない」


「あなたも、おかしなことを言うのね……」


「人の生んだ過程には、意味があると思う。でも、ここは『価値の領域』だ。価値による価値はあっても、意味による価値があるはずがない。君は、本当にそう言われなきゃわからない人間なの?」


 秀継は示して見せた。再開し、すぐ歩調をとり戻した両足のなきごえにもおのずと力が入る。もはや自分の立場をためらうことはない。彼は確かに、目的と、それに相応しい論理を備えて、現に至って居るわけなのだから。

 そこの少女は座りなおした。一瞬、見えたけれども、径部の辺りから下まで何も履いていなかった。目に焼きついた、真っちろいふとももの肉感と、素足であるのがその実証だった。


「女給さんね! こんな、意味の分からないこと、吹き込んだの。そうなんでしょっ。とおさないでって言ってたのに。言っておくけど、わたしは何がなんでも応対しないから!」


 と、ふんぞり返り、不満顔からの一言。局部が覗かれようともお構いなしに股をひらいて、ほそやかな二脚を組むと正真正銘、そこの椅子は玉座然とした見映えになったのである。「ボクはいちおう男性なのだけど、」今日、さすがの秀継が指摘するほどの事態だった。つまり、少女が彼の股ぐらの様相を把握して、それでもなお体勢をあらためないことにも予測がついていた。


「それで? あなたはどうして来たの?」


「決まっている、タカラモノの授受を、」


「あなた……『宝物たからもの』って、どう言う因果か、知ってるの?」


 彼女の怪訝な顔つきに変わりなどない。ただ、立場であることを正当に、主観としてとらえられているからか、発言は意図せず自信に満ち満ちたものだ。


「あれは、『人間の同類殺しを正当化するための小細工』、それでわたしは『その被害者』、なんだよ? ここはみんなの死を蒐集しゅうしゅうでもしてるのかな? ってとにかく。ほんと、なんのためにやってるのかなあ、って……」


「正体は、なんだっていい。ただボクは、君の言ったとおり、目指すべくして目指しただけだ」


「何をっ!」彼女は食ってかかる。「願いが、誰かの願いが、もしボクたちの生きて死を選べる環境のための土台になってくれていたら、そこに意義はかならずある。あり続ける」「顔も名前も、その人の事情だってよく知らないのにっ、寿命をうばっていいはずがない! わたしがそれをやんなきゃいけないってこともないっ!」


「君は、唯一、ボクたちの『世界一』を汲み取ってくれる存在、なんだ!」


「え、」


 秀継が叫んだ。彼女は、よく分かっていないようだった。

 その胸のなかの温もりは、まだ幽かに残っていた。

 今でさえ、赤裸々な彼女のてのひらに欠けていたもの。


「全部、伝え切れない、」


 秀継は髪の一本一本がしかと見えるくらい振り乱して、するどく尖った歯をだ液とこすり合わせて。どれだけ痛々しくまずに映ろうともいとわず、ありったけの情感をしぼり上げた。


「けど……君にしか、ここで果たせない何かがあるんだ」


 塔の頂きを一度は夢見た人たち。そのなかでどれだけの数、死に絶えたり、理不尽に挫かれたり、光を失えたりしたことか。秀継の踏みにじって来た大地に、一体何十何百の遺影が溶け込んでいることだろう。――なんて、分かりようもなければ、わかる価値もない話だ。人間の無力さは嫌と言うほど説かれてきた。今にここまでのショウセツを撤回して、ひらかれた幸福と人情味に燦爛さんらんとかがやくオールマイティ・ハッピーエンディングへしゃれこもうなど、考えられまいし。通暁した人間がいうまえにどこかの中年が指摘してしまったが、「塔」は何に対してでも有効かつ絶対的な「見えない」ルールをはらんで、ようはつねに挑戦者に道標のない道程を歩ませようと図るわけだ。なお、それは観念として、前述にある「何十何百の遺影」と同じとなる。存在の経験どころか結末さえ、あらわれることはない。

 では『何か』とは何か?

 ひと手間加え損ねただけで『無為の幻想』と成り果てる、そんな観念が、塔の主義のほかに何か、無かっただろうか?


「君になら、絶対にそれができる」


 断言すると、彼女はまた不思議そうな表情を浮かべたのだ。


「あなたは、どうしてわたしにひどいこと言うの? わたしに、人殺しをさせようとするの?」


「君の行為は人殺しにはならない。あの人は君に、人殺しをさせないために、ここへ居るよう言っていた」


「ただ縛りつけてただけじゃない。それだけじゃないわ。わたしに何度も、人を殺す瞬間を見せつけたの。あなたも、それが『宝物』だった、って言うんでしょ? なら女給さんは、自分でできることを、わざとわたしにさせようとしたんだっ。わたしを、人殺しの塔のトップにでもするつもりだったんだ!」


 そして、もはや顔色も分からなくなるほど垂れ落ちた前髪、頭頂部付近のくせ毛を、激しく掻きむしって苦悶した。彼女はどうしても、これを非常識の範疇だと決めつけてしまっている。現時点での心理はあまりに不確かだ。


 完全に膠着こうちゃくした、と、そうした折に秀継は、玉座の段の下に落ちているものに気がつき、拾おうとして近寄った。「来ないでよっ!」と拒絶の言葉も、無視をつらぬいて、そこにあった刀身の幅広なナイフを手にした。手入れのおろそかになって錆びついた姿には、ただそれだけでなく、砕けた木炭のような粉末がすみずみに見られ、斑模様を描いていた。つかの左右に飛び出たとげ状の意匠も、どうしてか先が曲がったままになっていた。


「これは、何?」秀継は手先にのばして訊いた。「……わたしが、死ぬために、あの人からもらったもので」少し尻込みをして、引きつった声音ではあるが、彼女はちゃんと答えてくれた。「君は、死にたかったの?」「そ、そうよ」「それでは、だめ。君は、塔を理解しようとしないまま、死のうとしているのか」眼下の黒錆に目を遣りつつも、彼は強いこだわりを口にしていた。


「あなた、何がしたいの、」


「なんでもない。ただ、結局君も、いつかにここのタカラモノを目指して登って来た、挑戦者の一人だと言うこと」


「あなたが、わたしの何を知ってるって、」


「何も知らなくていい。……それは、君がいちばんよく分かっていることだ」


「っ、どう、して、あなたのほうが知ってるみたいに!」


 とっさに立ち上がった彼女は、そのまますぐに玉座を駆け下りてきた。

 瞬間、小柄ではかなげな四肢と乱れた青紫の髪の美しさが、鼻先までせまる。もはや羽織っていた布とは無用の長物。目を覆うことさえ忘れてしまえる、清麗で少女的な肉体が露呈していた。


「あなたは、最上階ここのなかでうまれたばかりの人間に、他人ひとを幸せにする責任を背負えって言ってるのよっ?」


「分かっている」


「だったら、なんで?」


「――この第8階層に居る、今の君こそが証明している。君は好奇心と類いまれな素質だけで登って来た誰かとはちがう。塔が、確かに選びった『一人』だから」


「そんな、」「納得いかない? なら、これから登りなおせばいい。自分の解釈をまた、練りなおせばいい。いや、そうでないと、君は満足に死ぬこともできないかもしれない、」秀継は言った。「……死生観きおくが、無いんでしょ?」その、言動から見抜いていたのだ。「名前は?」「カサネ、よ」「カサネ。ボクは、もうきわまってしまっている。君のように自分探しをもうする必要がない。それは、つまり、」彼女のくずれかけの襤褸を正してやって、濁すように言った。どうしても彼女に悟らせたかった。「わたしで、いいの?」


 こちらの想像しないどれだけの時間、ひた隠しにされていた主体性。本質と、本音は、じつに大差がなくて、そんなに下らない一言で収まり切ってしまうような陳腐さだったけれど、


「違う。誰もが君に、心を寄せたかった。カサネ、」


 まことのことわりに随分と近づいた秀継には、いやに、それでも正義なのじゃないかと思われていた。道理で彼女はみなに、深く慕われていたわけだ。


「君からの褒美ほうびで、ボクは、幸せになりたい」


 だから、彼女の手で、いざなわれるべきであると願った。

 『世界一の幸福のへ』。


「ありがとう……わたし(カサネ)を、受け入れてくれて」正しい言葉で、みとめてくれて。彼女は、おそるおそると言う感じで秀継からそのナイフを受けとった。「離れて?」合図を聞いて、秀継がすなおに後方三メートルまで下がっていった。


「さいごに、訊いておきたいことがあるの」


 右手に刃物、左手にほこりまみれで穴の開いた一枚布を握って、けれども彼女の視線は一直線に向いている。


「何?」


「これは、ほんとうに、あなたにとっての最期?」


「――――」


 はじめて、秀継は答えなかった。応対さえままならなかった。

 やはり彼女が最終階層に待っていたことは公正だろうと強くおもった。


「行くわ。カサネはもう行くわ。じゃあねっ」


 とたんに骨太の柄を強く持ち、頭上へと振り上げた。これが投擲とうてきされ、秀継の中心へ、飛来するのにさほど時間は掛からず。それでいて終始打ち落とされてもおかしくない速度を保ちながら、果たして正確に彼の胸部を刺しつらぬこうとこころみていた。

 そこで秀継が、やいばにつらぬかれることはどうして、無かった。彼女の笑みをたたえた顔ばかり視認できた。

 代わりに、薄まった意識とで、ほんのささいな「ユメ」をみることになったのだ。


                        ◆


 おだやかな日光に照らされた、窓の多い部屋のなか。まだ、椅子へ座ると床に足もつけられなくなるような幼齢の秀継は、家庭教師のいない時間をみはからい、鉛筆をいて絵本にかじりついていた。「調子はどう?」

 

 声がした。それに、自分と大差のない高さで、なんとなくみょうな気分になった。


「愛美、」


「おねえちゃん、でしょ……あ。でも、今は先生いないのね。じゃあゆるします!」


「愛美、ここ、ヘン」「ん?」横から顔を覗かせた姉に、秀継は何度も指さしで絵本のそれを見せていた。「お化けが、どうしたの?」「空想なのに、ものを動かしてる」「ひぃちゃんは、お化け、見たことない?」姉に訊ねられると、どうしてか浮かない表情になった。「図鑑にものってないんだ。ボクには、お化けが見えないんだ」「そうね。でも人って、『見えないもの』を描いたりするのが好きだわ。いつか見えるようになったらすてきねっ、て。だからひぃちゃんも、お化けを信じていたって、いいのよ?」「そう、」そういって撫でてもらった。


「ひぃちゃん、」


 ところ変わって、そこは、どこかの小学校の廊下になる。髪の長い子供が、濃紺のスクール水着を着て、立ちつくしていた。それは一見「愛美」のようにも思われた、しかし、あとからやって来た、新品のシャツにスカートを履いた少女こそが「愛美」だったから、今の女子用水着の誰かは秀継しか居なくなった。


「どうして、ここにいるの?」と、姉はおとうとに言った。


「今日は、愛美がプールの授業だって、お母さんにきいた」


「それにしたって、」秀継の頭から足の先を眺める。明らかに、その授業に参加したあとなのだ。おもわず漏らしてしまったと言い訳するほうがまだ賢明と思えた。とは言え、もとから秀継は学校に在籍していないのだけど。「ひぃちゃんは、男の子なんだよっ? そんなの着ちゃ、だめ!」「愛美、怒ってる?」「……怒ってないから。だめって言っただけ」


 どうして、こんなことを、と問いただすまでもなかった。


「ボクも、プールに入ってみたかったの」


「じゃあ、お姉ちゃんと一緒に行きたいってとおさんにっ、言ってればよかったのに、」


「学校のみんなとも、もっと話がしたかったの」


 すると、「だめっ!」さっきより大きな声で、彼女は秀継をしかった。「ひぃちゃんはもう、髪切るのっ!」それから、二人で職員室に行った。翌朝、秀継がずっと伸ばしていた黒艶の、ゆたかな毛髪は無残なシャギーカットに成り果てていた。


 また、一瞬にして時が流れた。

 彼が一四歳になった夏、せみが鳴いて、地面の陽炎が揺れて、雲が晴れて、廃墟になった屋敷。あめみやの門構えはすっかりすたれてしまった。


「ここに居たの?」


 いや、少なくともそれ以降の夏の景色か。入り門でぼうっとしている秀継に、貴族風の婦人帽でやって来たのは彼女である。強風のうえ、からっと晴れた日のことだったから、ひろびろしたつばの部分と青の服の下を押さえるので手一杯のように見えた。


「もう別に、持っていく荷物もないでしょ?」


「ないよ」


「じゃあ、どうして?」


「ボクこそ、愛美の重荷おもにになっている気がした」


 秀継は肩にかかる、切り揃えた横髪を撫でつけたり指の腹でこすったりしながら、答えていた。

 まさしく、塔を訪れる三年前の姿であった。


「あのときのボクには価値があった。愛美と一緒にいる価値が、あった。でも今はなんの役にも立っていない。持っていくべきものは、だから荷物じゃないけど、まだここにるんだ」


「役に立つ、って、具体的にひぃちゃんはどうしたいの?」


 若干距離に居る「愛美」は悲しそうだった。


「……ひぃちゃんは、昔からなんにも変わってないんだよ。ひぃちゃんは善くもないけど、悪くも、変わってない。ずっとお姉ちゃんのなかで、大切なままよ」


 見慣れた笑顔をつくっていた。いつにも目元がどうもこわばって、嬉しがるときさえ涙をこらえているように周りには映ってしまう、そんなへたくそな笑顔。秀継の安心、故郷の象徴。「そう、」納得はしないが、返事をした。頭を撫でられることはもうなかった。


 やがて、二人の生活の拠点は、外の配管の剝き出しになった格安アパートへと変貌した。一時的にはいっていた施設のほうがまだ居心地よかった。しかし、同じ屋根の下に「愛美」がいて、毎日言葉を交えることができる分にだけ、秀継の評価はぼろ家に傾いていたのだ。

 貧相な暮らしは、そして一年を迎えたようだった。


 二人は炬燵こたつから毛布を抜いただけのテーブルに、膝を突き合わせて座って、小さな鍋を共有していた。「仕事はどうなの?」と、はじめに話題を振ったのは秀継だった。


「うまくいってるよ。ただ、お客さんのご機嫌を損ねないようにって考えてると、すごく疲れちゃって」彼女は乾いたくちびるを強く拭ってから言う。「今は、ひぃちゃんに癒されてるなあ……」


「料理はどう?」


「うん。すっごく、おいしい」


「そう。でも、もう少し緑じゃないいろどりがあると、よかった」手元のわんのなかには菜葉や根菜ばかりが積もっていった。


「野菜のほかにもらえないか、と、訊いておいてほしい」


「無理よ、お客さんだって厚意で持って来てくれてるんだから」「ならスーパーで、」「それも嫌」「なんで」「それは……人が多いの、きらいだし、」「分かった。ボクが買ってくる」「ひぃちゃん、お買い物できたの!」と、「愛美」はおどろきを隠せず大声を上げた。


 その日以降、秀継が足りない食材を買いにでかけるようになり、生活費はさらにかさんだ。彼女の帰宅はもっと遅く、明け方になることが増えていた。ストレスの累積も日に日に表面化する。そのなかで、秀継は彼女の「変化」を、どうしてか見逃してしまっていた。

 ある、夜の出来事。

 居間に眠っていた秀継の布団に、帰ったばかりの彼女が入り込んできた。みょうに薄着で、汗にしとど濡れて、それで発育の悪いからだり寄せてきたのだ。


「何?」


 秀継も起きていた。


「殴られたの」


 振り向くと、確かに左目の下に大きな青痣あおあざができていた。じつはまえにも同じようなことがあった。あのときの彼女は「痛くないよ」と笑い飛ばしていたが。初めて、秀継は彼女から弱音とよべるものを聞いた。


「反応が悪いっ、て。気味悪いっ、て。首を絞められたよ。怖かったよ! 全然苦しく感じない、自分が怖かった! ほんとに、あたし、役立たずの人形になっちゃったよ……」


 秀継の、自分と似たような顔が目のまえで、いまにも泣き出しそうになっているさまを客観視している気分は、ひととおりではなかっただろう。


「つらいの?」


 秀継は訊いた。「愛美」は無言でうなずいていた。


「そう。なら、辞めたらいい」


「でもっ! そしたらひぃちゃんのこと、養えないんだよ……」


「ボクは、愛美と一緒ならそれでいい。何日、食べられなくても、一度切り愛美と同じものが食べられたら、それで」


 『きょうだい』とは、そう言うものか――。

 間もなく、彼女はこれまでの職場と縁を切って、さんざ嫌がっていたスーパーマーケットのパートタイム勤務に就いた。当然に収入はぐんと下がり、一日一食の過酷な暮らしを強いられた。ほんとうに秀継はそれに何も言わないでしたがった。彼女に、けして働かせてはもらえなかったから、そうするほかに協力の仕方が分からなかった。

 周りの環境が劇的に変わって、すぐのころ、二人の家は二年目を迎えた。また鍋をはさんで、くだらない話で盛り上がった。「愛美」にはまえのような笑顔が戻っていた。


「ひぃちゃん。ごめんね、学校とか、行かせてあげられなくって」


「ボクが行かないだけのこと」


「通いたいとは、思わない?」


 一方で、申し訳なさそうな感じにも思えた。


「むかし、ひぃちゃんが、ほら、わたしの小学校に不法侵入して……スク水で、代わりに授業受けてたことあったよね! だからっね、もっとみんなと仲良くなりたいな、とか、」「その、必要はない」と、秀継は重々しく言い切った。


「だって、今の愛美との距離感せいかつを、ボクは気に入ってるから」箸の末端で鶏つみれを突っつきながら、「だいじょうぶ、」にわかに安堵の表情を浮かべたのだ。


「そっか。それでね、ひぃちゃん」


「何?」


「わたしね、このあいだからまたまえの仕事場に戻ったんだ」


「そう。だいじょうぶ?」


「大丈夫じゃないのは、今に始まったことじゃないんだけどね……はは。まあ、でもね、今度は続けられそう。お給料も、お客さんが弾んでくれるからね」


「愛美はどうして、おカネにこだわるの?」「どうひて、って、どうして?」これまで追想のなかで、彼女のとった行動と言う行動はどれも突飛で、目的の分からないものばかりだった。年頃の二人が、世の体面を気にするようなことはないにしても手狭な賃貸物件に暮らし、食事はもらいものの野菜と、同情した管理人から毎月渡される玄米のみ、特別ぜいたくもしないで休日に寄り添えるだけでシアワセを噛みしめている。誰が見てもおかしなことは明白なのだ。


「ボクたちに、おカネなんて必要ないのに」


 一体、これまで彼女のかき集めてきたカネは、どこに消えていった。秀継はそれを知りたいだけである。


 と、「愛美」は噴き出していた。「いやよ、ひぃちゃん。今は、おカネが無いと、生きていけないわ」


 でも、と秀継は。


「ふふっ。じつはね、内緒にしてたけど、全部銀行にあずけてあるの! いつか、ひぃちゃんの『ユメ』のためにおカネが必要だってなって、それで、足りなかったら悲しいでしょ? わたしは、いいんだよ? あなたのためにかせいでいるの。そのいつかは、かならずやって来るんだから」


 このときの秀継には、それの意味を汲みとろうなんて気は更々なかった。だが今は、ごまかすために、たばかっていることを悟られないために、身を乗りだして、大きくなった彼女の頭を撫で回した。彼女はくすぐったそうに、上のてのひらを受け入れてくれていた。


 だから秀継も、その『いつか』に、差し出された手を手で包み込んだ。いつも蒼白なさまで居ながら健康的だった肌のところどころは、目を覆いたくなるほどに痩せこけて、まだ二〇代と思えない筋の立ち方をしていた。あろうことか職場復帰を果たして、一年と経たずこの姿に成りおおせてしまった。今の彼女は、「愛美」としての価値を失う寸前なのだ。「ひぃちゃん、」そう。なんの変哲もなく、おんなじひびきだ。ただ声の張りと言うかはきはきした感じはもうしんでいたけれど。


「ひぃちゃん。そこの、机の引きだし、開けてみて……?」「あとで開けてみる」秀継は顔色一つ変えずに即答した。


「そっか。もう、起き上がるのとかだるいんだよね。ごはんも、いいよ。ひぃちゃんが食べてるとこ、見てるから」


「そうはいかない」


 秀継は立って、すぐに謹製のおじやあたりを持ってもどってきた。そして、ほんの少しずつではあるが、彼女の口へと栄養を運んだ。そうすると、なんだかんだ言っても嬉しそうに飲み込んでくれていた。


「ごはんって、おいしいよね。ひぃちゃんが作ってくれたんだもん。おいしいに、決まってる」


 食後、天井を見つめながら彼女の言ったことだ。

 同日の陽の落ち切ったころあい、二二時を過ぎると、彼女はもう目覚めなくなっていた。

 頭を何度も垂れて眠そうにしていた秀継はとたん、部屋着から外出用の服によそおいをあらためて(姿見のまえにポーズをとる。「出来の悪いかがみだ」とつぶやいていた。)、言われた場所の引きだしから彼女名義の通帳を取ると、家を飛び出した。その刻限には街灯以外のともりがないこと、人目が少ないことだけは分かっていた。だから胸を張り堂々としてまっすぐ約五〇〇メートル、最近建てられたばかりの小奇麗で治安のよさげなコンビニに向かった。

 赤いATMに任せて画面をひらき、『ボクらの記念すべき日』を入力する。すぐに案内が現れた。預金残高は先頭の二を除いてほかにぜろばかりだったので、引き出しの限度額にとどめておいた。手元の札束で、売れ残った四本入りのカロリーメイトを種類も見ずに購入した。

 さいごの行き先、それは東京の辺境で、展望が格別とされる有名な高台であった。

 いやもはやここは東京都にないのかもしれない。その一人の少年はカロリーメイトを容赦なく頬張っていた。そして、急角度の崖のようなところに臨する木の柵にどっと寄り掛かって、足を何度もぶらぶらさせていた。顏はそれでも絵画的な仏頂面なのだ。


『ここが、幸福の在り処――、』


 なんてことない常套じょうとうの絶勝。どの誰にでも認められる、確かにタカラモノかもしれない。でも、世界一じゃない。幸福の真理にもほど遠いだろう。


『いや。ここじゃない、』


 なんのための追想か……。なんのための試練だったのか……。

 考えて、考えて、考えて考えて考えてみて。けれどやっぱりそれらは、どうやっても「眺めてみること」には敵わない。

 価値観とは、幸福とは、生死とは、いつでも絶対に客体的であったろう。

 何も、彼は変わってなど居ない。ただ自分が変わらずに続けてきたこと、それを、当たりまえのように誇れるようになるための儀式が、そうだっただけだ。


『ちりばめられた実像。あらわれようとこころみた虚像』


 つまり、憶測と真理が、


『ボクの「世界一」なんだ』


 繋がった。

 そこで、一七年間に決着がついた。秀継はかねてからの計画どおりに下まで、飛び降りることができたのだ。


          ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

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