第5話 熱に満たされて
ミラと青年の間には静寂が満ちていた。気まずさと恥ずかしさでまともに目が合わせられない。
突然部屋に現れた青年は、その沈黙を破り、ミラのすぐそばの椅子に腰かけると、マリンブルーの瞳でじっとこちらを見つめた。吸い込まれそうな色彩に、恐れに似た感覚がミラの体を包み込む。
「今頃パーティーでの主役になってるはずの君がなんでこんなところに?いきなり入ってきたから、先生かと思ってびっくりしたよ」
なんてことないように、青年が話し始める。
気が付かなかったが、青年の方が先にこの場所にいたようだ。どう答えようと悩むミラを見て、くすくす笑いながら、椅子の背に体重を預ける。もしかしたらこの場所で眠っていたのかもしれない。
理由は知らないがパーティーに参加していなかった青年は、さっきの騒動も、ミラの失態も知らない。
「パーティーに向いてなくて……逃げてきてしまいました」
「逃げてきた、って……スコルは?」
「兄さまを知っているんですか?」
驚いてそう聞くと、青年はこくりと頷いた。
「友達だしね」
兄と友達だということは、アルディランと友達である可能性が高い。この人には知られたくなかったが、失敗が知られるのも時間の問題になるだろう。それならば、自分の口から言ってしまったほうがいい。
「さっき会場でグラスを割ってしまって、アルディラン様は大丈夫だとおっしゃってくれたんですが、パニックを起こしてしまって、つい逃げてしまったんです」
「アルディラン?あいつは優しいから本気で大丈夫だって思ってるよ。気にしすぎなくていいんじゃない?」
やっぱり彼とも知りあいだったんだ。
下手に人から伝わるより、自分で言ってよかった。ずっしりと重かった心が少し軽くなる。
自分から言えたことと、青年の慰めで胸のつかえがとれると、好奇心がむくむくと湧いた。なぜこの人はここにいるのだろう。どういう人なのだろう。名前はなんというのだろう。
「そういえば名前を聞いてなかったね。マルノ家の御令嬢ということは知っているけど……名前を聞いてもいい?」
同じことを考えていたのか、青年がタイミングよくミラの名前を問うた。
「ミラです。ミラ・マルノと申します」
「ミラ……、ミラ嬢、覚えた!」
年上の男の人だというのに、無邪気に彼はミラの名前を呼んだ。はにかんだ笑顔が眩しい。
「あの、私もお名前をお聞きしていいですか?」
「……さて、どうしよっかな」
今度は子供のように悪戯っぽく笑う。もしかして聞いてはいけなかったのかと、ミラが固まると、青年はごめんごめんと、言ってようやく自分の名前を明かした。
「レグルス。レグルス・フィリアーネ」
「……第二王子、だったのですね」
「あれ、意外と驚いていない?」
「驚いていますよ。でも、それと同時にやっぱりそうだったのかって思っています。レグルス様はどことなくリラエ様に似てらっしゃいますから」
「あぁ、髪の色は少し違うけど、目元は似てるって言われるんだ」
リラエの口からレグルスの存在を聞いたときから、もしかしたら彼がリラエの従弟であり、この国の第二王子なのではないかとぼんやり思っていた。
リラエの金髪はほんのり赤みがかっているが、レグルスの髪は混じりけのないブロンド。小さな違いはあれど、瞳の色も、彼らの持つ雰囲気も、よく似ていた。
「さて、ミラ嬢。送り届けるから、そろそろ帰った方がいいんじゃない?察するに誰にも言わずここに来たんだろ?こんな真っ暗闇の中、男女が二人でいるなんて噂にでもなったらよくない」
レグルスの言わんとすることは分かる。兄も、ティアーラも心配をしているかもしれない。だから彼の言葉に従って早く部屋へ戻るべきだ。でも、ようやく目が慣れてきたのだ。
わざと部屋の電気をつけずに入ってきた理由が無くなってしまう。暗闇に慣れた目でなければ完璧な星詠みはできないのだ。
「五分だけ、星を詠ませてもらえませんか?ようやく目が星の光に慣れてきたんです」
「仕事熱心だとはスコルから聞いてたけど……、いいよ。わかった」
レグルスからの了解を得て、ミラは静かに上を向いた。
闇に慣れた瞳は、最初は捉えられなかった星の光まで捕まえてくれる。国の頭脳を示す東の三連星は今日もその輝きを保っている。それから北の空高い所にある、綺羅星の一団。その中で特別な光を放つ星。ぽってりとした金色の柔らかい光の名前は、小さな王。この国の王子たちをつかさどる星。
その光は一欠けらの陰りもなく、燦然と輝いていた。目の前の第二王子も、会ったことはないが王の執政を手伝っている第一王子も、近い未来に何の障害もないようだ。
ほっと安堵して他の星を見る。王を示す冠の星、王妃を示す女神星、広く国の安泰を示す精霊リヴェアの星も、美しく瞬いていた。赤黒く光る戦乱の狂星もなければ、疫病星の不気味な青白い光もない。いたって平和な星模様に感謝をして、ミラは精霊リヴェアに祈りを捧げた。
「すみません、お待たせいたしました」
「いいよ。というか、今のわずかな星詠みできるの?」
「はい。昨夜の星模様と大きく変わっていませんでしたから」
大きく星模様が変わっていたなら、父親に連絡して王宮に報告しなければならないが、今日のような星詠みなら特別な報告は必要としない。特にノイモント学院への入学が決定してからは、よっぽど大きな出来事がなければ報告しなくていいというお言葉を王宮からも賜っている。引退したスピカも星詠みに協力してくれるそうだから、しばらくはこの体制で大丈夫だろう。
それじゃあ帰ろう、とレグルスは呟くと、ふと何かを考えるようにミラを見つめ、その前に手を差し出した。
「はい、じゃあお手をどうぞ、レディ」
「え、っと」
レディと呼ばれて戸惑うミラの右手をレグルスは構わず捕まえる。ひんやりとしたミラの手とは違い、彼の手は温かくごつごつとしていた。
「さっきはフラれてしまったから、逃げられる前に捕まえとくよ」
夕方、中庭での出来事を言っているのだろう。
茶目っ気たっぷりに笑うと、手を引っ張りながらミラを立たせ、ゆっくりと歩きだした。歩幅の狭いミラに合わせてくれる姿は、物語に出てくる王子様そのもの。そういうものに憧れがないと思っていたミラでさえ、心臓がトクトクとうるさい。
手を握ったまま歩かなくてもいいのに、と隣に立つその人を見れば、マリンブルーの瞳が楽しそうに細められた。ミラの視線に応えて握られた手が離されたかと思うと、また組み合わさり、今度は指と指が絡まり合う。指の一本一本に他人の熱を感じて、ミラの頬は赤く染まった。
「レグルス様……!」
窘めるように名前を呼んだけれど、レグルスは機嫌よさそうに笑うばかりで、決して手を放してくれない。
手を繋ぐのが、こんなにドキドキすることだったなんて知らなかった。
別々の体温だったものが溶け合い、二人の熱に変わっていく。新しい熱に変わるとそんなに長く手を繋いでいたのかと、また恥ずかしくなって、赤い顔を見られないように俯いた。
すごく長い間手を繋いでいた気がするのに、時間にしたらほんの五分くらいなのだろう。ときおり指の腹で爪を撫ぜるような悪戯をした以外はいたって紳士的に、レグルスはミラを部屋の近くまで送り届けてくれた。
キスさえしていないのに。触れていた部分は手だけだというのに。指と指の触れ合いで熱いくらいミラの頬は染まっている。
楽しそうな青の瞳が。ミラのリンゴのような顔を見つめる。そして、にっこり微笑むと、名残惜しそうにゆっくりと指をほどいた。するんと動く指の動きと共に、間にあった熱が無くなっていく。それを寂しいと思ってしまった恥ずかしさに涙さえ浮かんできそうだった。
「ねえ、ミラ嬢」
優しくて甘い声。呼びかけられたミラはようやくレグルスの顔を見た。
「今日、君は恥ずかしい思いをしたよね。それ、全部、俺のせいだからちゃんとここで覚えていて」
ダメ押しで人差し指が右手の甲をなぞった。今度こそなにも言えなくなったミラは口を開けたまま、なんとか頷く。ミラが頷いたことを確認すると、レグルスは照れたようにはにかんで踵を返した。その背中を黙って見送る。
何て優しい嘘をつく人なんだろう。今日、恥をかいたのはパーティー会場での出来事じゃなく、二人で手を繋いだこの出来事なんだと言っていた。
優しくて、甘酸っぱい、背筋の震えるような嘘。ほんの数分でミラの恥ずかしさはレグルスに塗り替えられた。
紅くなった頬を抑えながら部屋へ戻ろうとして、またミラは立ち止まる。右手に彼の熱が移っていた。罪作りな王子様だ。
この場にはいないレグルスへの恨み言をぶつぶつと呟きながら部屋に入ると、ティアーラが赤くなった顔で出迎え、大きな声でミラの名前を呼んだ。
「ミラ様!」
その顔の赤さは、恥ずかしさで染まったミラとは異なり、感情が高ぶったせいなのだろう。泣いていたのか、目元も真っ赤に染まっていた。そんな彼女の腕の中にふらりと倒れこむ。
主人を腕の中に受け入れて、戸惑うティアーラは、ミラの様子がおかしいことに気付いた。もしかしたら熱でもあるのかもしれない、とその額に手を当てる。
パーティー会場での出来事は、会場の空気を仕切りなおしたあとミラを追いかけて部屋まで来たスコルから聞いていた。初めての華やかな場所で、失敗したことへの後悔で知恵熱でも出したのかもしれないと思ったが、どうやら違うらしい。しかし、気晴らしに星でも見てきたにしてはやけに興奮している。
もう一度しっかりミラを見て、少しお姉さんであるティアーラは、その瞳に甘酸っぱい照れくささが隠れていることに気付いた。そうさせる原因はティアーラの知る限り一つしかない。
「ミラ様……恋、されていますね」
途端さらに赤みを増した主人に、ティアーラは確信した。それと同時に安堵する。恋をしたとはいえ、一足飛びに大人の女性になっているわけじゃなく、すぐに顔に出てしまう。
その少女らしさが微笑ましくて仕方ない。一体誰に恋をしたのだろうと聞きたい気持ちを抑えて、ティアーラは彼女の背を押した。
「恋は素敵なことですよ。ですが、明日から授業が始まりますわ。お湯を張っておりますから、ゆっくりつかってくださいませ」
「ええ……そうするわ」
ぽーっとする頭で浴室へ行き、ティアーラに手伝ってもらいながらドレスを脱ぐ。それからシャワーで軽く体を流して、バスタブに足からゆっくりと浸かった。頬は熱いというのに、足先は春の夜風に吹かれてずいぶんと冷え切っていたらしい。じわりとした熱が少しずつ身体を温めていく。
恋をしている。
そう言われて、胸の中に降って湧いたこの感情に名前が付いた。頬が熱くてたまらないのも、胸がむず痒いのも、右手の熱が忘れられないのも、全部恋のせい。
まだレグルスの指の感触が残っている右手に、たまらなくなってミラはひとつ口づけを落とした。
叶わない恋だ。
相手は王子様。自分はレディ落ちこぼれ。
完璧な王子様の隣に立つ人は、素敵なレディに決まっている。
生まれたての恋は、すぐに別れを告げなければいけない恋になった。
まだこんなにレグルスの熱を覚えているのに、忘れなきゃいけない。それなのに忘れようと思えば思うほど、「覚えていて」という甘い声が蘇った。レグルスはミラの失敗を慰めてくれたに過ぎない。それにすがっているミラの方が悪いのだ。
きゅっと胸が締め付けられる。これが恋の痛みだというのだわ。
体を包む温もりの中で、ミラは一人で涙を零した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます