Episodes[0] // すべてのはじまり


 ハリマ熱病のパンデミックが始まる少し前のこと。


 技術復興省の研究員である祝園ほうそのアカネは、東ハリマ自治区に向かう車の中で、流れる景色をぼんやりと眺めていた。旧姫路市街地、現在ではヒメジ遺跡と言われている場所だ。コロッセオのように一部が崩落したビルが並び、それらは草木や樹木に呑み込まれようとしていた。この場所は産業遺産ツアーに人気だという。


 高速鉄道ヒメジ遺跡駅北口から西に向かって、一本だけ舗装された道路がある。しかし、その道路もひび割れ凹凸が続き、マンホールは飛び出し、雑草に覆われようとしていた。車を運転する同僚のツバメは、早々に車輪走行を諦め、反重力浮遊走行モードに切り替えた。酷い車酔いが待っていそうだ。


 少し走った所に、アカネのかつての勤務先があった。少なくとも三百年前は京姫鉄道きょうきてつどう本社ビルであった建物だ。頑丈な杭に支えられ、現在も原型を残している希有な建造物である。鉄道の高架が本社ビルを串刺しにするユニークなデザインで、現役当時は大将軍だいしょうぐん駅としても営業されていた。しかし今となっては、すっかりと朽ち果て苔むしてている。ガラスがすべて割れ、黒くぽっかりと開いた穴が並ぶ様は、少し恐ろしくも思えた。


「懐かしい、ですか!?」


 と、同僚の研究員、ツバメがそう言った。


「懐かしいというか、信じられない気分ですね。少し前まで、わたしはここで働いていましたから」


 アカネもまた、過去の世界から複製されたヒトであった。とはいえ、複製されたのは忠志よりも一年前のことだ。もちろん、その理由も忠志とは異なる。簡単にいえば、歴史調査の一環であった。


「ごめんなさい、です! 私は好奇心に弱いです」

「知ってます」


 彼女を責めるつもりはなかった。確かに彼女がアカネを複製した。しかし、当時は知的存在の複製を禁止する法律すらなかったのだから。


 車は交差点で左折し、南に向かって走り出した。

 やがて飾磨と呼ばれていた場所から東に向かって海沿いの道を走る。恐らくこれは国道二五〇号線、通称「浜国」だった道だ。街の面影は残っておらず、ただただ荒れ地が続くだけだ。祇園精舎の必衰の理がなんとかである。


 やがてアカネが吐き気を催してきたころ、車は東ハリマ自治区に入った。この地域にはかつての姫路市の西端と高砂市全域および加古川市の東半分が含まれるという。


 検問所を通ると、少し開けた街に出た。すべての人工物が色あせ、錆と水垢で薄汚れていたが、この場所には活気があった。少なくとも廃墟都市化したヒメジ駅周辺に比べれは、人がいるというだけで安心感がある。

 商店街のアーケードをくぐる。そこには買い物をするNebulAIネビュライ達の姿があった。店先の値札には『新鮮! お買い得! 白菜 248円』とある。青々とした白菜が山盛りだ。ツバメによると、この地域はまだ日本語の文化、そして貨幣経済が未だに残っている。それはこの世界では極めて少数派であり、中央政府からは疎まれているともいう。しかし、文化遺産の調査という意味では、東ハリマ自治区は重要な拠点であった。


 アーケードを抜けると、そこに技術復興省ハリマ庁舎があった。


「どうも、ちわっす! ツバメとアカネ、参上でやんす」


 ツバメがそう挨拶すると、出迎えた職員は怪訝そうな表情を浮かべた。この地域出身の職員は日本語を母語としている。彼女のようにミーハーで語彙の偏った日本語話者は珍しいのだろう。アカネと職員は目を見合わせ、苦笑した。東ハリマ自治区の調査期間に入ってから一週間。毎日のようにこれが繰り返されていた。

 今日の仕事もルーチンワークである。保管されている史料を解析し、失われた技術の再興に役立てること。アカネがかつて社内システムエンジニアとして仕事に追われていた頃とは比べものにもならないほどの生ぬるさであった。確かに退屈ではあるが、ソファーに転がっていても誰にも咎められない。これが彼女の求めていた理想の仕事であった。

 とはいえ、今日は少しだけいつもと違っていた。今日の調査対象は、時空複製器での複製物ではなく、数ヶ月に一度あるかないかの純粋な出土品だと聞いている。それはそれで日常のちょっとしたスパイスにはなりそうだった。


 史料分析室で二人は早速今日の作業にとりかかった。データをサルベージできたのは半数ほどであったが、興味を引くようなものは特になかった。


 『未処理分』と書かれた箱に最後に残ったのは、親指ほどの大きさのスティック型記憶装置だった。一見USBメモリのように見えるが、これはアカネの時代のものではない。ツバメによると、二十二世紀頃のものだという。内部にクリスタルを用いたその記憶装置は、数百年経った今でもデータを保持している。


「楽勝案件デス!」

「へいへい」


 ツバメがクリスタルスキャナーで取り出したデータを、アカネがラップトップ端末で確認する。バイナリエディタで内容を確認していくうちに、データにはext4ファイルシステムでフォーマットされたディスクイメージが含まれていることが分かった。


 ファイルシステムとは、記憶媒体上のデータをファイルやフォルダという単位で管理するためのシステムである。我々がパソコンのデータをファイルやフォルダとして取り扱えるのは、他でもないファイルシステムのおかげである。数多くあるファイルシステムのうち、ext4ファイルシステムは主にLinuxで広く使用されていたものだった。

 ext4ファイルシステムは二〇〇六年頃に登場したが、この出土品を見る限り、少なくとも二十二世紀まで生き延びたということを意味する。ソフトウェアは想像以上に長生きするものらしい。


「ああ……ext4のイメージをマウントできる端末が手元にありませんね。本省に取りに行きますか?」

「何を言ってるですか、アカネさん! 私がここにいる、です!」


 そうか、とアカネは思った。そのヒトに酷似した外見故に、ツバメがNebulAIであることを時々忘れてしまう。その人工生命を支えるシステムは、二〇三〇年から二〇五〇年頃にかけて開発されたものであり、当然ながらext4のディスクイメージを読み込む機能が搭載されている。ツバメは端末を操作して、自らのシステム内にデータを転送した。仮想マシンを起動してディスクイメージをマウントする。


「マウントしました。大したものは見つからない、ですね! あ、実行できそうなファイルがあるです! ソリティア! ゲームっぽいですね。データを取り出して実行する、です!」

「あ、待って下さい!」


 アカネの制止も虚しく、ツバメはそのファイルを実行してしまった。


「何も起きない、ですね! つまらない、です!」


 アカネはため息交じりに彼女に言う。


「本当、マルウェアかもしれませんから無思慮に実行するのはやめてくださ――」


 しかし、ツバメの反応がなかった。彼女は口を開いたまま固まっており、しばらくしてそのまま床に倒れ込んだ。

 アカネは慌てて彼女を支えたが、周囲にいた職員も同様に床に倒れていた。


 血の気が引いた。危惧したとおり、いや、それ以上だった。これはNebulAIに感染するマルウェアだったのだ。しかも、ネットワークを通じて伝染するウィルスであるらしい。ふと窓の外を見ると、道ばたに倒れる人々の姿が見えた。


 冷静になど対処できそうになかった。閃光弾と催涙弾が飛び交う中で東大入試を受ける方がまだマシだった。


 とっさに、脈を確認する。脈はある。アカネはディスポ電極をツバメの額に貼り、手元の端末でツバメのメンテナンスコンソールにログインした。機内モードをオンにしてすべての通信を遮断する。もちろん、この行為は、法律違反である。しかし、アカネは自分が何をしているか分かっていなかった。頭が真っ白だった。ただ、彼女の社内システムエンジニアとしての経験が彼女をロボットのように突き動かしていた。


 救急に連絡するも応答がない。通報が殺到しているか、それとも、救急が機能を失っているか。警察も同様だった。やっとのことで国立首都総合病院に繋がった。


「すみません、あー、えっと……Helpu min! NebulAI komputila viruso infekto……eksplodo……? えーlocation うーwhere……あーkie estas orienta harima  うー」


 片言の共通語で必死に助けを求める。だが、電話を受けた係員には通じなかった。


――スミマセン・アーエットさん、助けて。NebulAIコンピュータウィルス感染爆発。エー・ロケーションウーフエアー・アー。東ハリマはどこですか? ウーさん。


「Mi ne komprenas」


 その冷たい言葉の後、通信が切断された。分かりません、の意味である。後の調査で分かったことであるが、この係員はこの連絡をイタズラ電話だと判断していた。



 アカネは再び連絡しようと、モニターを見て驚いた。


「……脳内温度が!」


 ツバメの脳内温度が四十度を超えようとしていた。コンピューターウィルスがCPU使用率の上昇させ、脳内温度の上昇を招いていたのである。それは極めて憂慮すべき事態だった。


 NebulAIの死の定義は、脳内――具体的にはNNGPA(Neural Network Gel Pack Array)内――のニューラルネットワークが崩壊することである。その要因の一つが高熱だった。このまま放置すれば、NNGPAの内部温度が五十度を超え、ニューラルネットワークの崩壊は避けられない。それだけは何としてでも避けなければならなかった。


 アカネはコンソールにログインして、topコマンドでCPUを占拠しているプログラムを特定しようと試みた。だが、一覧に現れたのは正気を失ったkworkerの大群であった。ウィルスがカーネルモードで動作しているのだとすれば、一般ユーザーでは太刀打ちできない。管理者ルート権限がない今、ソフトウェア的な対処は難しかった。


 それなら、ハードウェア的な対処を行うしかない。アカネは空調システムにアクセスし、庁舎内の気温設定をセ氏零度に設定した。そして、食堂の冷凍庫の氷をビニール袋に詰める。その氷袋でツバメの首筋、わきの下、太ももの付け根を冷やした。それが正しい対処か分からなかったが、モニターを見る限り脳内温度の上昇抑制には寄与しているようだった。


 ツバメの状態が安定したことを確認すると、建物内の職員を一カ所に引きずり集め、同じ処置を繰り返す。いつしか彼女の手には血が滲んでいた。擦り傷に氷が染みる。


 だが、それがアカネがなし得る限界だった。もう氷には在庫がない。屋外で助けを求める人々は、ただ歯噛みして見捨てるしかなかった。


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