第6話 決意


 トントン、と誰かが部屋の戸をノックする音が聞こえた。

 まだベッドの中にくるまっていたミラは、眠りの世界からすくい上げられる。ちるちる、と遠くで鳴いている鳥の声が朝の訪れを告げていた。肌触りの良い毛布から離れるのは名残惜しいが、今日から始まる授業に遅れるわけには行かない。意を決して体を起こし、ノックの主であるティアーラを部屋の中に招き入れた。


「ミラ様。おはようございます。朝のお支度に参りました」

「……おはよう、ティアーラ」


 いつもと同じように朝の挨拶を終えたティアーラは浴室の方へ向かい、温かいお湯を準備する。用意してくれたティアーラに礼を言って、ミラは顔や手足などをお湯で濡らした布で軽く清めて、すみれ色の制服に着替えた。それから鏡台の前に座ると、ティアーラは腕を鳴らしてミラの髪と格闘しだした。


「お嬢様の髪は頑固ですね。特に寝起きの髪は……お風呂上りはとても素直でいらっしゃいますのに」

「そんなこといわれても……」

「もちろん、これをなんとかするのが私の仕事でございますので、そのままで構いませんのよ」


 そう言って微笑むと、ティアーラは優しくミラの髪を撫でた。


「本当に綺麗な夜空色の髪ですのね」


 小さいころからティアーラがそう言ってくれたから、ミラは自分の髪の色が好きになった。彼女のお陰で、ただの紺色が、大好きな夜の色に変わったのだ。


「今日は一つにお纏めいたしますね」

「うん」


 何度も櫛を通してようやく艶々になったミラの髪を、ティアーラが金色のリボンで結んだ。夜空のカーテンのような髪が、月から紡いだようなリボンで縛られ、ミラの華奢な背中で揺れていた。

 その仕上がりに満足げに笑うと、ティアーラはミラの背中を押した。


「宙の姫君。いってらっしゃいませ」


 いつもは無駄なことなどほとんど言わないティアーラが、そう元気づけた。昨日のミラの様子を覚えていて、気を使ってくれたのだろう。その優しさがじんわりと胸にしみる。

 もう、昨日の失敗なんてミラは気に病んでいない。ただ、その代わりにもっとひどい胸の瞳を知ってしまったのだけれど、それは胸の内に秘めることを決めた。


「ありがとう、行ってくるわ」


 窓の向こうに広がる青空を背に、ミラは意気揚々と部屋から出た。近くの部屋から同じようにすみれ色の制服を纏った女子生徒が顔を出す。彼女とぱちりと目があい、心臓がドキッと高鳴る。その動揺を顔に出さずミラはにこりと笑った。ミラの笑顔に、女子生徒は怪訝そうに眉を寄せると、すぐそばに歩みを寄せ、キッと眦を吊り上げた。

 笑顔を見せることにさえなけなしの勇気を振り絞ったのに、その勇気が急に消えていくのを感じた。嫌な予感にお腹の底まで冷えきる。


「……ミラ様。私、ユリエス侯爵の娘、アストラと申します。大変失礼ですが、昨夜の振る舞いは何ですの」


 アストラの言葉に、新入生の女子生徒たちでさざめいていた廊下はぴたりと音が止まった。何があったのかと伺うような好奇の視線とが二人に集められる。たくさんの視線に身体が竦むミラと異なり、アステラは力強く言った。


「あのあと、貴女のお兄様、スコル様がどれだけ苦心なさったか、お分かり?」


 何も言えないミラに対して、苦しそうに唇を噛むアステラ。そんな彼女の言葉で思い出した。アステラは、昨日兄を囲む令嬢たちの輪の中にいた一人だ。

 ミラが走り去ったあとの会場をスコルが仕切りなおしてくれたことは、ティアーラから聞いている。会場の空気を仕切りなおしてくれた兄のことを一番近くで見ていたのだろう。だからこそ、彼女の目にはスコルが仕方のない妹を助けるしっかり者の兄に見え、ミラが優秀な兄にしりぬぐいをさせる不出来な妹に見えたのだろう。

事実、その通りだ。ミラはずっと兄の優しさに甘えている。


「これ以上お兄様に迷惑をかけるのはおよしになったらいかがかしら。他の『兄』を作ったらよろしいのではなくて?貴方の兄になりたがる人なんていないでしょうけど」


 綺麗な顔を歪めて、アステラは呆れたように視線を逸らした。チクリとした言葉にドクンドクンと自分の心臓がうるさくなる。


「アストラ嬢」


 何も言い返せないミラに代わってアストラを諫めたのは、聞きなれた兄の声だった。手が出そうなほどに、近くにいたミラとアストラの間に割って入り、ミラを後ろに庇い、静かに彼女に目線を合わせる。


「スコル様……」


 予想もしてなかった人の乱入に、アストラは押し黙った。彼女にとってみれば、スコルはもっとも嫌われたくない人。正しい主張だとしても、ミラを糾弾していた場面を見られたことを恥じるよう、床に視線を落とした。


「人から見れば不出来な妹かもしれないが、これでも可愛い妹だ」

「……知ってますわ」


 スコルの言葉に押し黙ったアストラは、行き場のない怒りでミラを睨み付けた。

 自分は何をやっているんだろう。兄に迷惑をかけ、アルディランに庇ってもらって、レグルスに気を使ってもらって、全部自分が未熟なレディだからと諦めている。

 今もそうだ。何も変わっていない。一人では何もできない子供じゃないか。震える手を握り、ミラは一歩前に足を踏み出した。

 変わるために、立派なレディになるためにノイモント学院に入ったのだから。


「アストラ様、貴女の言う通りですわ。私……」


 兄の背中から飛び出して、アストラの瞳と向き合った。逃げたい気持ちを抑えて、彼女に届くように真っすぐ、射抜くように見据えた。


「『兄』を探します。もう、兄さまに迷惑はかけません」

「おい、ミラ」

「……言いましたわね。二週間後の誓約式を楽しみにしてます。納得できる人でないと許しませんから」


 言ってしまったからには、背に腹は代えられない。覚悟を持って頷くとアストラはフッと笑った。そして、くるりと背を向け、反対方向に歩き出す。

 さらに嫌味を言われると思っていたミラは、あっさりとしたアストラの態度に拍子抜けして、去っていくアストラの背に思わず手を伸ばした。そして力なく手を下す。呼び止める理由を何一つ思い浮かべられなかった。呼び止めて何になるというのだろう。


「いいのか?」


 同じようにアストラの背を見送って、スコルはミラに問うた。

ミラに『兄』ができるとしたら、その容姿に惚れた男が言い寄り、それに世間知らずな妹が流されて成立すると思っていた。選ばなければ簡単に『兄』はできるだろうが、アストラが納得する『兄』となると話は変わる。アストラの言う『兄』はスコルと同じ程度を求めていた。家柄も、学力も、容姿もそれなりのものを求められる。

 そんな『兄』をミラが見つけなければならないのだ。

 優秀な『兄』であればあるほど、『妹』になりたい生徒も『姉』になりたい生徒も増える。ミラ一人だけの戦いじゃない。競争相手は、かなりの数いる。


「……手助け、いるか?」


 断られるのが分かっていても、聞かずにはいられなかった。兄に迷惑をかけないと宣言した手前、ミラは首を横に振るだろう。変なところで律儀な妹なのだ。


 案の定、ミラは助けの手を拒んだ。それに異を唱えるスコルではない。

 強くあろうとしている妹を、じっと見つめた。手がかかる妹が可愛かった。幼いころは妹なんて面倒だと思っていたのに、頼ってくれることが嬉しかった。スコルがなんでも器用にこなすようになったのは、ミラのお陰。あれこれ手を貸しているうちに、秀才だと呼ばれることも増えた。リラエを『姉』に選んだのもしっかりしているように見えて世話が焼けるところがあるせいだ。彼女たちのおかげで人の世話を焼くことが、すっかり板についてしまった。

 はぁ、と大きく息を吐いてスコルはミラの頭の上にぽんと手を乗せた。

 さんざん世話を焼かせるくせに、スコルが助けたいときには助けさせてくれないのだ。

妹も、そして『姉』も。

 それが悔しくもあり、成長していく姿を見ていくのが楽しみで仕方ない。スコルが手を貸さずとも、彼女たちは勝手に強くなっていく。

 綺麗に結ばれた髪を乱さないように軽く撫でてスコルは口の端を少し持ち上げた。


「頑張れ。困ったらいつでも頼ってくれ。話を聞くぐらいならいいだろ」

「兄さま……、ありがとう」


 兄に聞かせるのは強気な言葉だけでいい。それ以上弱音を吐いてしまわないようにミラはキュッと唇を結んだ。








 ノイモント学院一日目の授業は思った以上に大変だった。数学、歴史学、それから天文学などの授業はミラの得意分野だけあって面白く、先生からもお褒めの言葉をいただいたが、何よりも苦労したのは一般教養だ。

ダンス、食事のマナー、ドレスアップ、王宮へ行く際のマナー。クラスメイトたちは基本的なことをすべて知っているからか、授業で教えられることは基礎の一歩先をいったハイレベルなもので、最初の一歩さえままならないミラにはさっぱりついていけない。

先生に呆れられながらも、居残って練習しどうにか基礎は卒業できたものの、それは到底クラスメイトに追いつけるような出来のものではない。

 これからの学校生活に不安を感じつつ、レッスン室から教室に戻ると、窓の外は茜色に染まっていた。当然、クラスメイトは誰一人残っていない。溜息をつきながら窓際、一番後ろの自分の席についた。

今朝のアストラの一件があったからか、クラスメイト達は遠巻きにミラを見るばかりで、話しかけてくれるような人はいなかった。ミラもまた、レディ然とした少女たちに気後れして話すことができなかった。最大のチャンスだったダンスレッスンで失敗してしまったのも大きい。生徒同士でペアを作り、何度かパートナーを替えながら練習しているうちに自然と生徒同士の輪が出来ていたらしい。先生がつきっきりで指導してくれていたミラを横目に、レッスン終わりに楽しそうに談笑しながら教室へと戻る生徒たち。その姿を羨ましいと思わないと言ったら嘘になる。ほんとうは誰かに相談してしまいたい。

 『兄』を作ること、スコルを頼らないと決めたこと、本当は自信がないこと。

 強気に兄とアストラに啖呵を切ったものの、『兄』を作るためにどうしたらいいかわからない。

教室で一人頭を抱えながら、ぼんやりと窓の外を見ていると、窓ガラスに教室の扉を開ける人影が映った。

 忘れ物を取りに来たクラスメイトか、それとも放課後の教室を見回る教師だろうかと身構えたミラの予想を裏切り、その人は驚いたようにミラを見つめたあと、嬉しそうに破顔した。


「ミラさん!」

「アルディラン様……?」


 ミラが彼の名前を呼ぶとミルクチョコレートのような青年は、甘い笑顔を浮かべた。


「ダメもとで教室に来たんですけど、本当に会えるなんて、ラッキーですね。ちょっとだけお話してもいいですか?」

「もちろんです!」


 慌てて立ち上がったミラに、座ってくださいと笑顔を浮かべ、アルディランは教室の中に踏み入れた。どこに座ってもらったらいいのだろうと焦るミラを尻目に、アルディランは前の席の椅子を後ろに向けて、向かい合うようにして腰を下ろした。さりげない動きが洗練されていて、本当に育ちがいいのだと分かる。教室に入るときも開けた扉も、そのままにして、未婚の男女が密室にいたという噂が立たないよう配慮してくれていた。レグルスといい、アルディランといい、ロイヤルスターの男性はスマートでいなければならないという規則でもあるのだろうか。

 緊張で冷たくなった指先を擦り合わせて、彼の話を待った。昨夜のことで怒られるのだろうか。それとも今朝の騒ぎを聞いての苦情だろうか。

 そっとアルディランの目を見ると、紅茶色のそれが優しく緩んだ。


「昨夜は上手なフォローができなくてすみません」

「そんな……!」


 目を見つめるのが癖なのか、まっすぐに瞳を見て、アルディランはそう言った。心なしかその瞳の中、柔らかな紅茶色が不安そうに揺れている。グラスを割ってしまったのはミラなのに、責任を感じたのだろう。その場から逃げたミラより、残されたアルディランの方が居心地の悪さを感じただろうに、彼は一言も責めるような言葉を吐きださなかった。余計にそれがいたたまれない。


「ご迷惑をかけてしまい、本当に申し訳ありませんでした。アルディラン様は一つも悪くありません」

「……ミラさん!顔を上げてください」


 勢いよく下げた頭を上げるように言われ、恐る恐る顔を上げた。泣きそうになりながら顔を上げたミラにふわりと笑って、アルディランは一回り大きな手で手を取った。

 緊張した様子で一つ息をついたあと、小さく笑ってゆっくりと言葉を紡ぐ。温かい指先の感触と共に、その言葉は柔らかに部屋に響いた。


「今度こそ、守らせてください。僕の『妹』になりませんか?」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

星詠み乙女と金獅子王子~妹になんてなりたくない!~ 弥永みき @nemiminiinu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ