第56話 立ちはだかる、文字通り壁
異常な絵がそこにあった。
狼男は強靭な足腰の強さを武器に、褐色の斜面を駆け上がっていく。背負っているのは人間の女児――では無く、年頃の女性、というか私だった。ツェプトさんの体躯は相当に大柄で、身長は三メートルを超えていそうだ。そう大柄でも無い私が背中にしがみつけば、体格差で私が幼く見えてしまうという訳だった。
「すぐつきますので!」
しかし狼男の筋力というのは凄まじい。人間なら斜面を登るだけでも息が上がりそうだが、彼は私をおぶった上でなおも軽やかなステップで駆け上がっている。体格の割には筋肉質な私は決して軽い方では無いのに。生物的な強度が歴然としていた。
「うおお! 俺の背中に、女性が乗っている!!」
そしてツェプトのテンションは可笑しかった。これは女の直感だが、多分この人は女性に不慣れだ。女の私をおぶっているというこのシチュエーションが
それにしても、私は異世界に来てから一体どれほどの男を股にかけてきたのだろうか。大変光栄なことに相手は皆、権威のある存在だった。これが人間界なら相当な悪女だろう。あら、私ったらいつの間にか女としての魅力がレベルアップしていたのかしら?
なんてくだらない事を考えているとあっという間に到着した。場所は洞穴の入り口から300メートルほど、直線的に頂上を目指した途中にあった。道中、均し終えた斜面が多く見られたが、この場所では幾人かの狼男達が立ち往生していた。
「サー・ツェプト! お疲れ様です!」
うち何人かが敬礼した。ツェプトさんは屈んで私を地面に下ろすと、彼らに向かって敬礼を返している。こうして見比べると、狼男達の中でもこのツェプトという人物がいかに特別な存在なのかがよく分かる。体躯に恵まれているのだ。
「アカネ様、お呼びたてして申し訳ありません」
おそらくはこの作業員達を束ねている、小部隊長とでも言おうか、そんな狼男が近づいてきて頭を下げている。
「シュバイン、アカネ様をお連れした。事情を」
シュバインと呼ばれたその狼男が、「こちらを御覧ください」と言って指差す。
「ああー、これは……」
「アカネ様の指定したルートのど真ん中に、これがありました。なんとか破壊を試みてはいるのですが、とても敵いません。回り道になりますが、迂回してもよろしいでしょうか」
そこには、いかにも硬そうな岩石がそびえ立っていた。高さ10メートル、幅は30メートルはありそうなそれが、ちょっとした崖を構築していた。
「迂回、はちょっと困るかも」
今回の作戦は、アキマサじじを乗せた車椅子台車にロープを取り付け、それをドラゴンの怪力で上方から引っ張り上げることだ。当然このままでは台車はこの崖に激突して進行できなくなってしまう。
しかし迂回はもっとまずい。
上から引っ張っている、という事は、緩やかではあるが、吊るされているのと同じような状態と言える。迂回するためには、そこから引っ張っているドラゴンが斜面を横方向に移動しなければならず、台車もその動きについてこなければならない。台車のタイヤは固定式で方向転換に対応していないし、あの巨体を乗せたままそれを実現させるのはもっと困難だ。最悪、横転しかねない。こんな斜面で横転なんかしたら、下手をすればアキマサじじの体は麓まで一直線だ。
「では埋め立てて坂を作ってみましょうか。しかしそうすると、ここ一体の角度は相当に厳しいものとなります。傾斜を緩くするには埋め立てる範囲を広げる必要がありますが、日数が足りません。そして」
「強度に不安がある、ね」
「そのとおりです」
アキマサじじの翼の両端は10メートル級。体は相当に大きく、ゾウを連想させる。平面で行くならともかくとして、タイヤというのは接地面積がかなり小さく、その分路面に負荷をかける。埋め立てた坂道の強度が低ければ、タイヤはそこで埋まっていってしまう。老人を乗せた車椅子が散歩先の公園でタイヤをとられ、身動き出来なくなってしまうことを思い出した。
現実問題、車椅子でも斜面や路面状態によるトラブルにはよく出くわす。
車椅子、と一口にいっても、最近ではいろいろなタイプのものが存在する。中には電動駆動により車のように移動できるものもあるが、主流なのは自分の腕の力で移動を行うシンプルなものだ。
車椅子には4つのタイヤが取り付けられている。お尻に近い部分に自転車と同サイズ程度の大きな車輪、そして伸ばした足元に、三輪車に取り付けるような小さい車輪。前者の大きい車輪の外側には円形のレールが取り付けられており、これをハンドルとしてつかみ、前に送り出すことでタイヤを回転させ、自身で前進する。これは車椅子バスケットなどの動画を見るとわかりやすいだろう。
そんな構造上、自走できる傾斜には限界がある。3センチも段差があればたいていの高齢者は乗り越えられないし、斜面では簡単に方向が変わってしまう。一旦下り始めてしまえば、それを自身で停めることは難しい。高齢者にとって、車椅子は必ずしも安全とは言い切れないのだ。
ついでに、人に押してもらうというのは慣れないと結構怖い。視点が歩行より低いぶん体感速度が上がるから、それこそ出勤中のサラリーマンほどの速度で押されでもしたら、健常者でも緊張するほどの恐ろしさがある。そこに傾斜が加われば、十分に絶叫マシンだ。
そういう背景から、一定以上の傾斜には左右に折り返すタイプのスロープが設けられている。こうすれば傾斜は穏やか、仮に滑り出してしまったとしても、折り返し地点で停止するために被害を最小限にできるという訳だ。
しかし今回の作戦でこれは使えない。スロープは後ろから押すという車椅子の構造だから利用できるのであって、距離を取って引っ張り上げるケーブルカーには採用できない。
「うーん、これは参った」
作戦の根底を揺るがしかねない、まさに文字通り壁が立ちはだかってしまった。
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