纏ノ章 四日目

 四日目。

 さいしょの目覚めは、「オニックス」にある墓地のすぐそばで。寝耳に水、ならぬ寝顔に水を受けて起き上がった秀継ひでつぐへ、墓守りの男は早朝の水撒きだと無情に告げた。それからどうして追いやられるみたいにまた試練場まで登って来たのだ。

 ついに、子供のかげの一匹にさえも遭遇することなく、もとの第5階層上へ舞い戻っていた。

 その休憩場らしき跡地は、呆れるほど静かだった。いや、「跡地」なのだから人間の気配とか存在を確かに思えるのだが、何しろ、生気の薄い(壁のへりで座り込んだ)男ただ一人しか見当たらないので、まったく、場所の断定ができない状態次第である。

 手掛かりは無かったものの、揺るぐことのない階段とはとうに見つかっていたので、焦らずに済んでいた。ただし、詰まるところの場所に対する興味は消えてなどくれなかった、秀継は、憮然ぶぜんとしながらもうずくまった男に話を聞こうと決めた。

 男は、くたびれ切って黄ばんだワイシャツを着、腰で濃紺のダメージジーンズを履いており、青白い顎と縦長の人相から年齢は三〇前半あたりだと推測できた。そして近づき言葉をうながすとすぐに、ひ弱な声で絹井きぬい 望夢のぞむと名乗ったのであった。


          ※ ※ ※ ※ ※◆※ ※ ※


「そう。望夢は、」


「……あの、どちらですか。てか呼び捨て、」


「望夢は、」


「ああっもう……いいよ。だから?」


「ここが、どういう場所なのか知らない?」


「知らないよ……。知るわけない。知ってるほうがおかしいでしょうに、」


「――質問を理解してない?」秀継は真横に向かって小首をかしげた。それは意図せず、相手に媚びるような意味合いに見えていた。変わらない愛嬌と鉄面皮をぴくりともさせずに、彼はまた正面を切って、「この、何もない場所。なんのためにあって、名前はなんて言うのか、いているの」それは、無邪気そうに言った。


 望夢はやっとこちらを見て、破顔しながら答えた。「あ、ああぁ、そうかい。いや、ぼくも来たばっかりなもので。つい、警戒してて……ごめん君も悪気は無かったんだよね、」


 彼は、自分の目のまえに立つ一人の「可憐な少女」を眺めていた。白磁のようにかがやく儚げな両肩に、緑の筋も映えるなめらかな手先、尻、どこでもかならず露出が目につく大胆さを覚えた。同時にやはり一人で自立する内的強さのようなものも、そこはかとなく、感じとっていた。それだから彼はなおさら気落ちして、その場を動こうとする意欲も、侠気も、今だに見いだせないままであるのだ。


「あの、君は……」


雨宮あめみや 秀継」


「ええぇ、男の子っ!」


「望夢はここで何しているの?」


 もはや秀継はおそれ、と言うよりも相手を考慮する心が欠けているみたいだった。

 長いまつ毛を素早く、何度も上下させて、むしろ応対を迫るようすであろうか。望夢は不精髭をてのひらで擦りつける動作から、それで明らかに申し訳ない態度を示していた。


「えっ、と、久しぶりの休暇で集まれた同僚とかと飲んでて、それで酔って、気がついたらここに、」


「それだけ?」


「……それだけだよ」


 秀継はあ然とするしかなかった。


「あの君は、本当にこのそとから来た子なのか?」


 望夢は不安そうな顔つきだ。無理もない。意識のはっきりしないあいだに得体の知れない場所に立ち入って、ほんの一瞬安堵できたと思えば、それとはすぐにまた懐疑と焦りに崩れて。このさき自分がどうなってしまうのか、判断する術もない。何も手に持ち得ないから、そしてひとりでに孤独に、不安がって居るしかなかった。今の言葉こそ彼の、乱れた心中をあらわしていた。

 だが、その少年には分かるはずもなかった。伝わりようもなかった。なぜなら彼は現に、間接的で観念的ではあるものの、塔との関わりを肯定し、さらに自身からも関わろうと断固決めてしまったはずだから。かの勇姿をもちかえり、別離を経てもかならず上の階層を登ろうと言う、彼は率直な意思を抱いていたのである。


 つまり、その相違点は明白だ。「望夢は、真理のために『今の幸福』を差し出せる。そう言う人間?」一見して無表情だが、確かに、みとめられない他をとかくいやしめようとする秀継の冷血な瞳は、それへの不信感を隠そうともしていなかったのだ。


「いやあ。あいにく、ぼくは学者肌じゃなかったんだ」反対に望夢は、暗い天井のほうに顔を逸らせて、まともにとり合おうとはしない。「無駄な起伏のないジンセイ、ってのかな。今が幸福なら、それで万歳じゃない。面倒を押しつけられるのなら、会社の使えない派遣(社員)だけでいいって! そうなんだよなあ。有り体に暮らせるくらいの稼ぎで、酒にはちょっとしたこだわりがあり、人づき合いも適度にこなして……毎日幸せ噛みしめて。幸せって、そう言うものじゃないかな? おんなじルーティンのなかに、たまに垣間見る特別感とかたのしみ、それがあるだけでその日が華やいで。ものごとの深奥、ってのでもそれはきっと魅力的なんだと思うけどさ、君みたいな若い子は、まあ、あんまり思い詰めないほうがいいよ?」


「そう。望夢は、それだけ?」


「え、」舌尖のすさまじかったはずの彼は、とたん神妙そうに訊き返した。


「ここがなんの『とう』なのか。知らないのならボクはもう行く、けれど、今に知りたいと思うのなら、それは――絶対に人間のぞむの、すべて、『知っている幸せ』を凌駕する」


 このまだ青く、紅顔の、少年が何を述べ立てたのか、理解しようにも無理だった。望夢にはかなわなかった。おもわずそこで固まってしまって居た。


「どうしたいの?」


 かくて、細長い指を掴まされた。掴まえた自分は、向こうの折れそうな手先に、両腕で縋りついていたのだ。


「……そう。でも、案内じゃない。道が一緒なだけ。真理に手が届いたら、そのとき、どっちがタカラモノにふさわしいか決めよう」


 今一度、望夢には彼が「可憐な少女」のようにはっきり視認されただろう。


「わ、わかったよ……それじゃっ、」


 と、言って、立ち上がるとその身長が優に一八〇センチを越していたことに、「可憐な少女」もギョっとした表情をつくった。


「男らしい……」


「そうかい? 君だってまだ、成長期じゃない」


「ううん、」


 初対面であるのに、まるで兄と弟(いや妹か、)のような体格さに、どうしても納得がいかず秀継は不満をていしている。もはや、望夢の顔とは向き合おうとしない。つむじを見せながら、


「別に、背が高いことがうらやましいわけじゃない。ただ、望夢と比較すると、ボクは本当に自分のことを女性に錯覚するんじゃないか、って」


「そう言うものかい……」


 少ししてから彼らは、未知の第6階層へ立ち入った。これまでの試練に比べて松明たいまつのともりが乏しく、また、足元に不気味な色のきりと言うかけむりが充満する場所だった。しかし二人ともに確固とした歩調を取って、順路に向かうのだった。


「君は、からだの不自由な人間をどう思う?」


 望夢の問いかけである。

 まえに見定めたままの秀継は、頬に触れた長髪の毛先をなめすみたいにいじくりながら、「どうして?」と疑問符を浮かべた。


「ぼくはね、神奈川のちょっとしたところで働いていたんだ。別にそれが理由じゃないけど。ただ、その辺りに住み始めて、ちょうど同時期だったかな……知的障碍のある女の子が(引っ)越して来てさ。話しはかなり特徴的だと思ったけど。んふっ。かわいいんだよなあ。今じゃ、ただ一つ切りのいやしになってるくらいよね」


「それは、どこが不自由なの、」


「呆れないでよ。オチはちゃんとあるから。それで、その子が中学に上がって。あんまり会えないなって思ってた日の夜にさ、目のまえ、家族に抱えられて帰ってきて。集団いじめが露見したって。その子自体、けがとかで済んでたけど、いじめてた子たちの親はこぞって転勤だと」


「……都合のいい、作り話みたい」


 望夢の薄ら寒い微笑のほかに、特別興味もない秀継は困り果ててしまっていた。それでめずらしく、彼の気づきにふれるかどうかと言う音量でそうとつぶやいたのだ。


「それで、こう言うのはあんまり不作法だろうけど、ぼくは、あの子が知的障碍者じゃない女の子だとしたら、そのいじめていた子たちが正当な罰を受けられたと思っているんだ」


 と、これも、望夢の言葉であった。


「心に兆すものだと、当たりまえに外身がいけんには見えないものだけどね、むしろそのほうが取り扱いに気をつかわれるのかも。手が動かないなら、代わりにペンを持ってあげればいいし。足だったら肩を貸したら、いいから。でも、目に見えない心が相手とあっちゃ、ぼくたちは、何も行動してあげられない。心にはさわれないし、さわりたくないんだよね。実際、」


 だったら、人間はほかの人間の精神どころか、『自分』の内的事情さえ、思うとおりにできないと言うのか――。


「まあ、だからね、不自由な軀なのはぼくたちのほうってことになるんだけどね、」


「望夢。元気になったね」


「あ、ああ、お蔭さまで、」


 徹頭徹尾、平静である秀継は勇みこう答えた、


「ボクは……それを孤独だとおもう」


 前方にかげの姿はあった。だが、彼らは火の粉のほとばしりを避けつつ、また、秀継たちをも恐れて、目立ったノッポでたっと逃げ出してしまった。

 秀継はいつか、胸元に隠していた豪奢ごうしゃさやの短刀を一度手にとって、そして最初のポケットに捩じ込み直していた。


「いつかどこかで、その話をした」


「どんな?」


「ボクたちが、他人に望まれたように育ち今の姿になった、って」


「ううん? その、趣旨はそりゃ近いだろうけど、オチはそこじゃなくて、」「分かっている」望夢の食い気味の主張を、淡々とはらいのけた。「『逆説』、でしょ?」「それらしいばかりだけどね。いや、まずもって言うべきは、かりに独自で正解が分かったとしても、これをやすやす答えたらいかんよってことだ……ほかに誰か、困らせてない?」訊かれたが、秀継は即座に首を振った。「大人は、逆説のたとえが好きなの」それからはき捨てた。彼らは、いつの間にか通常より広い、具体的には二倍ほどの、幅の道に出て来ていた。「でも。望夢の言い分で、疑問に思ったことがある」


「いや、確信、だろうか、」いよいよそう、判定し得たわけだ。「軀も、心も、不自由なはずのボクたちは自分の力だけで、ここまで歩みを進めてきた。そう、『自分』で。だからどこかにかならず、自由なボクと、望夢は居たはずだ」見えてきたものが、真理を抱き締めるためのかてで、つまり論理だと。


「自由、なのか、」第一の別れの夜、それは認められた。「いや。自分を、縛る言葉だった、」


「どうしても、みるみるうちに、言葉の意味と価値は変わっていってしまうから」摂理、時代の。ごとく。「ここのタカラモノは『世界一』だって誰もが望んでいる。そう、感じている」こころざす人間もまた、理想的に、順応していくだろうから。


 そして、「だから、ボクたちは孤独なうえ、一番の不自由だけれど。――だれよりも、幸福になれる素質がある。そうじゃない?」


 なつかしい表情をまじえ、後ろを振り返った秀継は、立ちつくして口から、腹部から、真っ赤でどろどろの体液を溢れさせる望夢の惨状を目の当たりにした。「あ、あぁ、ばっが、」彼は身もとどこおる激痛に、精神を混乱させるしかなかった。とにかくすぐに、声を上げた。「ぼくの……盤石ばんじゃくな、ジンセイを。成績を。人間関係を、全部、ぜんぶっ、壊したのはっ、酒だ! そうだよ! ぼくは人並みがよかったのに、なんでこんな、」たんに愚痴だった。知人のまえで白状する内容のないやつだった。保身を諦めた者の、こっけいなぼやきだった。「ひゲっ! つぅ……くん」血反吐をはき出し、ろれつも回らなくなって、ただ秀継の名前みたいな何かを繰り返し唱えながら、右のすねに抱きついてきた望夢はもはや強く掴まえることもできない。何度も女みたいな秀継の細脚を撫でさすった。そして、そのさまが、ついに彼の断末魔となってしまったのである。


 秀継はまた酷薄に、それをいやしんでも、通路の何もない脇へ運ぱんしてやっていた。今や何度みなおしても死骸は血まみれだったから、少し、嫌な気分になった。罪悪感が芽ばえて来た。およそ、この塔のなかで死んだ人間のよそおいにはふさわしくないと思えてさらに。罪悪感は、怒りと言うか、やるせない気持ちへと色彩を変化させていった。


「せっかく、理解できそうだったのに、」


 努めてフラットな語調の節々ふしぶしにも、その感情はしかとあらわれていた。

 彼は、さっき男の倒れた方向を見遣る。そこに、「巨軀きょくの魔物」が居たのは明白である。かれはものどものエニシを断ち切る強靭ななたを持ち、塔に仕え、遣わされる存在だった。


 けれども秀継は、真意を受け入れられなかった。「この場所は、本当に人間をただ壊したいだけなのか?」と、それで仁王立ちをして訊いた。あまりの巨体と無理解にもはや身震えもしないで、さも尋常じんじょうであるような態度をとった。ただし物言わぬ影に、説得を、要求するのも筋違いだと言うことも、実際わかっていた。


 と、すかさず秀継は半身に構え、首を後ろへと逸らせていた。場所から逃げだそうと考えたのだ。はじめになんの障害も無いことを認知したからそれができた。

「はっ、」横髪を振り切り、それにようやく上体も追いついて、結果、思わくは成功した。うまくいったことに大きな歓喜を覚えて、少しだけ、走った。幅広の空間が終わろうとしたところで、かの魔人も待ちのぞんで立っていた。二つは当然のように再会を果たした。


 かれは歓喜にはなはだもだえる。鉈を天井に掲げたのもこの所為であるか。とかく秀継はわななき、向こうのやいばの落下経路に自身の頭と、そしてこちらも片刃を露にした短刀を差し出した。するとすぐにも、鉈は叩きつけてきた。自慢の白刃は根元からぽきんっ、くあんっ、と折られた、けれどもなぜか秀継の軟弱さについては、相対した凶器をものともしなかったのである。なれば柔軟さと言えるか。一撃は、軀の芯を透過したばかりか、このまま、間もなくして奇麗にちりあくたとなり、散っていった。

 役目を全うし、かれもひゅんと言って消えていた。


「こう言うことを、するから……理不尽に思われる」秀継はさきのきえたつかに、将又はたまたこの言葉の裏に暗躍する何者かに、こわごわ告げた。黒い血潮をうけた指の末端も、強く目に見える驚嘆をきっしていたのだ。


 次には、あまりの揺れと汗のぬめり気で柄を地面に落としてしまう。だが如何せん拾おうとする気持ちがく。今度は前髪を振り切って、歩き出した。そこで何もかも荷物を置きざりにできるみたいに、なんとなく晴れやかな心情。みなぎる元気に背なかを押され、進んだ。「前向きで、いるよ、」――一考してみて、いや、現に、そこへ遣ったのは後ろ髪なのだと気がついたのだが、止まれなかったわけだ。


          ※ ※ ※ ※ ※ ※◆※ ※


「仮にも、そこで確かに創造主かみさまの許しがひらかれたとしたら、吾々われわれは望んだとおりの幸福を得られることでしょう。なんの努力無しに、ね。結果として、言動による信仰心の標榜ひょうぼうばかりが幅を利かせて、原理主義者のわたしたちは唯一の、『宝物ほうもつ』それをあがめ、うばい合うことしかできなくなるわ。さて一体、どちらが正しい『宗教』であり、どちらが誤った『傾倒』だったのだろう?」


 そうだと知り尽くしたように豪語して、その場所の女性はにが笑いした。一体、どれほどの知識人なのか知れなかったが、ひととおりでない才幹と論旨にはおもわず寒気がするほどだった。

 六つ目の、迷路構造ではない、巨大な円形をした休憩場である。そこでは彼女が一人で、小さな酒場と、約一〇人の寝泊まりできる宿屋を経営していた。若々しい見掛けで、豊満なからだつき、髪が空色のくせ毛と言う変わった身形みなりの女主人。


 階層に登ってきた秀継と目が合うなり、手招きして、カウンターに、カップまで用意してくれた彼女は「輪廻りんね・セレスタインだ」と名前を述べた。


 それで、秀継のことも知ると、すばやく金属の容器を手にとり、彼のまえに黒いしたたりを適量、そそいでいった。「ここで、コーヒーが出てくると思わなかった」湯気の立たないさまに秀継は何もなく嗅覚をそばだてて、平然と、その正体を言いあてていた。


「特に、めずらしくもないだろう?」


 輪廻はまったく無臭の長い髪をひゅんと揺らして、なぜか自慢げに言った。


「どうぞ」


 うながされ、濁り珈琲を一杯。首から鎖骨のあたりに内的に、焼け糜爛ただれる感じをおぼえた。


「……はじめて飲んだけど。これから飲みたくなる味ではない」


 と、秀継は決してとり乱さなかった。普通ならこの程度では済まされない。もっぱら、強烈なクセと舌根に残ったあの感覚に耐えられず、ああ、と打ちもだえるものでないか。


「コーヒーなんて、香辛料の一種じゃない。料理の深みを増してくれる。水にとろかせば、かぐわしい香りと覚醒効果がある。けど味は好まれないよ、なぜかってあの味はコーヒーと、洗練された泥水くらいのものでしょ」


 それはあまりにも、投げやりに考えられたものだ。

 秀継は、彼女の大味を気にした。


「いや。それじゃもはや嗜好じゃ無いか。……砂糖は、幾つほしい?」


 安易な挑発に、しかしすっかり気を腐らせてしまった秀継は自棄やけを起こしてカップの淵に吸いついた。二度目の接触と、あじわい。それでは、独自の生臭さと渋味、苦味、だけではない、さっと鼻に抜ける爽快感こそ得ていた。

 今をもって満足顔の秀継には、得てして接客位置から前屈みになる輪廻の美麗のさかしら顔が、道理で、幼子みたいに切り取られた。


「『どうして登って来たの?』、と訊かないの」


「見くびらないでほしいな。この次は第7層だ、素質のない人間なんてとうに落ちぶれているころ合いのはずじゃない」輪廻は、とかく手癖に枝毛を気にしたりだとか血色のいいくちびるに触れてみたりしながら思案する。「じゃあね。もう、わたしにしてあげられることはないから、」


 すると左手は指のはらで、頬骨のあたりに薄ら浮かんだほくろの一つを、強く撫でつけた。


「君の自由意思を手助けする、あるたとえばなしをしましょう」


「タカラモノの授受には、関係ないの?」


「ごあいさつだね。それしかないと言うのに、ね」それで、粛々と話し始める。「吾々、人間はもとより生と死の結末をだいて産誕するものだ。けれどここについて、『運命』の束縛と言う真理か、あるいは『観測』により拓ける未来の真理の、かならず相対あいたいする二つが生じて居る。どっちにも相当の道程と論理があって、吾々はけして信じられるほうを選ばなきゃならない。そのとき、『――――君はどちらを選ぶ?――――』。それにしても、人間が自分を無根拠で過大評価してしまうとき、一生かもしれないけれど、そう言う場合にはどうしたものなんだろうね。ああ、対処だよね。無根拠を認めているとなれば、あくまでわたしたちがどれだけ段階的に詳説したところで意味ないのじゃないか。理屈っぽいの語は、わたしたちを理解したくないと言う意味だろう絶対。無理解でありたいのなら、きちりと拒絶の意思表示をしてほしいと思うわ。『だからこれは、君の価値観が決定づけられたうえで必要を得る意見だ。それを、はじめに伝えておく』よ、」


 輪廻は、どうしても冗漫になってしまう自分の話にくよくよしながらもその実、的確な言葉を選び採るように口のなかだけで何度も咀嚼そしゃくすると、はばかること無く、吐き出した。


「そして、わたしたちはそれらを運命論、観測論なんて呼びならわした。自己における解釈の真理性を高めるために、わざと分けられ形式化された。でも、それらへ事実触れて、その如何いかんを確かめられる存在は、誰一人居なかった。『人間は無力だ。とてつもなく臆病で夜郎自大で、無意識そとにはだれをも無いと信じ切っていたばかやろうだ。結局、真理がどうであれ、わたしたちがそこに至る日は来ない。永劫未来、かならず、やって来ない』。君はこのさきにどうしてか理論の最先端が待っているように、期待して、理智りちをすすめてきたんだろうけど。……諦めなさい!」


 輪廻の瞳は、一切のかがやきと剛毅ごうきさをうしなって、あせた色彩を見せていた。

 そして今のままに、服飾の類いを外し、下ろしてしまい、


「塔のいただきにあるものなんてっ、こんな、旧習まみれの儀式だけなんだっ!」


 悔しさに歯を食いしばったようす。外気にさらされるみずみずしい肢体と、はだいろに密着した絢爛たるアクセサリーのコントラストで、より一層情感に溢れているように覚え得た。


 彼女は、みずからにできる限界値をしんに理解していた。だからこれを、隠さずに披露してくれたのである。「なんだと、思う、」「――踊り子の装束?」秀継もついぞ目を離さなかった。「わたしたちの正装せいそうだ。それに、『宝物』を執行できる証である。儀式とは、わたしたち無しでは絶対起こり得ないものを指すのよ」


「輪廻さんが、タカラモノを持っているの?」


 秀継はおどろいた声音だった。


「……だが、その意見には、途轍もない誤びゅうがある。君は政治家、統治の執行人が、現実として法律を所有しているだなんて思わないでしょう。その意向を知り、威にあやかろうとすることが吾々の権能じゃない? だから、わたしが『宝物』を抱えてここへ下りてきているわけがないんだよ」


「そう」「そうだ。ここで起こった場合それは儀式でなく、『無為むいの幻想』になってしまう。あの、『世界一価値のある宝物たからもの』が、だぞ? たったいち工程をたがっただけで。まさか、鉄が錆に変わる瞬間のようよね」「そんな、名前だったのか……」「今にはじまったことじゃない。でなければ塔は今の形状になれるはずが無かった」輪廻はわきの下に潜り込んだ飾りを、とり上げて、何度も位置をずらそうとこころみた。そう言えば階にきて出会ったときにはすでに、この珍妙な動きを、時折見せるようにしていた。「ここの八階層にはそれぞれ試練があるわ。内容は人伝ひとづてと、本で読んだていどしか知らないけれど、全部、自分で人生価値を決定づけるための。大事なことよ。どうして、わたしたちに可視化されたものを見せてくれなかったのか、理解できない。『全人を目指す』塔であれば、そんな分け隔てする必要もなかっただろうに、」


 これでおしまいとばかりに胸部をひらいてから、輪廻は床に落としたシャツやベストを拾って、いそいそと着替えてしまった。だが、更衣のあと、よくみてタイトスーツの至るところに、あのエロティックなアクセサリーの形が浮かび上がり、きわめて扇情的なさまを演出していた。


「悲しいよ……。世のなかのあらゆる凡俗が不幸を回避するために、まず誰かが不幸にならなきゃならない。そして不幸でないことが幸福だと知るために、どこかの賢才がそう説かなくてはいけない。そうやってわたしたちがしあわせになるのに、かならず一人以上の犠牲があったことを、忘れちゃいけない。この塔は誰かの不幸と、願いの上に建っている。――あるいは、これから君が、誰かのための犠牲になるかもしれないけれどね?」


 彼女は心底、そこで感じ入っていた。今にみずからの使命を、思い出して、静かに苦悩しているみたいだった。


人類わたしたちは、いつまで救われ続けなければいけないのだろうね?」


 言葉のすべては無力感に包まれた。

 たとえどのように解釈しても、発端の一人は、絶対的に救われないと言うのに。人間たちの救済活動が続いていくから。だから彼女は、そこに塔ばかりがる事実を強く願うのだ。

 秀継は、なぜ気がつかなかったのか。


「それは、絶対なの? 誰かが救われるために、誰かの不幸が無ければいけないの?」


「いや。君に関しては、そうでないかもしれないけど、」


 今度は、輪廻のあえて濁した先を、秀継がおぎなった。「そう、あの影が、確かな分別ふんべつをしてくれていたから」かつて望夢だったものを運んだとき、手と、腕について、今に黒く固まった血のあとを押さえ、不義理を悔いていた。「悲しいのはね、死んでしまったことにないんだ。いつも悲しく思っているのは、それ以上自分に生かせなかったことだよ」


 そして、悔やまれるのは、いつまでもその人の死が私たちのなかに訪れないことだ。


「君は、まだ生かしてやれる。君には、いずれ終わりを導く権利が手にはいる」


 なんて甘美なひびきだろう。


「傲慢だと、思うかい? おのずと生涯、世界を、決めつけ限定することが、」


「だとしても、ボクを含む何人かがそれを肯定する」


「そうか……わたしは、ずっと認められなかったけれど。そうだったんだね」


 もう輪廻には、話すべき何もかもがない。解きはなたれた安堵の情に、引きつった笑顔もじょじょに、穏やかな感を、ともしはじめていた。


つつみを知っている?」


「なに?」


「アラタを、知っている?」


「どうして、」「みんな、輪廻さんを尊敬していたから」秀継はそうだと、笑い掛けた。まだ相当の無骨さではあった、けれども、克明な意思がずっとあらわれていた。


「……そんなこと。あるわけないじゃないっ」


「輪廻さんが『人間の力の無さ』を説き続けたから、二人は、挑戦をやめていなかった。叶えたい気持ちと、成実を目指す心が、ボクにはちゃんと伝わった」


「わたしは、彼らを見放したのさっ。嫌なくらいひたむきだったろ? わたしはそれがぶち壊れるように、塔の論理をかたむけた。圧倒的にかなわない理不尽をけしかけた。それが、尊敬されるいわれなんて、あるわけないでしょう」


「そう。わかった」


 秀継は席を立ち、「トイレ」と一言つぶやいた。あの利尿薬のせいだ。輪廻にすばやく場所を訊いて、飄然ひょうぜんとそのほうへ歩き出す。


「でも、輪廻さんは、挑戦をまだやめないのか」


「っ、君、」


 返事を待たないで、彼は円筒状の閉鎖空間に行ってしまったのだ。


「手洗いは、そっちじゃない――」


 どういうつもりなのか知らないまま、後追いに口をついて出た言葉を、輪廻は手に押さえすかさずのみ込む。

 それが、自分にはとてもふさわしいものでないと刹那に悟ったくせに、ここではお決まりの、あの澄ました顔で居ようと思っていた。


「君が……申し子でなかったことを。わたしは今一番、惜しんでいるわ」


 だから今日のところは、この「セレスタイン酒場」のマスターに戻ると言うことに、彼女は従ったのである。





 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――






第5話  愛美のいた日に

 残った「彼女」を打倒して――至高の場所へ。





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