暗号専門探偵・解読屋睦月

紅藍

暗号1 答えは『魔牛蝎』

1 プロローグ

 空を震わせる轟音に、自然と目は覚めた。枕元にあるデジタル式の目覚まし時計は午前五時を指していた。カーテンを開けると音は一層大きく聞こえる。大粒の雨が窓ガラスを打ちつけ、さらに風が吹いて窓を揺らす。時折、雲が光ったかと思うと少しの間を置いて耳障りな音が鳴り響く。台風が発生したなんて情報はここ一週間聞いていないから、たぶん夏の嵐だろう。最近はゲリラ豪雨なんてものもあるから、案外、すぐに晴れるかもしれない。

 わたしはもう一眠りしようとしたけど、やはりそう簡単に寝つけなかった。音がうるさくてどうしようもない。それに気温が下がっている。タオルケット一枚ではどうも快適な温かさは得られなかった。押入れに掛布団があるものの、まだ干してもいないものを被るのは抵抗があった。ダニやハウスダストが怖い。

 三十分くらいは騒音と寒気に対抗したものの、結局、起きることになってしまう。着崩れていた長襦袢を整えて、その上から袷を着る。これで少しは温かくなった。習慣で髪をシニョンにまとめようとして、途中でやめた。今日は外出の予定など無いから、おめかししても仕方が無い。

 洗面所で顔を洗うと、書斎に向かう。その途中、もう一度だけ窓から外を見た。突風に煽られて看板が落下していないか確認するためだった。

 わたしが居住しているのはある喫茶店の二階で、書斎の出入り口付近の窓から覗けば、看板を見ることができる。店の壁に掲げられた『喫茶鳩ノ巣』『2F 暗号文解読・パスワード特定はお任せ 解読屋睦月』と書かれた二枚の看板は、この風の中でもびくともしない。これなら心配はなさそうだ。

 書斎に入ると、部屋の中央に置いてある安楽椅子に腰掛ける。書斎には身に余るほど高級で巨大な物書き机と革張り椅子のセットも置いてあるけど、リラックスするなら安楽椅子の方がいい。

 足元にある水煙草のシーシャを引き寄せて、サイドテーブルから取り上げた炭と煙草をセットし、マッチで火をつけた。一口吸うと、眠気の残っていた頭が少しだけ冴える。

 不本意とはいえ、朝早く起きたのだから仕事のひとつでもしようかな……。やっぱりあまり気が進まない。昨日までに持ち込まれ、まだ手をつけていない仕事は三件ほどあるにはある。ただ、食指が動くような難易度の仕事ではない。

 仕事を持ち込んできたのは、いずれも大学生。つまり年はわたしと同じくらいなのだけど、あまり頭の出来が良さそうには見えなかった。そもそも賢い人間ならわたしに仕事を依頼したりしないので、依頼人の愚鈍さを呪っても詮無いことである。それでもなんというか……あの手の大学生に出会うと毎回、カルチャーショックに近い驚きを覚える。わたしの中では未だに、大学というのはとても頭の良い人間が学問を究めるために行くところという認識があるから。

 まあ、頭が悪そうに見えても、学問に対する取り組み方は真面目なのかもしれない。頭の良し悪しに関わらず、好きな学問に熱中できる環境が用意されているのだと考えれば、案外悪いことでもないだろう。

 大学行こうかな。確か、社会人でも通えるはず。今の仕事を始めて随分稼いだから、四年間通うだけの貯蓄はたぶんある。無くても仕事をやりながらならどうにでもなる。ふむ。今のご時世、最終学歴が中卒というのもいただけないし、案外妥当な選択かも。依頼人の中にはわたしが高校すらろくに出ていないと知ると、露骨に嫌な顔をするのもいる。

 煙草の煙が上るのを見ていると、いろいろなことが頭をよぎる。そういえば彼は……犬塚さんは、仕事が忙しいのだろうか。

 犬塚さんは三年ほど前に、仕事で知り合った刑事である。本庁勤めのいわゆるエリートらしい。わたしは警察機構に詳しくないので説明を聞いてもよく分からない。ただ、この周辺で起きた事件なら隣県でも、規模や残虐性の如何によっては出動することがあるので、たぶん普通の警察官とは違うのだろう。

 時折仕事が休みになるとここへ来る。特に用事が無くても来る。そうして一日中ここで、適当な話をしていることもある。そんな関係は三年間も続いて、当初は疎ましくすら思ってはいたけど、今は退屈しのぎになって助かると考えるようになっている。

 今は起きているのだろうか。またぞろ仕事で徹夜しているかもしれない。メールを送ろうかと一瞬悩んで、それはやめた。もし寝ていたら、メールの着信音で起こしてしまうかもしれない。

 そこで思い出した。昨日犬塚さんからメールがあって、今日は休みになると言われた気がする。思い出せば、それを不思議に感じた記憶があるので、たぶんそれは確かだ。ここ最近は休みが取れると書斎でお喋りに興じるのではなくて、どこかに遊びに行こうと散々誘うのに、昨日はそういうお誘いがなかったのを奇妙に思ったのだった。

 犬塚さんが来たときにこっちが忙しいでは困るから、依頼は今の内に終わらせた方がいいのかな……。わたしは記憶から依頼内容を引っ張り出して、そこから先は立ち上る煙を睨みながら、ひたすら頭を働かせた。といっても、たいしたことではない。あれをこうしてあそこをこうでと、三件の依頼は玉ねぎの皮を剥くより単純な仕事だった。何の資料も繰らずに解読できるから、よっぽど簡単なのだ。

「雨水ちゃん! 起きてるんでしょ、下りてきなさいよ」

 三件目の仕事を終えたところで、階下から声が聞こえた。下の喫茶店を経営しているマスターの鳥栖さんの声だった。

「今行きます」

 煙草の火を消して階段を下りると、エプロン姿の鳥栖さんがカウンターの向こうに立っている。いつも通りのパーマがかかった髪が少し濡れていて、わたしの方を向くと少し顔をしかめた。

「あら、朝から煙草? 体に悪いわよ」

「仕事、していましたから。それより、なんでこんな時間に?」

 壁に掛かっている時計を見る。ちょうど六時を指した時計は、からくり仕掛けが動いて鳩が顔を覗かせている。

「開業は九時からですよね?」

「こんな雨だと、店先がどうなっているか不安になってね。ま、看板も無事みたいだから、取り越し苦労だったみたい」

「そうですか。外、今もすごいみたいですね」

 店先から外を見ると、わたしが起きたときよりは多少マシになったとはいえ、まだ雨が激しく降っている。風が吹くと激しく唸って、雨が霧状に巻き上げられた。

「仕事って、昨日来ていた大学生?」

「それも含めて、ここ数日ため込んでいたものを全部」

 鳥栖さんは調理場でフライパンを熱心に動かしているようだった。ここからでは何を調理しているかは見えないし、見たところでたぶんわたしには分からない。

「ああ。そういえば一週間前と一昨日にも来ていたわね。あの子たちも大学生でしょう?」

「しかも同じ大学です」

「口コミで広がってるんじゃない?」

「どうでしょうね」

 悪い噂でないことを願いたい。

「どんな依頼だったの?」

「一週間前の人は、ミステリサークルの人でしたね。サークルが管理していたブログの管理者パスワードを知りたいと」

「ブログ。へえ、最近の大学生はサークルでそんなものをやるのね」

「ええ。OBがノートにメモしていたパスワードは八文字のアルファベットでしたが、それでは開かない。たぶんシーザー暗号だろうと適当に何回か試行してみたらビンゴと、張り合いの無い暗号でした」

「何回かって、どれくらい試したの」

「十六回です」

「それは張り合いのある域じゃないの?」

 暗号というのは総当たりで解けるもの。本当に張り合いのある暗号というのは、根本からして非凡な性質を持っていて、単純に総当たりしただけでは解けないようなものだとわたしは思っている。それに十六回の試行回数はそんなに多くない。十六回なら三分で終わるから。

「一昨日の人はちょっと深刻でしたね。亡くなった祖父が『遺書に金庫の暗証番号を書いた』と言ったにもかかわらず、遺書に書かれていなくて家中大わらわだったらしいですから」

「そんなこともあるのね」

 鳥栖さんがわたしの前にプレートを置く。二枚のトースト、ポテトサラダ、スクランブルエッグにホットコーヒーと、なかなか豪勢な朝食である。ホットコーヒーを一口啜ると、身体の奥から少しずつ温まっていく。自分で意識している以上に、身体が冷えていたらしい。

「まあ、その人の話では祖父は呆けていなかったらしいですし、そもそも三年前にはもう遺書を書いていたようなので、たぶん暗号化して仕掛けられていたのだろうと。遺書を調べたら算用数字が四か所だけ登場して、後はすべて漢数字だったので、たぶんその算用数字四つが暗証番号でしょう」

 どうしてそんな回りくどいことをしたのかは謎だけど、たぶんこれも遊び心だろう。依頼で届く暗号の半分は、遊び心で生まれたものである。

「それで? 昨日のは何だったの?」

「一番くだらないものです」

 昨日来た大学生は男だったが、ビーズやラメで派手に装飾された(デコるというやつか)カバーに収まったスマートフォンを持っていた。明らかに本人のものではない。恋人のものか、最悪の場合赤の他人のものである可能性すらあった。しかし依頼人は「パスワードが分からなくなった」とだけ言った。

「だから今日、犬塚さんに渡そうかなと思います。事件性の有無までは分かりませんでしたけど、本人のものではないので」

「どうかしら。今どき『男らしい』『女らしい』なんて古いから、本当にその人のスマホかもしれないわよ?」

「さっき中身見ましたから。それで、アプリに登録されていた名前を見て、依頼人とはまるで別人だと判明したので警察行きです」

「あららー」

 この手の依頼も、実は後を絶たない。今のご時世、プライバシーと財産権は四文字の鍵によって守られている。四文字より多いこともあるけど大差はない。そしてわたしはその鍵を簡単に突破できる『解読屋』である。今回の依頼の、前二件のようにそれがプラスに作用することもあれば、この件のようにマイナスに作用することもある。

 さすがにその辺の分別は、三年以上この仕事をしているので覚えた。

「ところでさっき話に出てきた伊助くんだけど」

「はい?」

 犬塚さんのことを、鳥栖さんは下の名前で呼ぶ。聞いた話では、犬塚さんが大学生だったころから『鳩ノ巣』は営業していて、彼は常連客だったらしい。だから二人は古くからの顔見知りである。

「このごろどう? 関係は進展してる?」

「関係、ですか?」

 あやうく喉に詰まりかけたトーストを何とか飲み込んで、鳥栖さんを見る。目元に皺を作って、彼女は笑ってこちらを見ていた。しかしそれは朗笑というより、ニヤニヤという感じであった。

「関係ってなんですか? 仕事の関係というなら、前と変わりはありませんよ。本庁勤めのエリートである犬塚さんの口利きがあって、警察関係の仕事も増えましたけど……」

「違うわよ。もっとプライベートな方」

「はあ……」

 はぐらかし切れなかった。

「プライベート? 進展、というか、確かに最近は殊に遊びに誘われることは多いですから、変化はあると思いますよ。でも単に時間の過ごし方が変わっただけであって、そんな前のめりなものでは……」

「それを進展と言うのよ。辞書調べていらっしゃい。それで、ここ最近は何をしてたの?」

 言わなければならないのだろうか。

「食事には以前よりよく誘われるようになりましたね。二週間前はラーメン屋に行きました」

「女性を誘うのにラーメン屋ってどうなの?」

「でも美味しかったですよ」

「あ、そういえば先週は一緒にドライブしたんだったわよね! 夜景を見に行くって」

「ええ……」

 エサを水槽に投げ込まれた魚のように、自分で思い出した話題に鳥栖さんは自分で食いついた。

「帰りに犬塚さん、仕事が入っちゃって……」

 県境で起きた事件で、しかも本庁に入って来た情報によれば、犬塚さんが出向する必要があるかもしれない案件だった。

「そうだったの? 翌日まで帰ってこなかったから、てっきりよろしくやってたのかと思ってたわ」

 よろしく? ああいけない。そっち方向に邁進しているこの人。

「連絡を受け取った場所から現場までは近かったんですけど、わたしを送ってから現場に向かうと往復になっちゃうんですよ。それでわたしは近くのビジネスホテルに部屋を取って、犬塚さんは現場に向かいました」

「ほうほう。それで?」

「結局、出向の必要が無いと判断されて犬塚さんとまた合流しましたとさ。どんとはれ」

「ふうん」

これ以上喋る気が無いのに気づいたのか、鳥栖さんは詮索をしてこなかった。

「ごちそうさま」

「はい、お粗末さま」

 空になったプレートとカップが下げられる。蛇口の栓を捻ったのか、シンクに水が流れる音が聞こえる。

「あんまりはぐらかすと、伊助くんが可哀そうじゃない?」

 シンクを叩く水音と窓を叩く雨音に混じる、ごく小さな声でそう問われた。

「あの子ももう二十八だし、あなただって二十二でしょ? 特にあなたは、今の仕事以外にできることないんだから、さっさと……」

「ストップ。今とんでもないこと言われました。わたしが今の仕事以外できない? 名誉棄損で訴えますよ」

「侮辱罪って言わないということは、自覚あるんでしょ?」

 事実を指摘されたので名誉棄損なのだ。事実関係が不明なら侮辱罪。

「伊助君の何が不満なの? 国家公務員で将来有望。そうそういないわよあんな子」

「不満は無いですよ」

 そこがむしろ問題なのだ。

「どうしてわたしなんでしょうね」

「釣り合わないって? それ、どちらかというと男性が悩む問題じゃない?」

「誰だって悩みますよ」

 犬塚さんは大学まで出て、出世街道まっしぐらの警察官。かたやわたしは喫茶店の二階で平日と休日の区別もつかないような生活をして、たまに持ち込まれる暗号文やパスワードとのにらめっこで小遣い稼ぎ。

「鳥栖さんの息子さんがこんな女性を『フィアンセです』って連れて来たら納得します?」

「しないわね」

 そこは嘘でも納得すると言ってほしかった。

「でも、親の気持ちなんて子どもはまるで気にしないじゃない。あなたも、もし伊助くんに何か言われたら、ちゃんと答えられるようにしときなさいよ」

 まるで今すぐに犬塚さんが飛び込んできてプロポーズをするかのような物言いだった。「考えておきます」と言って、わたしはまた書斎に戻る。

「仕事、まだ残っているので」

 嘘つき。さっき全部終わらせたって言ったのに。

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