纏ノ章 三日目

 三日目。


「私は、葡路ぶじ あらたって言うんだ。ボクちんよろしくねっ?」


 まさに第二の幕開けにふさわしく、爽快痛烈な自己紹介がそこではとり行われた。武器商と鍛冶職の占有する休憩場を抜けた秀継ひでつぐが第3階層へ上がり、すこしばかり進んだところで、沢山の「小人のかげ」に襲われている少女を救ったのがその発端だった。

 影のすべては彼女に起因していた。体長一二〇センチ台の四・五頭身に、毛の太いツインテールをたずさえた数匹を目の当たりにしたとたんに、彼には確信できた。第2階層での体験をもって影とは親元の何かしら、成熟度あたりを、基準にその形状を決定するものである、と。だから目前の小豆色がかった黒髪をもつ小軀しょうくしか、小人の影たちの生みの親に成り得ないことを、秀継ははっきり理解したのだった。

 そして結局、秀継は彼女を助けた。いや、救助援助の類いではなく、たった一振りによる影の全体的抹消と言う、暴挙に出ていた。いやほんとうに暴挙だった。そのとき少女は、一見同格ではあるものの数匹のニンゲンを九寸五分のような短刀で相手取っていたのだ。秀継はそのなかに闖入ちんにゅうしたばかりでさやにおさまったままの武具をとり出し、あまつさえ刃を見せず振りかざしただけでことを治めたのだから、それが常識の枠外の行為と結末であったのは言うまでもない。完全に少女は、彼と言う驚異的な存在をまえにおびえているはずだった。

 けれどあの、あいさつの調子。軽口のくせに、迷惑をかけたことを悪びれるような素直な表情は、誰もなく秀継の心をうった。

 彼はその瞬間に、彼女の、何か力になりたいと切に願ったのである。

 君はどうしてこの場所に? と、気がついたときには口を素早く動かして言いはなっていた。


 すると、彼女は詳しい説明もなしに、『オニックス』ってとこへ行きたいわけよ、と答えた。それは今階層のすぐ上にある休憩場だった。一人であれだけ苦戦していた彼女は、きっといつかに言ったり聞いたりした「素質そしつ」を欠いているわけなのだが、どうしてだろう、自身の限界領域のさらに先にあるこのような部分を知り得ていたから、今まで塔内で見てきた事象の何より不可思議だった。けれど秀継はそうでも、彼女の力になりたいと欲したことは忘れないで、「そう。じゃあ、一緒に行こう。そこには何があるの?」と賛同の色をあらわした。


「まあ……ちょっとした、古書がね。あとあそこはメシがうまいらしいんだあ。ついでに酒も」


「え。アラタは、ハタチ?」


「いんや、その上。二二歳だよぉん」と、のんきに告げられた。


 こうして彼女・改は、塔攻略へ前向きに挑戦する秀継の新たな仲間となったのである。


           ※ ※ ※◆※ ※ ※ ※ ※


 そも、「オニックス」とは、今を遡ること一千年前、塔を治める一人の少女によってみちびかれた青年ケイニーが恋人の死をとむらうため、何十年も掛け基礎となる土や石を集めて運び入れ、塔のあちこちに放置されたままだった遺体などとともに埋めることで供養をした、と言う内部の伝誦でんしょうからつけられた由緒ある名であった。「とは言え、元来『供養』ってものはされていたはずよ。死者はかならず山と出るし、体もいつか、無くなってるわけじゃないし、ね。誰かが始末をつけなきゃいけない。最初の人は、どうしてだったか塔が呼吸しているもんだと決めつけて、窒息覚悟で焼却炉を置いたの。それで、燃え残った骨を形見にしたり、身元が分かんなきゃ、くだいて、肥料にだって使っただろうね。結局うまくいって、収入もはいったし幾らかましな処置だったの。でも、ケイニーさんとやらは、屍体の物質的価値じゃなく観念的価値にこだわった。だからわざわざ土とか材料を持って上がったし、つぼに込めた遺骨をちゃんと埋めて、そこに『墓』を作ってあげたんだろう」「なぜ、」しかしすっかり昨今では、愉悦と堕落の象徴のように人間じんかんでの認識は固定されている。人はそこではあらあらしく叫んだり暴れたり、酒を撒いたりし、ひどいときでは公然と売春を行ったりするのだ。「そう。ご覧のとおり今じゃ、墓なんって誰だって見向きすらしないじゃない、っての。伝承は伝統に、んで、最後には伝説に、なっちゃったのかね」つまり「堕落」と、噂されて当たりまえの荒廃にきわまってしまったわけでもって、秀継たちもそのとき、果たして事実を強く噛みしめていた。「だからなぜ、アラタはそんなことを知ってるの」「……聞かなかった、ことにはできない?」「分かった」体感数時間で無事ここへ至れたにもかかわらず、紫のアルコールを文字どおりに被った彼女につき合ったことで、必要な休養や情報収集のチャンスを逃がして、半ば倒れるように眠ってしまった。


 ――覚醒の直後、そうした経緯だったことを彼は記憶はしていた。けれども、どうして彼女と二人して赤土の上に転がって、全身を汚れさせているのだろうと、道理の分からない疑問は相かわらず脳裡のうりについて旋回と旋回をくりかえすばかりであった。


「ぬ、む、」


 すると、あろうことか、解決せぬまに改を起こしてしまったのだ。「アラタ?」秀継は訊いた。それは、一身を案じる意味合いだとおもわれた。なぜなら彼女の衣服は、ただでさえ体長一二二センチ(今度は正確)、ひらたいところはとことん平らかで出るところはきちんと出た、と言うからだつきを、考慮に考慮してあつらえただろう愛らしい型なのに、それが下品な色と臭気になって、いやしい大人たちの目にさらされてしまっているのが現状、なのだから。


 改も、少しすると彼の言葉のニュアンスには察しがついたらしく、「……ゆうべは、お楽しみでしたね」だがそれでも余裕気に、薄ら笑いでジョークを言っていた。


「しっかし、酒は記憶が飛んで、いかんね。何話したのかもおぼえてないや」


「その、なんだ。母親には迷惑を掛けていた、とか」


「そっか」「あ。あとほかに、」


 改は立ち上がる。「秀継くん。ちょっと、そこらの屋台を回ろうか? おカネはおねえさんが、出してあげるから」と最初は、気丈にエスコートしてくれたが、歩き出すととたんによろめいて石の地面に膝をついてしまった。「悪い……きのう、戦ったときにくじいてたかも、」「ボクが担ぐ」秀継はなんの愛想もなくその、幼い胴体をとくに重たそうに、背なかへしょい込んだのだ。「何っ」「ケガは、よくするの?」「まあね。大抵、と言うか全部、私が一人でやっちゃってるだけなんだけど。塔はそう言う場所だよ。勝手に登って、勝手にケガして。勝手に、幸福になればいい。でもそれができるのは、ここにちゃんとした秩序があるお蔭でもないかな」改は肯定した。「ははあ。どうかね。ここは、特別に無秩序だったかも」そして否定した。


「アラタは、影の職責をどう思う?」


「『魔物まもの』のこと? あれは、言うなれば試練の類いだよ」


「どうして、そう断定できる?」


「まあ、私の場合、外から来てもう五年になるもんだから、色々、知ろうとせずとも吸収されてるものはあるんだよ。たとえばその試練だけど、噂では『人の精神の育ち方』と密接に関わっていて、魔物のどうこうもそれで決められる、んだとか。だとしたら完全に手当てのしよう無し、だね。だって、確かに日々剣を振っていれば筋肉はつくだろうし、努力の分だけ経験値も上がっていくものじゃんて、」


「精神。思考は、自分で操作も強化もできるものじゃない。だからまして、他人の気ままに決めた水準を目に見えない観念で満たせとあっては、圧倒的人格者でないかぎり、困難だ」


「なんと名想定! すごいね、私のほしかった言葉まさにっ、そのとおりだよっ!」


「揺ら、っさないで、っ」


 小奇麗な服飾の並んだ店についた。その様相は、刀剣や武具などをあつかっていたあの休憩場とは一線を画して、非常にきらびやか、そして華やかだった。「長い布が多い」「まあ、ここの正装、みたいなのかな。時代背景はどうか知らないけど、」「ローマ辺りじゃないかと聞いた」「そうだね。でも、某温泉漫画じゃ見慣れたものよ」物干し竿のようなものに掛けられた一枚布はさまざまな色と模様をして、ほぼかんぺきにファッションの一端となり得ていた。「そう言えば、アラタの髪は奇麗なリボンで結われているけど、」「これは、『マドナス』で買ったものだよ。だからもっと安物」「そう、」「秀継くんも、この服着なよ。買ってあげるよ?」高さを増した彼女は、淡い色で生地は薄いが言い知れぬ情緒があるトゥニカを指さして言った。彼女はとうにその色に染まっていた。「ゆとりのあるものは、好きじゃない」とは、秀継。「サイズの話? どうして?」「それだけ、みすぼらしく見えるもの」「はあぁ……なるほど、ね、え?」担ぎ手はまた歩き出した。


「まあ、なに、所謂いわゆる俗説ってやつだよっ。気に留めなくていいの」


「……どうして、塔の人たちは積極的行為には、広い心でいられるのに。自分の言葉を、あたかも他人事のように言うの?」


「そう、だったかな、分かんないけど。私たちは自分の言ったことより自分の、したことのほうが長い間憶えていられるから、じゃないかな? 漠然とむかし母親に叱られたことを分かっていたって、なんで、そのときの私は怒られたかもう、知ることができないのと、おんなじで」


「説得力とか自負とかの問題じゃない?」


「だ、と思うよ。そもそも暴論じゃここまで上がって来れないはずだよっ。君も、私だって当然、自分の考えてることは正当なんだって思い続けてるわけじゃないかい」


「そう。ボクはまだ『世界一』と言うものの意味が分からないままだけれど、」


 二人はそこの惣菜店のまえで食事を摂った。「アラタの小ささは、いつからなの?」「言うねえ、まあ、気になるなってほうが難しいかね。そうね、確か小六までは人並みだったはずなんだけど。その人並みが歳食ってるうちに、だんだん人並みに外れてった、ってことかな」「アラタは、こうなることを望んでたの?」「んなあほなっ。長身・グラマラス・ビューティーを夢見ていたわ」「想像にかたい、」「言うな!」「でも、かわいらしいと思う」「だろ?」機嫌をとったつもりではなかったのだが、笑顔の改を眺めて、なんとなくこちらには罪悪感と言うか取り繕った罰のようなものを、感じてしまう。そして、秀継は思った。「どうしてか、分からないけれどボクたちは、他人に望まれたように育ってきたのかもしれない」「とは、」改は露骨に、相手に立ち入るような言葉を拒んだ。「そう。ボクの容姿は姉のそのもの。ただ髪が長いかちょっと長めなのか、男性か女性か、それくらいの違いしか見いだせない。だからボクは、姉を、好きになれなかった」「嫌いでも、無いんだね」「さすがに声は違う。ボクの言ったことが、姉の言ったことにはならない。ただ、一度でも自分と同じ人間だと思えたら、きっと好きだと思えていた。『きょうだい』とはそう言うもの?」「はは、私は、一人っ子なもんでね、断言はできないけど、」存外上品にそまつな料理を食していた彼女は、味のもろもろ苦労を押さえつけたような表情で、「お姉さんは、違う考えだとおもうなあ」と答えたのだった。


「ここの、色んな人たちと話して、いつか無興味を克服できたら……そのときはその価値観にも、前向きでいられると思うから」


「そっか、」


「アラタも、最上このてっぺんを目指すの?」


「私か。そうだね。でも、かねてからの目的がそうだったわけでもないんだ」


「もう、下りたいの?」


「はは、だいじょうぶだよ。たとえ忘れていたって、タカラモノまでの道を閉ざさないでいてくれるのが、『塔』なんだから……」


 ふと立ち寄った古本市の老人の、孫らしき少女が目に入った。がっくりと深く頭を垂れて木箱に、座っているところの、布越しでも分かるほど痩せた脚に彼女はしがみつく。さらに物怖じした目つきで、まばたきもせずに、睨みつけて居た。改は、秀継の背からすべり下りて、彼女のまえに立つとその頭頂をがしがし撫でまわした。けれど彼女には、なぜか嫌がるそぶりがなかった。少しうえの改の穏やかそうなまなこを見ていた。「天命、と言うものがある。本当に天から授かったいのちなんだ。私たちは自由にできない、けど、それがなくちゃ生きている自覚すら保っていられない。いつしか人にそれは『宿命』とか『運命』って、呼ばれるようになった。ここで順当にいけば、私たちの親元はきっと神様になるんだろうけど、この子――塔のなかで生まれてきたいのちたちは、宿命も運命も、塔に掌握されてしまっている。なぜか? って……まあ、これも、結局俗説だよ。あの人と私だけが持ってる」「アラタは、」「名前のとおり、まったくニッポン人よ。君もね。だから分からないんだ。目に見える存在に、自分の価値も考え方の正解もなにもかも、操られて、それなのに奔放ほんぽうなままにされるって言うおぞましさが、ね」と、改が話していると、それに耐えかねた老人は平手打ちで彼女の手をはらった。少女のほうには変わりなかった。「ん。余計なこと、話しちゃったね。ごめん、」改は秀継に笑い掛けた。「どんなに道筋を立てて、懇切こんせつ丁寧に見せても、むしろ人には理不尽そのもののように感じられる」「名想定だね……」


「まあ、何があっても私は、登るよ。登らなきゃいけない」


「そう」


「本当は、どこでだって果たせる目的ってものが、あるかもしれない。私が、外に出なかったのもそう言う、無鉄砲な気持ちがあったからかも分からない。それでも、行きたいね。秀継くんをひとりで行かすってのも、ちょっとまだ無理そうだし」


「『世界一』は、二人で目指していいものなの?」


 今さらだが、気づいた。塔は、一つの「幸福」しか示唆しさしない、らしいから。


「秀継くん、私じつはボードゲーム好きでさ。とりわけオセロが得意なんだけどっ、」


 改はちょっとした高揚感からなのか、少し速まった語調でもって言った。

 

 けれど瞬間、「いや、」明らかに冷え切った声をあげて、「イイコト、言おうと思ったけどねえ。有り体に言っちゃうと自分と相手で持ってるこまの色がはじめに違うように、二人で同じ勝利を見てたとしても、ね。黒による勝利か、白による勝利か、って意味合いが変わるものなんだよ。先攻後攻どっちかってのも勝因になっちゃうし、」


「でも、ボクとアラタは別に勝負をしているわけじゃない」


「っ、そっか」


「目指しているものが誰にとっても『世界一』なら、どうして、塔には交通規制のようなものが無いんだ? 観測者が増えるのに比例して、『宝物ほうもつ』一つの価値観は変わってしまわないの?」


 秀継の疑問は当然のものだった。このままでは、それら謳い文句が虚偽になってしまう。

 彼は階段の直前に、小軀しょうくを背負って立ちつくした。そして、答えられることを待っていた。


「アラタ、」


「……ごめん。できればこのままで、第4層にはいってほしい」


「どうして?」


 どうして、答えられない? 彼女は塔の内情と現状によく精通しているはずだったのに。ぎこちない仏頂面で、へたくそな平淡さで、なぜその場凌ぎの言い分を並べ立てようとするのだ?


「だいじょうぶだよ。たぶん。魔物、そんなに出てこないはずだから」


「わ、かった」


 卑怯である。

 相手に拒絶されると、強く踏み込もうとはできない秀継の弱さを知って、そんな乱暴を振りかざすのか。

 今の、改の情緒は不安定だった。


『ザブンッ!』


 刹那、全身に酒を浴び、彼女はさらにおかしくなった。いや本調子とよぶべきだろうか、昨日、「オニックス」で盛大に酒乱したあの姿に、今度も成り下がってしまったわけであった。



「がおおおおおぅおうおぉぉぉぉぉ、んゔっ――!」


 ブジ・アラタのけたたましい咆哮ほうこうが、階層全体の空気を揺らした決定的瞬間。足のケガの痛みもどこかに飛んでいった。ぴゅーん。


          ※ ※ ※ ※◆※ ※ ※ ※


 実質、計測しようとした人間は一人もいなかった。断言のしようがない、しかしまともに影と戦い、迷路を攻略するのに吾々われわれが要す時間はだいたい二時間程度である。走ってもそれは変わるまい。特別に理由のある事項ではないにしても、人間が「塔」を登る行為そのものを肯定し、自主的に進もうとするために、少しの苦労は無くてはならないものだろう。そして、二時間もあれば、冷静にして下ろうとする判断もたやすく出来得る。あくまで塔には、体力だとか知恵だとかの優劣など求められておらず、つまりは、成功しようとする意思だけあればそれでよいのだ。


「……どれくらい、寝てた?」


 そうと今に怪訝なようすのあらたにも、だから、当たりまえのように、登ることができた。

 一方、いまだに、五年間を費やしても第3階層を突破し得ない実力のままだったから、そこでは秀継少年の同伴がなければ、根本的に解決されるはずもなかった。

 だからこれも当然至極のことだ。枕元の彼が、みずからを、ずっと見守ってくれていた事実。

 改は起き抜けにおどろきも、それを確認しようとすることも無くて、あっけらかんと訊いた。


「分からない。ごめん」


「そう、だよね。ここ時計ないし。ん、ここ?」


 改は、ばりっ、と掛布団をぎ、地に投げつけてから立ち上がる。それからまわりを見た。どこか部屋のなかだ。人為の故意でない木目調の板をつなぎ留め、なんとか立体を支えている壁や、味気ない家具、寝具も隈なく観察した。「ここどこ?」改はまた訊いた。


 そばにちょこんと丸まって、座っていた秀継は、ほんとうにしとやかな表情を強め、困ったような雰囲気を醸して言った。


「アラタが酔っ払って、あばれ疲れて眠ってから、登った。ここは『シャルル』。今は、娼館を管理している人に口利きしてもらって、常宿を借りている。代金はボクが払っておいた」


「簡潔に素晴らしく、洗練されたここまでのあらすじ、どうもありがとう。そして、なんと言いましょうか……はい。迷惑かけて、すみませんでした」


 ひとしきりさわいで、元気をとり戻したらしい改は静かにベッドへ腰掛けていた。


「アラタは酒をかぶると、尻尾を踏まれたネコみたいになるね」


「言わないっ!」


「でも、これでボクは違うと分かった?」


「…………」


「アラタと、一緒に登って来たんだよ?」


「――、分かってるよ」どうしてか諦めたように失笑して、「君のまえで、少しも、気張れなかったのは私だからね。もろもろ。めようだなんて、思っていないよ」それから、自分のよそおいについてやっと気がついた。「い、や。これについては少し、いや大いに、譴責けんせきってものを味わわせてやろうかな、あ?」「アラタは、からだじゅう酒臭くっても大丈夫なの、」「そ」「服も、ここの従業員にお古だと言ってもらったものだから」「道理で。ありがとう」と、取りただそうとしたことを悪びれる言い方だった。


「『どうして、この塔に登ってきたの?』か、秀継くんには、話しておくけどね……、」


 とたんに腹が鳴った。空腹なのがばれた。すぐに平坦なところを押さえて、相手からは目を逸らした。


「詳説するまでもないだろうけど、塔ってもんにはね『ちぎり』って場所が、そこの壁なり地面なりに名前を書くだけで『この世から自分の、あらゆる記録を消し遂げてくれるもの』ってのがあるのよ。私はそこに行きたかったんだ。正直そこで終わりってんで、それでもいいんだけど、これがね、第8層の最上階でないと効果無しのしろものなんだと。だから何がなんでも上まで、行かなきゃいけないわけよね」


「どうして、さっきはやけに説明口調だったの?」


「はあ。君ってば、まったくさといね」


「そう? もしアラタを知らないどんな人でも、気がつく程度に、さっきまでのアラタはかたくなだった」


 ちょっと音を殺しただけで、室内ばかりか外の空間までもが静まりかえった。刻限はおよそ夜のそれをていしているのだろう。


「確証がないことは言わないようにでもしてるの?」


「それは、ボクこそ訊きたかった」


「私はそうじゃないよ。ただ、さ……尊敬してるんだ。私はむかしっから迎合的、ってか人に賛同することしか能が無いわけ。そのくせうそはきたくないから、なるべくその人で、別に我が弱いってことでもないんだけどね、都合のいいこと聞こえのいいことばっかし並べ立ててやんの!」


「笑っている場合じゃない、」


 冒頭の一言に端を発し、いったいどれだけの主張と情報を交えてきたことか。


 とうに葡路ぶじ あらたと言う誰かの思考はれている。本当に気のきいたことを言おうとして、デリカシーに気を遣りすぎて、それ以外をすっかりおろそかにしてしまえる、根性も。いつでも自己解釈を言っているようで、結局、どっちつかずな暗愚さを露呈させてしまう、精神も。「進退のきわまった迎合げいごう性は、『誰に』ではなく『何に』対応しても発揮される。それは思ったことが一秒毎に明らかにされるようなことがあっても、けして変わることがない。なぜなら、迎合的であることは、自分がしんに主体的なことと、表裏一体だから」


 秀継も果たして、それかそれでないかと言えば、無論、彼女と同義の方にかたむいているのだから。


「アラタは、誰かに賛同されたかったの?」


「私は、」


 初めて、彼女は困惑の顔を浮かべた。肩をすくめ、眉をつり上げ、くちびるをとがらせて、ひどくまぬけで、まじめなようすであった。


「悪い、個性だとは思っていたよ。誰かに会ってないあいだも、興味ないふりして、何一つおもしろいこと考えられなかった。けど治したいとか、そもそも、病気だとさえ思ってなかった。私は、なんだかんだ人に合わせてるのが楽だし、たのしい、とか、おもってたのかも、」


「そうだと、いい」


「そうだといいね。それで……『自分』のペースで話せる君が、なんか嫌で、他人を気取ってたかもしれない。私でも気づかなかった」


 どこか、改は清々しさに満ちた声音こわねで言った。


「ボクは、ある日突然、『自分』の本当の正しさに気づくのでもいいと思ってる」


 如何いかなる理由で、それは、塔による「世界一」の「宝物」にふさわしいのか?


「ボクはアラタの五年間を、見届けたわけじゃないけど。確かに、アラタの積み重ねてきたもの、信じてきた真理は、分かる」


「ありが、とう」「ただ、分からないのはかいだんを見せようとしなかった理屈だけ……」「それは、いいんだよ」と改は、下り、彼のまえに仁王立ちをしてそのそでをにぎった。彼は遅れて面を上げた。「私に、道を感じられる力が無かっただけのこと。パンチラの魅力が分からなかったようなもんだ。なんで別に、タカラモノへの価値をとり上げられたってわけじゃない」改は但し今も、そう答えていた。


 そして、高きに結われたツインテールに手櫛を幾らか走らせながら、秀継に笑い掛けた。「影の魔物に対抗するには、よっぽどの人格者じゃなきゃとは、話したっけね? それは、本にも書いてあるほどの常識なんだよ、じつは。ここの常識、私たちが、知ってるわけない常識、でも、どう転んでも知ってなきゃおかしいことがらに変わりはないんだよ」強く、さとすように聞こえた。


「まるで、世界ってものの組成そせいみたいね」


「アラタ、」


「もはや、私たちに塔と世界を区別するほどの能は無いんだろうねっ」


「じゃあ、どうしてボクたちは、ここで生まれて来なかったんだ……?」


「それは、」


 アラタは靴を履き直している最中だった。「……人は、自分の望んだようには生まれてこないのかな」


「だから、みんなが理想的な生き方をもって、目指しているのかな」


「なんて、理不尽」


 けれどルールとは法則とはそうでなくてはならないもの。人間たちは、つねに実存を図ってきた、それだけに、実存し得ない事象――つまり、因果と言うものには、めっぽう弱くできている。誰もがこの存在を「理不尽」だと覚えてしまうのだ。

 一見、吾々われわれの熟知しているような常識それこそが、吾々の理不尽を生む、負の温床だとは。


「でも、塔を登るってのは本来、ううん、今でもそう言うことに変わりないよ。ここじゃ私たちは『自由』なんだ。『自由』なりに好きなように、筋のとおった生涯を実行すればいい。ほんとにここは放任主義って感じだけどね、でも、それがちゃんと幸福を実現してくれるんだよ?」


「だとすれば、彼女きらは正しかった」「誰?」ここでも結局、それを再確認することになった。


「アラタ。行くよ」


「ちょっ、」秀継は彼女を置いて、宿部屋から出た。


 眠気をまぎらわせようと、小走りに迷路構造からはずれたそこを見回った。娼館ばかりではなく、ちょっとした商店や鉄火場、酒場も、設置されていた。人にもそこそこ出会った。

 だが、見れば見るほど、秀継にはそこがただの広場のように思えてきたのだ。微小の寂れをひた隠しにしようと、人気の集まる何かを乱立して、強気に振る舞っていると言う寂しさ。一度感じ取るとそれは、絶対的に拭えないものであった。


「アラタ、」後ろからの、とたんっ、小さな足音を知って、タイミングよく秀継は声を掛けた。「どうしたのっ?」「ボクのどこかでは、もう、勝敗を決めたくってしかたなかったのかもしれない」「そうだよ。かりに勝ち負けじゃないとしても、価値観には、優劣がつけられちゃうわけさ」「アラタは、知っていたの?」


 その、訥々とつとつたる問いかけに、改は真正面からむき合った。


「そんでさ、結局、一緒にいたいと思うんじゃない?」


 と、告げられてからの、笑顔とは格別だった。

 つまり、彼女はよく分からない人間で、その目的も、あまりに稚拙であった。





 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――






第4話  傷負い

 誰かと、理解し合える喜び。ほっしている。真理に至ろうとする快楽。ほっしている。だがそれらは、絶対並び立つことのできない現象。どちらかを放棄しなければ真意には成り得ない、二つであるから――秀継少年とはおおいに、大欲の人物だった。





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