2 問題編

 しばらく水煙草をくゆらせて安楽椅子にもたれかかっていると、ようやく気持ちが落ち着いた。鳥栖さんにいろいろ言われすぎて、頭がパンクしそうだった。さっきから様々な場面で様々な格好に身を包んだ犬塚さんが頭をよぎる。しかし口にする台詞はみんな同じで、それを頭からひとつひとつ消していくのに時間がかかってしまった。

 スマホに犬塚さんからの連絡は特にない。休みとはいうものの、ここへ必ずしも来るとは限らない。来るのか来ないのかはっきりしてほしい。このままでは生殺しもいいとこだ。

「そうだ。暇つぶし用の数独が……」

 数独なんて二年前に解いて以来、全然触れていないけど、今のわたしにはちょうどいいかもしれない。立ち上がって、本棚の中から一冊取り出す。物書き机の上にそれを広げて、革張り椅子に腰掛けてしばらくそれと向き合う。

「ああ駄目だ。全部解き方覚えている」

 前回解いたときは本に直接書きこまなかったので、本自体はまっさらだった。しかし記憶というのは馬鹿にならなくて、二か所くらい数字を埋めたときに全部思い出してしまった。

「本でも読もうかな……」

 本棚を物色していると、下の階がにわかに騒がしくなる。この時間になると雨もだいぶ落ち着いて、下の様子を聞くのに不自由しなくなっていた。ちらりと卓上のデジタル時計を見ると、『8/30 SUN 09:45』と表示されている。もう開店時間だから、お客さんでも来たのだろうか。

「あら、伊助くんじゃない」

 え?

「おはようございます、マスター。雨水はもう起きていますか?」

「そうね。今は書斎にいると思うわ」

 下の階から聞こえる会話は、確かに鳥栖さんと犬塚さんのものである。犬塚さん来たのか!

 慌てて自分の身なりを見直す。なんでこんな、適当な袷を選んで着たのだろうか。化粧は……むしろ家の中でしていたらおかしいか。しかし半襟もつけていなければ簪も挿していない素っ気ない格好というのはいただけない。

 いや、普段からここで犬塚さんと会うときはこんな格好だった。これで問題ないはず。変に思うのは今朝、鳥栖さんからあれこれ言われたからだ。

 とりあえず安楽椅子に収まって、また煙草を一服した。さっき立ち上がるとき、火を消さなくて正解だった。どんな混乱も一服すればひとまず落ち着く。

「じゃあ上がらせてもらいますね」

「ええ。ごゆっくり」

 犬塚さんの声の後、階段を上がる足音が届いた。とにかく、犬塚さんが現れるまではこうして安楽椅子に座っていた方がいいかもしれない。いかにもずっとぼうっとしていましたという体で。

「雨水、入るよ」

 書斎のドアがノックされる。まだ返事はしない。

「雨水?」

「……うん、どうぞ」

 煙草の火は消した。

 犬塚さんは扉を開けると、屈むようにして入ってくる。わたしの身長では気にならないけど、長身の彼では扉が低すぎるのだ。最初の頃は何度か頭をぶつけていた。

「おはよう。今朝はひどい嵐だったね」

「そうですね。お陰で起こされました」

 彼はスーツ姿だった。ジャケットをきてネクタイもしている。どうやら彼の職場にクールビズという概念は無いらしい。それにしても、仕事が休みなのにスーツ? どうにも、今朝鳥栖さんから言われたことと結びついていけない。ただ、今のわたしならどんな要素もそれと結び付けかねない心理状態だから、気にしてはならない。

「ああ、これ?」

 それでもわたしの考えが態度に出ていたのか、犬塚さんはジャケットの襟を引っ張ってスーツを示した。

「徹夜明けなんだ。またぞろ、面倒な事件が起きてしまってさ」

 徹夜明けにも関わらず髭は伸びておらず……いや来る前に剃ったのだきっと。

「家に帰って休めばいいのに……。ひょっとして、その事件にわたしの仕事になりそうなことがあるんですか?」

「いや、それは特にない」

 じゃあ本当に休めばいいのに。どうしてこんな朝早くから来たのだろうか。

「ちょっと面白いことがあってね。早速、雨水に見てもらいたいと思ったんだ」

「面白いこと?」

「暗号だよ。さすがの雨水も一筋縄じゃいかないやつがあるんだ」

「へえ」

 犬塚さんはジャケットの内ポケットから、三枚の便箋を取り出す。わたしは立ち上がってそれを受け取って、革張り椅子の方へ移動した。安楽椅子は向きをこちらへ変えて、犬塚さんが座る。

 三枚の紙を物書き机に広げる。三枚とも、市販の便箋にボールペンで書かれたものだった。暗号文は長くないが、どれも漢字の羅列であり、一見すると中国語のようにすら見える。

 唯一、今の段階で読めるのは便箋の隅に書かれた日付だけである。それぞれ『八月十六日』『八月二十三日』『八月三十日』と、本文と同じ黒字で記されている。

「これ、どういう曰くですか?」

 暗号を解く上で手がかりになる要素のひとつに、それが書かれた背景がある。個人的な覚書を盗み読みされないよう暗号化したのか、それとも誰かに向けたメッセージを暗号化したのか。この二つの要素だけでも大きく暗号の性質は異なるし、もし後者でも一般人同士のやり取りと高度に政治的な組織間でのメッセージではやはり差がある。

「どうだろうね」

 しかしはぐらかされる。「無い」と断言しないということは、背景の設定は一応あると考えていいだろう。

「手紙なのは間違いないんでしょうけど……。これ、筆跡まで背景に沿って作られているんですか?」

「そうなるよう配慮はしたはずだよ」

「なるほど」

 筆跡は三枚とも同じである。つまり『十六日』→『二十三日』→『三十日』と手紙がやり取りされたわけではなく、ある人に宛てた手紙だけを三通集めたことになる。間に何通か、この手紙を受け取った人が、この手紙を書いた人に宛てた手紙も本来はあるはず。

 これ以上の推測は不毛と考えて、わたしは本文を読んだ。まずは『八月十六日』のものから。


 『藤』不松萩松『月』幕鶯小牡藤猪藤藤萩松鹿菖鶯八盃松菊牡菖藤芒月不鶯芒松八梅鶯猪月小 藤菖松不松萩松藤猪猪盃牡八藤藤不藤菖松猪鶯八不松桐


 続いて『八月二十三日』。


 『卯』摩子午子『頞』真招伐珊招摩摩子摩頞波巳丑巳午子卯毘頞丑子未未子波巳波卯戌未巳未安頞頞丑招酉卯摩招波寅招波毘子波卯摩安頞頞摩巳頞珊頞午頞安巳頞波子摩巳未巳波卯波子未未招珊頞辰卯辰子珊招波伐摩巳波巳頞辰招子申子珊招真子摩子波子午子酉頞珊卯辰子珊頞伐


 これが一番長い。なんだか経文を読んでいる気分になってきた。しかも『十六日』の暗号とは、使われている漢字がまるで違う。

 そして最後に『八月三十日』。


 『蟹』獅白秤白『人』巨牛魚白処白蠍白児白蝎人獅蟹金牛蝎人魚獅牛獅獅女処蝎蟹蠍牛獅人金白蝎白蟹遣


 今度は短い。そして『十六日』と『二十三日』の文と同様、使われている漢字が違う。ふむ、これは……。

「タヌキのイラストを添えた暗号を見せてきたときよりは、随分進歩しましたね」

「はは……。ばれた?」

 やっぱり。どう見たって違う人が作ったものだから。

「実は同僚に頼んだんだよ。君ほどではないけど、得意な人がいてね。本文は俺が考えたから、答え合わせはできるよ」

 でも暗号そのものの解読はできないと。わたしが解けなかったらどうするつもりなのだろう。

 正直もう半分解けているんだけどね。ひとりで頭を回転させるのもいいけど、それじゃあつまらない。分かっていないのをいいことに、犬塚さんにいろいろ仕掛けよう。

「犬塚さんは暗号を解くとき、まず何に注目しますか?」

「うーん。そりゃ、暗号文に書かれているヒントだろうな」

「解くためのヒントがある暗号なんて少数ですよ。普通は解かれないために暗号化するんですから」

「あ、そうか」

「まず注意しないといけないのは、その暗号がどんな言語の文章を変換したものか、ということです」

「そのココロは?」

「元になる言語によって、必要とされる文字や記号、文法が変わるからです。平仮名なら五十音、アルファベットなら二十六音。文字や記号の数が変わるだけで変換プロセスは異なります。文法が異なれば言わずもがな。ですから、そこを確認しないことには始まりません」

 元となる言語を確かめずに暗号を解こうとするのは、日本で起きた事件をブラジルで捜査するようなものだ。

「今回はどうだい?」

「暗号の制作者が誰かは知りませんが、日付が日本語で書かれていますから、まず日本語でしょう」

 製作者が英語やロシア語の話者だとしたら面倒だけど、これだけ凝った暗号を作っておいてそんなひっかけで満足するとは思えないから、フェアプレイの原則からいっても日本語と考えていい。

「しかし日本語と想定するだけでは、この問題は解決しません。日本語には平仮名だけでなく、アルファベットを用いるローマ字に、漢字を使用する万葉仮名もありますから」

「では君は、どれだと思う?」

「間違いなくローマ字ですね」

 わたしは机の引き出しから、煙管と刻み煙草を取り出す。ちょっと一服。頭を使うとすぐに欲しくなる。さっきまで何時間も吸っていたのに。

「まず万葉仮名はありえません。既に暗号が漢字なので、万葉仮名は真っ先に連想されてしまいますよ」

「じゃあ普通に考えて、平仮名だとは思わなかったのかい?」

 ジャケットの胸ポケットから何かを出そうとして、犬塚さんはそこでやめたのか何も掴まないままポケットから手を引き抜く。あのポケットにいつも入れているのは煙草のはず。

「吸わないんですか?」

「禁煙中なんだよ。最近は職場も喫煙スペースが少ないし、現場じゃ吸えない。吸えなくてイライラするよりは、もう止めてしまおうと思ってさ」

「なるほど」

 煙管に煙草を詰めてマッチで火をつけた。

「容赦ないな君」

「わたしは吸いたいですから。それで、何の話でしたっけ?」

「どうしてあの文章が、ローマ字を暗号化したものだと思ったのかって話だよ」

「平仮名は数が多いですから」

 おっと、説明が前後した。

「この暗号文はおそらく一般的な個人間で取り交わされる手紙と推測されます。もし高度に政治的な組織が関わっている場合、こんな暗号クイズめいたものを利用する必要もなく、もっと数学的に複雑化した暗号を使います。ですから、これが手紙かどうかはともかく、少なくとも『一般的な個人間で取り交わされた』というのは間違いないでしょう」

 そして一般的な個人間で扱われるだろうアナログで単純な暗号は、いくつかのタイプに分かれる。

「タヌキ暗号のように、本来の文章へ不要な装飾を付け足すタイプは一目でそうと分かります。この暗号文は明らかにタヌキ暗号のタイプではない。と、すれば、おそらくひとつの漢字がある文字一字と対応しているのか、それに類似するタイプの暗号……換え字式だと判明します」

「ホームズの『踊る人形』みたいなタイプかい?」

「はい。そう考えると平仮名では文字が多すぎます。五十音にいくつかの記号を対応させないといけませんから。一方でアルファベットなら、二十六音にいくつかの記号なので数が半分くらいになります。暗号を作るにしても使うにしても、ローマ字の方が楽ですよ」

 それに、あの漢字の並び方はなんとなくローマ字に似ている。もし平仮名を置き換えているなら、同じ漢字があのように連続するような配置になるとは考えにくい。

 煙管を一口吸って、煙を吐いた。煙が上っていく先を眺めると、書斎の天井が煙って白くなっているのが目につく。さっきまでずっと水煙管を吸っていたから当然だ。犬塚さんは(元)喫煙者なのでこんな状態の書斎に入ってもリアクションは取らなかったけど、鳥栖さんがもしこの中に入って来たら急いで窓を開けるだろう。

 たまには換気をした方がいいだろうか。窓から外を見ると小雨とはいえまだ降っていたので、換気は後回しにする。

「しかしあくまで、今のは全部推測だろ? そりゃ、もっともらしく聞こえるけど、確証はない」

 ジャケットの懐からガムを取り出して、犬塚さんはそれを噛んだ。

「ええ、ただの推測です。でも外れていても問題ありません。間違っていたら別のパターンをまた考えるだけです」

 大抵の暗号は気合と根気さえあれば誰にも解ける。総当たりでひたすら試行すればその内答えに辿り着くのだから。

「次に考えなければならないのは、漢字一文字がアルファベット一文字と置き換わっているのか、それとも漢字数文字がアルファベット一文字と置き換わっているのかという問題です。ただ、これは前者と仮定していいでしょう」

「どうせ全部試すから?」

「それもありますけど、もし後者のパターンなら暗号に使用される漢字の種類は少ないはずです」

「乱歩の『二銭銅貨』みたいなやつか! あれは南無阿弥陀仏だけだったからな」

「あれは少々特殊なケースですけど、そういうことですね。しかし今回の暗号は、一番短い『三十日』のもので十種類以上の漢字が使われていますから、前者なのではと」

 それを言うなら、そもそも三つの暗号文に使われた漢字を全部抽出すれば、数は三十以上ある。やっぱりここが、一番の課題になる。

「それにしても本当にこれ、三通とも同じ暗号を使っているんですか?」

「それは保証する」

 製作者ではない彼に保障されてもなあ。

「まあ、そこまで言うのでしたら、その方向で考えてみます」

 また一口吸って、煙を吐く。

 もし三通が同じ暗号を使用しているというのなら、どういうことが考えられるか。まず考えられるのは、三通の手紙に登場する全種類の漢字にそれぞれアルファベットと記号が割り振られている場合。しかしこれはありえない。三通すべてに共通して登場する漢字が存在しないから。

 ならば、アルファベットと記号は『何か』に対応していて、『何か』と漢字がさらに対応していると考えるべきだろう。イ=ロという単純な式ではなく、イ=ロ、ロ=ハ、よってイ=ハという三段論法的な仕組み。これなら三通の暗号文で使用する漢字そのものが共通しなくても問題は無い。重要なのは漢字そのものではなく、漢字が表す『何か』。アルファベットをイ、漢字をハと捉えるなら、ロにあたる部分が重要なファクターとなる。

 そしてこれも推測になるが、ロにあたるファクターはおそらく数字、あるいは順序。アルファベットはAからZまで普遍的な順序を持っているから、漢字で二十六の数および順序を表現できるなら、アルファベットをそれに当てはめればいい。精々問題になるのは記号の順序くらいのもので、その程度なら事前に示し合わせておけばいい。なによりこの方法なら漢字に何を使用しても、ファクターさえ共通なら読み手が解読に苦労することはない。しかもこちらが解読しようとしてサンプルを集めれば集めるほど、パターンが際限なく増えていくというオマケつきである。

さて、それでは何が数字、順序の表現に使われているのか。とりあえず『十六日』の暗号文だけに注目して考えよう。

 画数はどうだろうか……。いや、いけないいけない。いつの間にかひとりで没頭していた。ちらりと犬塚さんの方を見ると、彼もこっちを見ていた。

「どうかしましたか?」

「どうもしないさ。ただ、熱中しているなと」

「……画数に注目してみましたけど、駄目ですね。『月』と『不』が同じ四画ですから」

「『二十三日』の暗号も同じ画数の漢字が使われていたな。『午』と『丑』が四画だ」

「部首も駄目みたいですね。他二つの暗号文はともかく、『十六日』の暗号文には『きへん』と『くさかんむり』が多すぎます」

「部首を除いた画数は?」

「『菊』と『菖』の画数が同じでした」

 まあ、そもそも画数なら二十画以上の漢字が登場するし、部首なら二十種以上の部首が暗号文に出ているはず。そしてそんな特徴があれば最初に気づいている。

「雨水、他に漢字から連想されることは何かあるかい?」

「漢字そのものから連想するのは難しいですね」

 しかし漢字そのものからの連想ではないと判明したお陰で、道は開けた。

「分かりました。これ、全部解けますよ」

 なるほど、普遍的な順序を持つものは、何もアルファベットだけじゃない。こうして書いてみれば、漢字にも順序はある。

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