纏ノ章 二日目

 二日目。

 「とう」には、八つの試練と七つの休憩場がある。秀継ひでつぐたちが元居た迷路こそ、試練のそれ。もっとも誰の、何を診断する必要があってそれらを設けたのかと言うことに確かな解釈はなされていない。神話や歴史の類いとほとんど同じように、吾々われわれが誕生したころにはすでにそれがあっただけのことで、内側の誰もが、存在を深く追究しようとすることもあり得なかった。

 現在時刻不明、恐らく夜。もう感じ得ない熱帯夜のそこに、秀継たちは宿を借りて、ひどい睡魔と空腹をやり過ごすことにした。カ●●ーメイトはカ●●ーの高いおやつに過ぎないと身をもって知れた。だけではなかった。薄着でさらに禁水浴のただなかに居る少女のとなりで寝るとどうなるか、と、言うかつて無い経験もできた。彼女はイモクサイ・ジャージに相当執着(するような環境に嫌でも置かれていたのだろう、)していたが、カラーの長髪は甘いにおいがした。肩にかぶった襤褸ぼろのかび臭さと、背に敷いた干し草の乾いた香にもすべて、なぜか安心できた。


          ※◆※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 翌朝をむかえた――しかし、それが腑に落ちない。場所を二人で登り切り、携帯食料を三対一で分け合って食べ、寝床をともにしたのは確かに綺良きら少女だった。あの、やらかい肌や温もりを忘れられるだろうか? 無論、叶わない。どれだけ性的な関心の薄い、秀継だったとして、その一晩限りで記憶から抹消できないとは知れたこと。では、何に納得できないと言うのか。「ははあ。こんな遅くにこんな、くたびれたオッサンに声掛けてくるとは。君は楽しい子だねえ?」胡乱うろんな声に口調である、男。秀継には彼が、目前にたって話していることが、すこぶる気に食わなかったわけだ。


「声を掛けたのは、ボク。でも興味を向けて来たのは、そっち」


「さあ、夜盗、てのは少々手酷くないかな」


「それなりの風貌をしているから、間違われる」


「だから、悪かった。寝込みを襲われちゃあ誰だって、敵に思うよね。なんつうおれの不手際!」


 謝罪ととれるような言葉にポーズ(?)を見て、それから秀継は起き上がった。男はおもいの外に小柄で、きわまった猫背と右半身の糜爛ただれが特徴的だった。着ているものもさっき秀継が掛布団の代わりにしていたぼろよりずっと色味が悪くて薄っぺらだ。

 けれど、印象としてはたんに貧しげであると言う、それに済まされた。

 つつみ 春昭はるあきと名乗った彼に連れられて、秀継は、宿屋の右側に接した大食堂のパーティテーブルにただ二人きりで陣取った。入ったところですぐにパンと、血の色の膨れ上がったソーセージらしきものが用意された。


「飲まないの?」


 堤に言われ気がつくと、手前にはこれも血液かと思うほどの汁の、並々とがれたジョッキも配膳されていた。「葡萄酒ワインだよ?」「(恐らく、この場所が古代ローマ建築に酷似していると言う解釈に対して)綺良も、あながち間違ってなかったの」秀継は取っ手をとり、鼻の近くで嗅ぐだけしてから向こうに渡した。


「顔、赤くならないね」


「そう」


「君は、塔外そとから来た子なんだろ、」


 秀継が、自己紹介でおおよそ憶測できたように、堤もまた彼の衣装には感づいていたようだった。もっとも、胸に黒のマジックペンで書かれていれば、致し方ないものである。


「えっと……トキワさん?」


「アメミヤ」


「あ、あぁそれ寝てる嬢ちゃんのほうか。雨宮さんね」


「どんな用があったの、」


 と、秀継は強気に切り出す。なぜならば、酒気帯びの男に真摯しんしな対応はするだけ不毛だと、思っていた。しかし、実際の堤がそうして夜分にただだれかと会話をしたいがために、秀継を同伴させ、沈黙の晩酌につき合わせている。自分は話し相手としてのみようを見いだされた、そう言う次第だと、つまり考えなかった。

 そして事実も、おのずと彼の直観に近しい形であらわされたのだ。「君に、情報を売ろうと思って。まだここに来て日は浅いはずだ。間違いは?」男は青い口唇くちびるに何度も指でふれながら言った。


「別に、欲しいものはない」


「間違いだな。情報ってのは、誰かの需要にかなってなきゃそう呼ばれないように、君がこれから上に登ろうとするために、知っておかなくてはいけないもののことを言うわけ。何、俺も君を、讒言ざんげんでいじくってやろうって気分じゃ無いから。そこは、安心して」


「売る、売られるなら、ボクは支払わなければならない?」


「なぁんか、胡散臭い中華系アメリカ人みたいで嫌だな、」


「堤も、相当胡散臭いとおもうけれど」


「ああ、中華系アメリカ人ってのは、チャイナ口調の片言を話すヤツって意味であってね? 別に人種がどうとかでは決して無いよ」「それを、説明する理由はあるのか」「どこかに仔細しさいあっちゃ困るからね……」コンプライアンスに対する意識をつねに強く持つ男だと言うことか。


 どうやら彼とは、いまだ塔の内情に不慣れな者、疑心暗鬼である者に処方箋を売って歩くいわば薬屋のような存在である。

 だが現実問題、薬屋には愛想と、能書きを滅多やたらに売りつけられるものだろう。だからなのか覚束おぼつかない身振り手振りや口振りも悪印象を助けるばかりで、結局のところ、秀継のなかに彼をたよろうとする気持ちが芽ばえるかと言うとそうはならなかった。


「利得の無いことに、時間を費やせる人がいるとは思えない。堤は、ボクの知る枠外にいて、そう言うことを平気でやれてしまえる人間なのかもしれないけど。少なくとも、堤の持ち合わせがボクに結果的に『情報に値しない』ってそう、判断できたら、この話は無かったことにしてくれる?」


 秀継はおもったままを口にしていた。無論それは、非論理的な行動に出たかもしれない誰かをあっさり見限るような意味あいだった。


「はあ、」


 堤も、おんなじ悟ったような口で答えた。


「それじゃ、一杯奢ってくれよ? 手付てつけ金ってやつだ。さすがに無償でゴホーシする趣味は、と言うか、これはそう言うこころみじゃない、君の意識を強化することに意義があるんだぜ。これからの話は全部君のためだ。だからせめてっ、途中でのどが渇く分には面倒看てくれないと、嫌だよ、」


 はじめから、対応にはそれが効くと分かっていたのか、まるで下手に出てこちらに媚びようとする物言いだった。

 秀継はただし、こいつは、ひどいやつだとはっきり断定した。

 それで、在る最もアルコールの入っていない葡萄酒を注文してやった。来たものにはスパイスがふんだんに使われて、すでにまき散らされた臭気と混ざってよりひどいにおいをかもした。堤は(こちらが)待っていたように首を捻って、しかし殊更にあおって見せたのだ。


「……君は、かわいい顔をして、なかなか肝が据わっているね」褒められたとは、思えない陰気なトーンだったが。「やはり、俺はまだ焼きが回ってなんて、居なかったみたいだな」堤は重々しくとり上げた。


「初めに、伝えておくべきことがあるんだ。この塔には誰しもが『世界一』と認めるタカラと、そして美女――おっと、美少女、か。それがある。君は、これからどうしても彼女たちに会いに行くことになるわけだよ」あるいは、と早口に。「俺のように、中途半端でやくをうしない、それで零落れいらくしちまうか。どっちもどっちの、どっちかだよ」


「どうして、下りないの?」


「『下りない』んじゃない。『下りることさえ出来得ない』んだってこと。それが塔であると。俺の推理だとね、ここには絶対的なルール。規律。法則。それがあって……破ろうとすれば、どれだけ内部に貢献した人間でも、オチる。示しがつかないんだろうね。言ってみればなんてこと無いよ。君や、彼女であるなら、決してこれからどうにでもなることよ」


「そう。それで、あの嬰児こどもは、何?」


「あれも、役割だよ。君たちと形は似てるけど、背負ってる職責も全然違う、本当に影なんだと、思うよ。目視していると言うことは、君は、ちゃんと対峙できたんだね、」


 確認か。それとも自問自答なのか、しかしもはや男に対しての分別ふんべつは麻痺してしまっている。


 ひとまずそこで前者だと取った秀継はかたく頷いた。「そうか、」


 堤は質問者としての表情をしなかった。


「確証は、無いけどね。いやだから、情報なのかな、」「どうしたの?」「いやね、思うに、君は人間と言う生き物を見て、彼らが可能性に満ち満ちているんだっとは、考えられるか?」「分から、ない」秀継は右手でひだりのそでを掴み、ばつの悪そうに俯いて言った。「あぁ。この場合の『可能性』ってのは、言い換えれば『偶然性』って意味になるよ。人間は自分に起こるすべての道を、そのとき、かならず自分の判断で選び採って行けるか? 、ってこと」すると秀継は、「見方にもよる」と述べて、今まで自信喪失のあまり蒼ざめてさえいた顔の皮ふをフラットに、張り詰めたのであった。


「ボクに限らず、人はどっちつかずのが一番気持ちがいい。落ち着くし、気がラクで。どんなにファジーな問題でもファジーで返せば相殺必至」


「ん、雨宮くん?」


「そう、聞いたし、ボクも思った。結局、事実が『偶然』と『必然』どちらにしても、自分による理解が一番重要で、むしろ、それしかない。それで、人が求めてるのは、いつもい結果のはずなのに、都合が悪くなると今度のさは過程に向いてしまう」


「人は、そう言うものだよね。一辺倒と偏屈をき違えてる。だから、理路整然とした現実はいつでも、だれの目にもこくに見えてしまうんだろう」


 意見が相違することなく一致する。そうしたことも、この塔のなかでは珍しくもない。ただ如何いかに周りへ、それを真意で、それが真理でないと知らしめるのかと言うのが肝になるはずだ。


「役ってのもね、需要があるから存続してるってわけでもないんだ。それなのにどうして? 誰かとか、社会とか、自分の無意識とか、そう言うのに『やらねば精神』を植え付けられた人間はおのずと、先走ってことを起こしやすいものじゃない。無知なのは罪だ、って言われるのはその所為なのさ。まったくねえ? 知らないことは幸せだってのに、」


「幸せは、自分で見つけるものじゃないの」


 秀継は臆面もなくこたえた。


「違うね! さっきも言ったじゃないか。もし、俺たち全員が『可能性』に幸福の在り処を左右されるってえなら、幸せ噛み締められるのは他人の幸せむさぼって、それで、まぬけ面でも暴していられる無分別のヤロウだけだってなああ!」


 堤は吼えて、たぎって、それで叫んでいた。


「聞いていない」


「……そうかい。少し、荒ぶってぃまったようだね」


 会話を始めて、ようやく今に秀継は実感した。「これで、一杯分は、割に合わないっ……」ぽそりと口をついて出もしたけれど。ついに、塔にまつわる情報とやらは人たちの探求心の所在と、赤子の影のことを少しばかり知れただけで、済んでしまったのだろうか。

 ようやく失言のほとぼりが消えてくれたであろう時間に、沈着冷静な横顔へ、伸び放題の白髪しらがを垂らした、堤は言った。


「俺は、だいぶまえに間違えてたらしい。何を間違えたのか、自分でも分からないほどにひどい間違いだった。それで、だ。俺の言い分はなんの助言になること無い、それこそ、君から必要とされない限りは事実無根、徹頭徹尾、ぁな、四字熟語並べたのは間違いだったか」


「堤は、自分で必要を貶めているだけじゃないの?」


「そんなことはない。そんなことは言うもんじゃないぞ。ああ、俺って熟語に関してはあまりのすごさに才気走ってるくれえ(だ)けど、どうだかね、四字熟語ってものの理不尽な説得力が気に食わないのさ。ニッポン人は短縮形にどうしてそれほど固執するのかねえ?」


「そんなこと、気にしたためしがない」


「そかそか。今時『略語』の使えないニッポン人ってほうがむしろ、稀有な存在だろうからね。気にする方がおかしいか。って言うか実際、俺だってとっさに聞かれればわけ無いよ」


「どうして、か、分からないけど……きっと伝えたいことがないから。調子だけ、向こうが知ってくれたらいいんだと思う」


 秀継が一人合点のいった表情をして、堤のほうは、素知らぬまぬけ面で誤魔化した。


「まあ、何にせよ俺の引き出しってものはこれだけだ。君と議論できるほどもない。空っぽなのさ。ジンセイ経験でどうにか知識とかボキャブラリーは身につくけれどね、それで、面白い人間になったかと言われたら、そうじゃない。じゃあ人間の価値はどこで決まるってのさ?」


 堤は言った。座位がきつくなったのか大げさに立ち上がって、焼け跡の肌を撫ぜたり、古く汚れた共切れなどの張りついた腰を回したりしながら、凝り固まったからだを入念にほぐしていた。


 それに、内ももをさすり聞いていた秀継は、間髪入れず答えた。「それは……ボクには分からない」長くたわんだ太いまつ毛を目蓋とともにしばたかせて、肉のあぶらにてらてら輝いた口元を強くむすんだ。


「君にしては、なんと言うか煮え切らない答えだね」


「ボクの何を知ってるの?」


「まあ、そう言うなよ? 酒を酌み交わした仲じゃない。主に、飲んだのは俺だけど」


「ボクは、きっと妥当に評価されていたと思う。両親や大人の言うことに沿えていた。どんな言葉でも理解できた。誰の栄光にも、すがらなかった」


「ふうん、」


「それでボクは、人間的に優れていると確かに認められた」


「ああ。そう言うことね」


「でも、ボクは誰のことも評価できてない。何として取ればいいのか、分からない。だからきっと、ボクの価値を知っている人は大勢いるのに、ボクは、自分の価値を分からないままだ」


「大事な人――とかは、居ないのかい?」


「どう、大事なの?」


 秀継は淡々としてまえを、見据えていた。「どうとは、そうだね、命に代えても守りたいっ、とか。ずっと一緒にいたいっ、とか。それなりのアレがしたい、とかね」「無粋なことを訊いた」「そうかい。そう思うなら、君にも居たわけだね」と、堤は席に戻った。それでカップの底のふちに集まった残りかすをちびちび啜った。終わると、はじめて秀継から譲られた酒気に手を伸ばした。


「そんなに大事なら、なぜ君はその子を伴わずに、塔を目指してきたのかな、」


 しばらく、少し口に含んで遊ばせてからすべてを飲み干した。下顎には薄紫色の泡がついて、垂れてきた。「はっ! それで、あれだけ持論を述べ立てるのに恐ろしさも無かったわけ、か」着衣で滑らせるようにしてそれをぬぐった。


「君の言うとおりにさ、すべてには優劣が決まっているとおもう。いや、勝り劣りを決め損ねたものがもし現世に許されるとすれば、そこにはきっと『未来』『将来』、なんて都合のいい代物しろものは存在しないだろう。たとえば明日ぼくが夕食に麻婆茄子をチョイスしたとして、冷蔵庫と会議の結果、チンジャオロースに変更せざるを得なかった。でもね、それは妥協したわけじゃなくてね、食材が無い事実が欲求にたんに勝っちまっただけなのさ。俺たちの判断には理性とかそう言う小難しい理由もつきまとうが、一歩距離を取ってしまえばなに、すべてが勝ち負けに囚われてるって知れるはずだ。ちなみに、肉と茄子が食いたかっただけなんだよ。理想が理解に敵わないなんて生易しい話じゃない、人間のありとあらゆる思わくは、現実に用意された事実に対して優劣をつけることにしか機能しないし、それだけの権能しか持っていないとも気づかないものであると、な。つまりは、初めから俺の思わくがフリーダムだったなら、勝ち負け問わずにチンジャオロースを食えると言う『未来』が無かった。君の潜在意識に『その誰か』が居なければ、きょう塔に入ってくるって『未来』も、あり得なかった。いいことだろう」


 堤は、笑っている。「だから君がその誰かを、見限ったのは、事実としては全く必要な工程だったわけさ」「『見限った』……?」「そうだ」堤はこのやりとりを楽しんでいた。


「この塔ってものはな、ただ一つの幸福しか示唆しさしない。認めないってわけだ」


 堤はなぜ、結論を急がなかったのか。

 それはここで秀継にまさしく、納得させるためであったのだろう。


「もはや、影も、何もない。君はここを上まで極めるしか、二度と幸福を得られるすべは無いんだよ」


 ただし秀継は受容の難しい言葉に顔をしかめるばかりだった。それでも男は自身の言い分を振り切ろうとはしないで、「それが、俺の売りたかった情報だ」と告げる。


 だから、彼は本当に、情報屋などではなく、いびつな処方箋を売り歩く一介の薬屋なのだ。


「俺には全部は分からない。だがこの場所が、マニュアル外のことにほとんど無頓着むとんちゃくだってことは、分かる。――影を殺せ。どれだけ食い違っても、その持論は棄てるな。確かに君には素質がある、でも、いつそれが失効されるかわからないんだ。慎重を心がけて」


 傍目に見た堤と言う人物は、他人にものを話すのが好きである。また、真理をさとすことにたけている。今や胡乱さは、老熟した人間が醸す独特のそれではなかったのか、とさえ思う。


 そうであったから、なおさら、気が向いてしまう。「堤、は……幸せが、ほしくないの?」「そんな滅多は無いけど、」彼の語調は明らかによわよわしくなる。

「俺は、もう上にも下にも戻れあしないのさ。完全に閉じ込められてる。俺自身がいつかにくだした、向こう見ずの所為で、な」


 やはり。秀継にもはっきり思えていた。


「でも、堤は、幸福を知っているように見えた」


「ありがとう。でもそれは感情だ。とうの昔に終わって、過ぎ去っちまった感情で、人は気持ちだけでも幸せになれることはあるんだ。けど、それを錯覚したら、だめだよ」


 堤は、酒のなごりを紅潮した頬に見せて、ようやく「酔ってたかな」、その心地よい睡魔や浮遊感を自覚したようだ。


「悪かったね。ためすようなことを言った。俺は、本当不器用なんだと思うよ」


 堤は言った。


 向かい合っていた秀継は、くたびれたジャージの裾を直しながら、立ち上がった。「でも、チンジャオロースは作れるんでしょ?」大きな目をあでやかに細めて、柔らかくほほえんだ口で、彼はこたえた。


「そうだったね」


 堤も、おもわず苦笑を浮かべていた。

 そんな彼に秀継は、折り目の見当たらない新札一枚を残し、別れを告げたのである。


          ※ ※◆※ ※ ※ ※ ※ ※


 第二の試練場はたやすかった。影は判然として人間に成り切っていたけれども、秀継にとって、触れることなくただ木の棒を振りかざすだけで一蹴される存在であるから、対峙してからものの五秒ですべての戦いは済まされていた。果たして、同伴者の少女は退屈と、無理解の板挟みに合い、最中の心境とはひととおりでなかった。


 それに、予想外なほどに彼女の傷の深刻化が早かった。当初の1階層では、何、靴を履いていないじゃないかと冷笑していたはずが、次に、気がつけば立ちとどまった場所に血溜まりが出来得るまでに至っていたのだ。さすがの秀継も目下の凄絶さには圧倒されて、「お前ばっ! おんぶとか、おいってやめろ! 後頭部噛みちぎるぞっ?」朱色の顔でもって一生懸命な抵抗を見せてきた彼女を無理やりに背負い、階段まで歩いて向かった。


 しかし、結局手当ては自分ですると言い切られ、事実上の戦力外通告を受けた。そうした首尾だったのだから、当然に休憩の場では、綺良と口をきかないように心がけるしかなかったわけである。


 しかたなしに秀継は、場所の入口に立ったみすぼらしい恰好の子供に、「ここはどこ?」そう訊ねたあと、「奇麗だね。おおがね色だ」と言われた理由で五〇〇円玉を渡し、「ここはね『クレー』って(言う)んだよ」そこについて知ることができた。子供は身なりのわりに悧巧りこうで、「あそこの、」指を差し、「武器商さまから、武器を買っておねがいを言わないと、登らせてくれない。武器はすごい値段がするんだ。でもっぼくなら、タダにだってできるんだよ」あからさまに嘘をついた。たぶん子供のほうもそうだと知って、言って居た。


 秀継は案内を頼んだ。例の武器商のもとへ行くと、刃状や槌状、手斧ちょうな状、槍状などのすべて物騒が敷き詰められて、法外な金額の値札がぶ厚くたばになっていた。「どうして、タダにするの?」と、秀継は訊いた。「簡単だよ。ぼくが武器商さまに値段分の働きを約束するよう、おねえさんが言ってくれればいいんだ」と、子供は答えた。その秀継にはよく理解できなかったから、頭を撫でてやるだけして別れた。


 この塔と言う特殊環境のなかで、子供はきっと何よりたくましく、残酷である。そして、秀継は、自分がどれほど子供との関わりにそぐわない人間なのか、と思い知っていた。


「……何をしている」


 ややもして立ちすくんでいると、聞き覚えはあるもののまだ馴染み切っていないひびきがするので、素早く振り返った。「綺良きら、」その彼女自身からの再度接近に、強い安堵感をおぼえた。


「それ、ほしいのか?」


「ん」秀継は無意識に、近くのさやの浮き彫りがうつくしい短刀に手を、触れていたのだ。


 すると綺良は徐々おもむろに財布をとり出して、さらになかから幅一〇ミリはあるかと言う紙幣のそれをのぞかせていた。


「いいよ。買ってやる」


「一三万?」


「ギ、ギリギリ、だけどな」


 綺良はそれをお買い上げになった。無論、宣言どおり次には秀継の手元へと渡った。

 随分と金払いのよかった綺良の、そして、残高は一千円を切ったのだ。


「戦うのか?」


「実質に何も得られないから、立ち向かわないのは、おかしい。それに影たちも何か、目的があるからそこに居続けてるんだと思う。結局、対峙しただけで何も分からないのは、そうだけど、」


「はあ。……なんか、精悍せいかんと言うか、生き生きしてるよな。オッサンに激励でもされた?」


 綺良と広場の隅に出た。そこで座って、お互い正面だけを見据えたまま話していた。


「え。いや、そうじゃない」


「じゃあ、何?」


「塔の、解釈をしった」


「ふうん。『塔』って? ここのこと?」


「そう」横目に、変わらずの仏頂面でいた彼女を惹きつけたいと、そこで強く願えた。自分の今胸にあるその刃でさえ、猛々たけだけしい感情がかならず根づいているように錯覚できた。


「この塔自体が、たった一つの幸福を示していて。それは一般にも、主観にも、ボクたちの倫理観にもつうじ得たもので。それを受領する素質のある人間だけがここに招かれて、おのおの幸福にたどり着こうとしている、と聞いたし、ボクも考えた。ここは『概念の具現』だ」


「なんっだ、それ。あたしにも分かるように言ってくれ」


「綺良は、誰もがそれを一番だと認めるものがあると、思う?」


「ある。カネと、他人を従わせる力」


「それは、」


「あり得ない、って言いたいのか? いや現に、お前が今思ったあり得ないって『常識』が、あたしにはあり得ない。人を従わせるってそう言うことだ。殴って、脅して、パシってやらないと従わないヤツのほうがよほどマシに見える。理不尽を広い心で受け入れたんだぞ? それが常識じゃない『理性』だ。常識って言うのは自分の、言うこといちいちに自信が無い、絶望できない、自分の程度を忘れたってときに、なんの根拠もないくせに正論しやがる理不尽そのものなんだよ……。あのさ。秀継は、そう言う弱いヤツだってあたしはね、思えないんだけど。本当に、さっきのはお前の意見だったのか?」


 こちらを向こうとはしないし、手も上げない。ただ綺良は切実な言葉で、熱のこもった声で、訴えかけて来た。彼女の言葉とは堤の、いや秀継のものと大きく食い違った。正直秀継はどちらに傾倒すればよいのか見当もつかないで、無表情ですっかり尻込みしてしまっていた。


「そうか。仮に、お前が本心から言ってたんだとしても、そうじゃなくても。あたしはもうどうでもいいよ。あたしのも俗論中の俗論だ。結局お前を納得させても、どこに連れてってやればいいのか、その辺はなあんも考えてなかったんだよね」


「そんなことはない。けど、」「オッサンの言い分と全然違うってか?」それに秀継は頷いた。


「あたしバカだから、秀継の力にはなれないよ」


 それに、秀継は首を横に振る。


「綺良は、バカじゃない」


「バッッッッカだよ。夜なかにジャージで外ほっつき歩いてたからな?」


「それは、バカだ」「そうだろっ」と、軽薄に笑っているけれど、「でも、ボクは展望台から飛び下りようとした。それは、バカじゃない?」秀継の言葉には「大バカだな」悟り澄ましたような表情をして、そしてようやく彼のほうを見つめて言ったのだ。「だから、綺良。今のはボクの意見、解釈だった。今、ボクはあのときに死んでいたのならきっと『幸福じゃなかった』と思ってる」また紅顔の彼も、おそるおそる視線を交わした。


「そうか。じゃあそれだけで、ここには来てよかったんだな」綺良は、なぜだか心底嬉しそうな調子で、きつい目つきを和らげていた。


 どことなく優し気で、しかしかたくななところはかたくなに、奇麗な笑顔を浮かべていた。


「分かった、」 


「何が?」


「お前の言いたかったことだよ。ばあか」


 間髪入れず訊くと、そのままに答えが返ってきた。


「……いいの?」


「今さらなに不安そうにしてんだよ。あたしにだって、ここにあるものがシアワセだって思ってた時期が、あったんだぞ」


 答えとは、あまりに知的で簡潔だった。彼女らしからぬフレーズには間違いなかったはずだ。

 だから、とたんに肩や鎖骨の露出したオフショルダーの上着を、巨尻の映えるタイトなズボンを、何もかもを、脱ぎすてたことにはさほどおどろきも無かったものである。むしろ秀継は呼応して、自身の特長も知らずに脱衣をはじめてしまった。双方が元来の衣装に戻るには、それから約一〇分を要した。


「どうして、すぐボクと服をとっかえっこしたの?」


 秀継はそこの暑さにはじめて気がつき、肉の薄い胸板にすき間から空気を送り込みつつ、問いかけていた。


「一つは、かわいかったから」ジャージのズボンの余った裾をたくし上げて言う。「もう一つは――まあ、気分転換と、離れないようにって、」「それは二つじゃない」「うるさいなっ! ちょっとした思いつきだったんだよ!」


 とそこで、綺良はすくっ、しゃぢっ、と音を立てる勢いで起立する。「思えば、たいして話もしなかったな、わたしら、さ。会ってすぐに飯食って、寝て、キショいのから逃げて上がってきて、それでまだ二日だってのにもう金も無いんだよ。ケッサクな。ほんとただただ状況に流されまくってたってことか。しかたない」尻の砂を念入りに払う姿もなんとなく美しかった。


「だから、秀継。わたしは下りるよ」


「どうして?」


「本当に、流されていただけなんだ」


 そして、見つけたのはこの二日間に無かった清々しい面持ちだった。


「別に昔のこと、どうこうしたいって主義じゃあないけど。あたし、ギョウセー人の家に生まれたからさ、何かと世間体気にしたり学歴気にしたりして来たわけよ。いや、しなきゃいけないの間違いだけどね、今はどうでもいい。ただなんて言うか……こだわりの無い生活って、すごくみずみずしかった。あたしには理想的だったと思うよ。自由どころか、親の上司に真っ向から対立してんだからさ、それだけ自分が、大きくなったのかって気がしてた。実際、気はほんとに大きくなってた」


 ちょうど、追憶していたところである。秀継の頭には明確にそれがイメージされていた。

 階層を踏破するのに数時間、一方それは過言でも一時間のつき合いだけに違いない、けれど、実体のない何かをひっしになって伝えようとする意思と、別れぎわの清々しさは十全に分かり切って、つまりたった今に彼のなかで想起されていたのだ。


「だから、あたしの根底はどうであれ、結局はそのときの油断に流されてここまで来ちまっただけだよ。お前の言うことも全然分かってない。戦いたい、って気持ちもな」


 いつか、また彼女のその無頓着ひょうじょうも、追憶されるのだろうか。


「じゃあ、なんでこれ、」


 秀継は鞘に納まった短刀を出した。


「まあ、せめて下りるまえにお前には何かしら、しておきたいって思ったんだけど」


「綺良は……ボクに、何を願うの?」


「『願う』? 『たくする』の間違いだよ。もうわたしに行こうとする目的はないし、たとえ、な。秀継、お前の、おともしようってもカネが無ぇ。だから下りるのがどのみち正解だってよ」


「なら、ボクがっ」「稼ぐって?」「そう……」「あぁ。そんなこと、危なっかしくって頼めないでしょうが!」綺良は高い位置から腕を、彼の頭に向かって振りおろした。叩かれたのと、そのあと撫でられたのが、結局何を意味していたのかは理解できなかったのだが。


「あたしの決断だ。それに、お前に指図されるいわれもない」


 と、乱暴に告げられて。


「いいか秀継、あたしはな、自由であることがシアワセだとは思わないぞ。自由って言葉は、使ってるうちにその人間自身をしばりつけるもんだと、あたしは思う。だから、あたしはここを下りるべきなんだ。――一番信用ならんのは、ルールと、そいつを断定してやろうって心だ。そんで、一番鼻持ちならねえのはっ、やっぱり、『主人公気取ってるヤツ』だよなっ!」


 なんだか要領の得られない彼女の言い分だったが、ようは彼女らしくてよいのだと、秀継は思っていたはずだ。

 それで――二人は「クレー」での会話を最後に、本当に別れてしまったのだった。

 秀継は次の階段へ。綺良はもとの階段へ。

 無論、どちらが正しいのか知れている。彼女は邪推が過ぎていたから、こうして、如何いかにもまっとうそうな論理でもって間違いを選び採ってしまった。もはや吾々われわれにも彼女がどんな不幸に見舞われるのか、想像がつかない。だが、敢えて明記するのなら、『これが塔である』と。

 彼女は自由こそ不自由だと考えて居た。直接、そして結論ではないけれども、はっきり塔の職能について理解していた証拠である。必ずしも思考と行動とそれら客体性が一致するとは限らないから、そうだとまさしく言えよう。彼女は絶対的に真理に近づいていた。

 しかして、理解と理想は噛み合わず、実際に「宝物ほうもつ」とされるそれは執行される余地がもう無くなってしまったわけだ。塔はつねに「世界一」だと明らかにしてきたのに、時機をみすみす逃した。だから彼女の行いは『正義ではない』となる。

 けれどどうだろう? 塔における正義とは、果たして誰に向けた正しさなのか?

 そこで展開された「世界一」と「宝物」は、あまねく挑戦する者たちに対して明示された褒美だった。詰まるところその正しさとは彼らに向けて設定されたものに違いない。

 実質の真理到達者を下ろして?

 正義はどこに見せられ、誰に認知される?

 とうに疑問化され、けれどほとんど死にたいになったようなそれら不明瞭さは、一体どうして解決されるのか。ある男とある少女とは、そんな退屈でしかたのないことを、一所懸命に突き止めようとしていたのだ。あっけなく。第一幕は閉じられてしまうだろうけど。


「……ボクは。誰かのために、一身をけられると言う状況を、受け入れられない」





 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――






第3話  君をつれていくから

 すべてには因果がつきまとう。結果でも認識でも情報でも、何かしらの歴史を残して消えていかなければならない。足跡は確かに。けれど空ろで、一見するとどこにもないようなものである。だがある日に突然、道を見失って。また、自分がそんな事態に巻き込まれたことにすら気づけないで。それでも、人は生きて、行かなければならない。





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