Episodes[12] // ラボ飯でヒトとNebulAI、コラボですっ!
廊下には異臭が漂っていた。正体不明の甘い臭いに、仄かにアルコールのような臭いが混じっている。少なくともそれはホシの知らない類の臭気であった。何かの薬品だろうか。有毒ガスの可能性もある。
ホシは銃の安全装置を外した。銃口を斜め下に向けながら、廊下を足早に進む。神経を尖らせ、人の気配に注意を払った。いつでも発砲できるよう銃を持つ手に力が入る。どこか遠くから金属が金属に当たる音が聞こえていた。
やがて、ホシの嗅覚は、微かに残る忠志の臭いを捉えた。ホシはその臭いを辿り建物の玄関の方角へと向かう。痕跡を追うにつれ、異臭も強まっていった。そして一つの部屋に行き着いた。
人の気配を感じ、ホシは壁の影に隠れる。音の反射から部屋の中の状況を推測し、銃を構え、大きく息を吸った。
いつだって、死は覚悟している。
ホシは、その部屋に突入した――。
銃口の先にあったのは、食器を運ぶ忠志の姿だった。
テーブルではアカネが欠伸をしており、その隣には反重力ストレッチャーに載せられたツバメの姿があった。そこは、職員食堂であった。
ホシに気付いた忠志は、呆けた笑顔で彼女を迎えた。
「あ、おはようございます。ホシ少佐。そんなに慌ててどうされたんですか?」
ホシは一瞬だけ、彼の額めがけて引き金を引こうかと考えた。そうすれば、その平和ボケも少しは治るに違いない。だが、相手がヒトとはいえ警護対象に発砲したとなると面倒なことになる。ホシはため息をついて、銃を下ろした。
「……単独行動を控えるよう申し上げたはずですが」
「ああ、そうか。申し訳ない。あ、どうぞ掛けて」
ホシは小一時間説教をしようかと考えたが、寝癖で乱れた髪で何を言っても説得力はないだろう。ホシは何か満たされない感じを覚えつつも、忠志に促されるまま席に着いた。
「何をなさっているのですか?」
「朝ご飯です。ラボ飯ってやつですよ」
忠志は毒々しい緑色の物体が入った小鉢をホシの前に置いた。それは正体不明の茶色の液体に浸かっていた。どうやら植物を煮たものらしい。ホシの反応を待たずに、忠志は説明を続ける。
「はーい。ご飯に、味噌汁、ほうれん草のおひたしに、嵯峨研名物のだし巻き卵。で、豆腐の代わりに
すると、アカネがぽつりと言った。
「……食欲ないです」
「そんなこと言わずに、さあ。せっかく食材があるんだから腐る前に食べないと。さあ食べましょう」
忠志はそう言って、箸と呼ばれる食器で
いや、食文化の問題かもしれない。ホシは学生時代に学んだことを思い出していた。東ハリマ自治区ではヒトの文化が色濃く残っている。もちろん食文化もである。特に味噌汁――大豆をペースト状になるまで腐敗させ、それを湯に溶いたもの――については、学生時代に説明を読んで吐き気を催したものだ。そして、今、実物を目の当たりにしている。これこそが廊下に充満する異臭の発生源であった。
茶色のスープの中には白い粒子が対流している。ホシは眉間に皺を寄せながら、スプーンで味噌汁を掬う。そして、恐る恐る口元に運び、臭いを嗅ぐ。確かに腐敗臭ではないが、しかし――いつだって死を覚悟していたはずだが――ホシは躊躇した。一方、忠志はふうふうと息で冷ましながら味噌汁を口にしている。ホシは意を決して、スプーンを口に含んだ。
――ん。
彼女は混乱し、言葉を失った。ホシの味覚はそれを食品として認識できなかった。異常に塩分が多い上に、過去に経験したどの味とも異なっていたからである。恐らく、顔色をコロコロと変えていたに違いない。
「あれ、お口に合いませんか?」
「いえ……。ただ、これは食品なのですか? とても……食品とは」
「え、そうですか?」
忠志も口に含む。そして一言。
「美味しいけどなぁ」
ホシには忠志が正気とは思えなかった。ということは、忠志にも
一方で、アカネは、ホシと忠志の様子をしばらくじっと見つめていたが、やがて味噌汁を取って口に含んだ。
「ほら、美味しいでしょう。ホシ少佐に何か言ってやってください」
忠志はアカネに感想を促した。
しかし、アカネは何も答えず二口目を口に含んだ。何かを言おうとして
その直後、アカネの目から大粒の涙があふれ出した。やがて、食堂にアカネの慟哭が響く。
「ごめんなさい……あああああぁぁあ」
アカネは明らかに呼吸困難に陥っていた。
ホシは食事を中断し、アカネに駆け寄る。その背中を撫でつつ、忠志を睨んだ。
「何を入れたのです?」
「……え? ちょっと美味しすぎたのかな」
忠志は困惑した表情で頭を掻いた。
「そんなことで、ショック症状が出るはずがありません!」
その時、ツバメがガバッと上半身を起こした。
「オー! ラボ飯でヒトとNebulAI、コラボですっ!」
そして、ツバメはバタリと倒れた。
あの治療後に意識を保てるというのは、興味深い。コアあたりの性能が高いことの証明であった。
「ああ、ツバメさん……ツバメさん……」
アカネはツバメの手を握り、軽くしゃっくりした後、再び号泣しはじめた。
ホシは忠志に詰め寄る。
「何か変な薬物でも入れたのではないですか!?」
「いや……麹菌をシミュレートするナノマシンを使って高速発酵させただけだけど……」
すると、アカネはピタリと泣き止んだ。
「……ナノ……マシン? 何て物を食べさせるんですか!」
「大丈夫ですって。そもそも一九九〇年代から合成肉の製造に使われてますし、それに、ちゃんと五分以上加熱しているので」
「……患者の前で何て事を!」
この大騒ぎはしばらく収まりそうになかった。
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