Episodes[10] // 無礼だなんて思ってませんが


 午前三時。


 忠志は暗闇の中でスマートフォンの画面を眺めていた。USB充電器から微かにチーという高周波音が聞こえている。頭の片隅で思案を巡らせた結果、ACインバーターが生成する矩形波のせいで、コンデンサーが発振しているのかもしれないという結論に至った。


――知らんけど。


 忠志は、新・嵯峨研の無線LANに接続し、保管している資料を閲覧していた。明日からどういう方向で解決策を探るか思案を巡らす。


 既にハカリ医師の発案で数百人に予防措置を施した。少なくともあと数日間は緊急手術を行う必要はないし、手術であればハカリ医師でも対応できる。それよりも忠志に求められていたのは根本治療の発見であった。けれども、それは首都総合病院だけの話だ。世界中で危機的な状況を脱したわけではない。まずは、管理者ルート権限が付与されていない者でも行える治療法を見つけなければならなかった。


 だが、懸案事項はもう一つあった。

 くだらないことであるが、正直なところ、忠志が眠れない理由はそちらにあった。それは、自分の真上、あの鉄板の向こうにホシが居るという事実である。そのことを考えただけで、胸がそわそわとした。まるで初恋をした中学生のようである。野蛮な人類、ここに極まれり。忠志は頭を振ってため息をついた。


 その時、ごそごそと音が聞こえたような気がした。まさかとは思いつつ、小さな声で呼び掛けてみる。


「……ホシ少佐、まだ起きてます?」


 すると、すぐにホシの返答が返ってきた。


「はい、何か御用でしょうか」


 やはり気のせいではなかったようだ。その声が愛おしかった。


「あ、えっと、もう寝た方が良いですよ。睡眠不足では効率が下がる」

「同じ言葉をそのままお返しします」

「違いない……」

 忠志は笑って応じる。胸が張り裂けそうだった。


「ご用件はそれだけですか?」

 ホシは相変わらず慇懃無礼な口調だ。


 もしこのパンデミックに一致協力して立ち向かうためなら、ホシとの個人的な関係を改善しなければならない。


「ただ、少し謝っておきたくて……」

「何の事でしょうか?」

「正直に言います。ホシ少佐、あなたに一目惚れしたのは事実です」

「……え、そういう話は」

 ホシの口調が動揺する。予想とは異なった反応だった。

 忠志は構わず言葉を続けた。

「だからこそ、あなたに不愉快な思いをさせてしまったことが心苦しいのです。すみません、軽率でした。以後、言動には気をつけます」

「……謝罪は受け入れます」

「ありがとうございます」


 これで良かったのだろうか。胸の底がチクリと痛んだ。

 窓側のカーテンには非常灯の明かりがぼんやりと映っていた。


 しばらく経って、今度はホシが口を開く。


「ぼく……すみません。私からも謝罪を」

「……あなたを『野蛮』と表現したことです。そのような感情を向けられたことがなかったのです。不適切でした。謝罪します」

「謝罪を受け入れます」


 思わず忠志がホシの口調を真似ると、ホシがムッとした表情を浮かべたのが分かった。


「でも、好意を寄せられたことがないって……」

「はい。ご存じのとおり、この世界は人と違うことに不寛容です。ぼくはずっと排斥されてきたのです」

「え?」

「お気づきかとは思いますが、ぼく……私には通信機能だけでなく言語機能にも不具合があります」

 その声色には深い絶望のような何かが感じられた。


「ああ、気になってはいたんです。毎回どうして言い直してるんだろうって」

「ご無礼は申し訳ありません」

「無礼だなんて思ってませんが」

「ぼく……私は言語上の性別の区別がうまくできず、男性形や男性代名詞を使ってしまうのです」

「そうか、共通語も男性形、女性形とかあるんですね。エスペラントもそうだった」


 自然言語エンジンの開発で、担当の鹿谷が苦しんでいた部分だった。性別によって言葉使いが異なるのはなぜだろうか。単に文化的なものであろうか、それとも、性別によって言語処理系に差異があるのだろうか。ミーティングで議論を重ねた。けれども、開発者の迷いは将来のトラブルを招きがちである。ホシの不具合はそういった類のものなのだろう。


「日本語の場合は一人称代名詞にも影響があります。『私』という単語は女性的な表現も兼ねているためか、気を抜くと男性的な『ぼく』を使ってしまうのです」

「でもその程度で爪弾きに?」

「はい」


 NebulAIはヒトの良い面も悪い面もその性質を受け継いでいる。恐怖、それは命を守るために有益である。しかし、行きすぎた恐怖は、他者や多様性までも排除してしまう。

 ホシが時々見せる背中には寂しさが滲み出ていた。職場だけでなく、これまでの人生において、ずっと孤独だったのだろう。忠志には理解できた。忠志も姫路工科大学の理事長に拾われる前は、そんな人生だったのだ。誰からも理解されない。孤独な闘いだった。もし、あの理事長に拾われていなければ今頃はNebulAIのネの字も存在せず、ただ荒野が広がっていたことだろう。


「それは……今まで頑張って来られたんですね」


 しばらく考えた後、口に出たのはその言葉だった。ただ、苦労をねぎらうことしかできなかった。ホシの理解者などになろうと一瞬でも考えたことが、おこがましい。


「え……」


 ホシは言葉を詰まらせる。忠志は彼女が今浮かべている表情が想像できなかった。


「あと、無礼だなんて思わないでください。『ぼく』というのも、『私』というのも、どっちも好きですよ」

「ありがとうございます。個人的には、ぼく……私の個性として受け入れてはいるのですが……」


 忠志はその症状から、彼女の自然言語エンジンで発生しているトラブルの原因を類推していた。忠志にとっては専門外の領域ではあるが、仕様や設計背景を知っている。光が少しだけ見えた。


「無理に個性として受け入れる必要はないと思います。もし、つらい思いをしているなら、僕に頼ってください。何か力になれるかもしれません」


 ホシはしばらく何も答えなかった。

 やがて、事務的な口調で忠志に言った。


「……下心が見え透いています。さっきの言葉をお忘れですか?」

「……手厳しい」


 忠志は苦笑いを浮かべ、頭を掻く。



 それから少し経過してから、ホシの言葉は続いた。


「でも、ありがとうございます。そうおっしゃってくださる方は、あなたが初めてです」


 しかし、その言葉を聞くよりも早く、忠志は眠りに落ちていた。そのいびき声だけが部屋に響いていた。

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