第72話 ドラゴンの従者
美しき氷の竜は、粉雪を
『じゃああたしはこれで』
「ありがとう、サンタマリアさん」
彼女は何かを言いかけたけど、私の顔を見て納得したのか、背中を向けて大きな翼を広げた。
『またね』
そう言い残して、飛び去って行った。それはまるで、暗闇にダイヤモンドが放たれたかのように、キラキラしていた。
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柔らかい光に包まれた大地の精霊石が辺りを照らしていた。満開の星空と合わせて、真夜中なのに不思議なほど明るい。エルさんが住まう遺跡も光のトンネルみたいになっていた。私は導かれるように奥へに進んでいく。壁面に埋め込まれた精霊石達が光の道筋を作って、中へ中へと誘い込んでいるのだ。
最奥はすぐそこだった。
芝の中央に、大きな岩石が、ひとつ。
それは岩石のように見えるけど、そうじゃない。
それは、尊い、ひとつのいのちなのだ。
「エルさん」
私は寝息を発するそれに話しかける。手を触れれば、分厚く柔らかな体表から伝わってくる、僅かな体温。
「寝ちゃってる、かな」
ぐっすり眠っているそれに語りかける。頬をつければ、愛しいものの鼓動が伝わる。それは私の体の力を一瞬で奪っていく。心地よい安心感がそこにはあった。もたれかかった私の体が、彼の体に埋まっていく。それはどんな高価なベッドよりも、心地よかった。
「ただいま。」
見上げれば、星空があった。本物のお星さまは見えないはずなのに、その天井は星空みたいになっていた。よく見ればそれは、無数の精霊石だった。
この数日間、色々あった。色々なことと、大きなことが多すぎて、どれをどう整理していいか分からない。とりあえず心と体がとても疲れていて、休養しないといけないというのは良くわかった。まずはそれをしないと、私はきっと先へ進めないのだ。
そんな時。
極上のソファが急に盛り上がった。
「わっ!?」
尻もちをついて、衝撃で頭の中に星がきらめいた。振り返ると、その岩の塊みたいだったいのちが、大きくて美しいドラゴンの姿になっていた。
「エルさん?」
そのドラゴンは私を睨めつけると、
『ああ、びっくりした。なんだ小娘、驚かすでない』
そう言って、まるで何事も無かったのように再び丸くなった。
私の心臓は締め上げられるように軋んだ。
認知症なら当たり前の、当然予測できたであろうその事態に、私は
――もしかしてこの数日の間に、私のこと、忘れちゃったの――
突然せり上がってくるそれに耐えかねて、しゃがみ込んだ。
まさにその時だった。
『ほれ、何をしている。早く寝ないと体に触るぞ。アカネよ』
長くてたくましい尻尾を私に絡ませて、抱き寄せてくれた。私の体に走った緊張は、水に溶けていくかのように融解していく。
「エルさん。ただいま」
『一体どこに行っていた。心配したぞ』
エルさんと離れて数日間。私が旅立った理由をすっかり忘れてしまっていた。
でもそれは当然だった。ただでさえ新しい事が覚えられない認知症。名前を覚えていてくれるだけでも奇跡だ。
「アキマサさんに会いに行っていたんだよ。最期だったから」
だけどエルさんは、私が泣いていたり、シリアスになったりすると、別人のようにしっかりとする。認知症でぼやけていた意識と記憶回路が、クリアになる。
その言葉に思い当たる所でもあったのか、首を伸ばして、私の顔をまじまじと覗き込んでいた。
『逝ったのか』
「うん。――亡くなったよ。家族に見送られて。立派だった」
私がそういうと、彼は遠くを見た。まるで壁で遮られたその向こう側が、見えているかのように。
『そうか』
その向こう側に何が見えているのか分からない。
もしかしたら、そこには――。
「それでね、エルさん」
アキマサじじと過ごした時間はとても短い。
だけれど、私にとってその時間はかけがえのないものだった。
アキマサじじに全力で向き合うことが出来た。
アキマサじじはそれを受け入れてくれた。
そして最期は、笑って逝ってくれた。
――今こそ、あの言葉を伝えよう。
「最期の言葉だったんだけど、エルさんに伝えてくれって。言葉を預かってきたの」
エルさんの大きな瞳が私を映し出す。
『なんと』
私はこの時初めて、自分の唇が震えていることに気がついた。
言葉が喉につかえて、うまく出てこなかった。
たったひとこと。
短いけれど、全てがこもったそのフレーズ。
それは今さらになって、私の魂を震わせたのだ。
「最高だぞ、って、」
震えた私の魂は、私を縛り付けていたものから、今、解き放たれた。
体の底から沸き上がってくる悲しみが、涙となって溢れ出した。
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どれくらい泣いたかわからない。体中の水分が抜け出してしまったのでは無いかというくらい。顔を埋めていたあたり、エルさんの皮膚のしわに合わせて涙の水たまりが出来ている。そのうち何割かは鼻水だろう。
『アカネよ。よく使命を果たし、我のもとに戻った。それでこそ我が従者だ。我は誇りに思う』
エルさんはすっかり竜王の雰囲気になっている。可愛げのあるおじいちゃんみたいなエルさんも好きだけど、こっちのエルさんもかっこいい。
『しかし悔やまれるな。それほど見事な最期ならば、我も立ち会いたかった。翼を持ちながら飛んで行けぬとは、情けないものよ』
そう言ってエルさんは首をうまくつかって私を背中にのせ、翼を大きく広げて羽ばたいてみせる。掴んだ風が勢い良く吹き抜けて、涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔を心地よく乾かしてくれた。
「また飛べるよ。私と一緒に頑張ろうよ。だって、エルさんには行かなくちゃいけない所があるんでしょう? いかなくちゃ、後悔で死ぬに死にきれないんでしょ?」
『はて、どこだったかな』
「もう!」
私が「ぽかっ」とやると、エルさんはわざとらしく痛がって見せる。そして、いつもの少しおどけた、お調子もののエルさんに戻るのだった。
『それはそうと、腹が減っていかん。空腹では力が入らぬから余計に飛べぬな。晩飯をくれぬか』
――父が逝ったあの日。
私は父を許せないと思った。
「えー。そこはアッテリアがしっかりやってくれてるから、ちゃんと食べてるはずだよ。忘れちゃったの?」
――でも、本当はそうではないことを、今の私は知っている。
『いいや、この空腹は食べていない証だ。主も言うではないか』
――私が許せなかったのは、私自身だ。
父に何も伝えられなかったこと。
父の重荷になってしまっていたこと。
父の辛さを取り除いてあげられなかったこと。
そして、父を見送ってあげられなかったこと。
その全ての機会を、父が奪ったと決めつけて。
自分が傷つかないようにしていただけなのだ。
その機会を奪ったのは、自分だ。
そうしようと思えば、出来たはずなのに。
その後悔が、今の私を作り上げたのだ。
別の誰かにしてあげることで、その後悔を取り除きたかったのかも知れない。
「じゃあ特別ね。どんな晩ごはんがいい?」
私はわけも分からず、異世界に来て。
そして一匹の大きなドラゴンに出会った。
『ふむ。選択出来ると言うのなら、少しは奇をてらうのも悪くないかと思うのだが』
この先、私がこのドラゴンから離れることは無いだろう。
私の第二の人生を、生きる意味をくれたドラゴンだから。
私が死ぬのが先か。彼が私を忘れるのが先か。
そんなことは、気にしてたってしようがないのだ。
今、この瞬間を、贅沢に生きるのだ。全力で生きるのだ。
私は残りの生涯を、ドラゴンに捧げるのだ。
どうしてそんなことするのかって?
『しかし、やっぱりアレに決まっておろう』
そんなの、決まってる。
「おっけー、わかった。じゃあ、アレいっちゃいましょうか!」
私は、ドラゴンの介護福祉士だから。
『「とびっきりの、精霊石!」』
私は、エルさんの従者だから。
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