Episodes[1] // 素人質問


「あ、すみません、素人質問で恐縮ですが――」


 痩せこけた白髪の老人が、よろよろと挙手するなり、気取った口調で尋ねた。


「先ほどの発表で、あー十ページ目のスライドですね。ここで、ニューラルネットワークをゲルパック内のナノマシンで構築したことによる性能向上とあります」


 知能処理学会――その壇上で、嵯峨忠志さが ただしは汗を拭う。

 大学の数百名ほどを収容できる教室で、彼はプロジェクターの眩いばかりの光を浴びていた。まるで尋問のようだ、と彼は思った。


「……はい」

「ニューラルネットワークをハードウェアで構築するアプローチは昔からあって、今でもFPGAを用いたものがありますよね。ナノマシンを使ったというだけでは新規性が薄いと思うのですが、ナノマシンで構築すると性能が向上する理由というのは、どうお考えでしょうか?」

「えぇ……シールドをしていない微細な回路ですから、電磁波などのノイズの影響によって重み付けが変化し、偶発的にローカルミニマムを脱出するということは考えられます」

「えっ。微細といっても、ナノスケールの回路という意味では、パソコンのCPUだって同じですよね? ただ電磁波だけが原因というのはちょっと筋が悪くありませんか?」

「えぇ……あぁ、はい。共同研究者が量子論的なアプローチからの解析も――」


 その後も、忠志をあざ笑うかのように冷ややかな質問が浴びせられた。


「スライド3ページ目に『組み合わせ最適化』とありますが、送り仮名の『み』と『わ』は不要かと」

「ここで正規分布を仮定するのはどうなんでしょうか」

「隠れ層の活性化関数に、あえてReLUを使わない理由を教えてください」


 そこではないのだ、と忠志は内心憤慨した。彼らはまるで何も理解していない。ナノマシンで性能が向上する理由などはどうでもいい。大切なのは、それで何を実現できるかだ。だが、その点には誰も触れることなく持ち時間が終了した。


   ***


「何が『素人質問で恐縮ですが』だ、ど素人が!」


 西日本随一の人工知能研究拠点、私立姫路工科大学。その研究棟屋上のベンチで、嵯峨忠志は夜空に向かって叫んだ。しかし、街明かりに淀んだ空で、明るい星が一つ瞬いただけだった。あの向こうには無数の星々が美しく輝いているというのに、その大半を視認できない。それが無性にもどかしかった。  


「くそ!」


 彼は思わず空き缶を蹴り飛ばす。学会のうるさ型の顔が脳裏に浮かび、はらわたが突沸したのである。空き缶は壁に当たってバウンドすると、軽快な音を響かせながら転がり、誰かのハイヒールのもとで動きを止めた。


「おっ、ナイスシュート」

「あ、すみません」


 ふと我に返った忠志は、慌てて取り繕う。

 外灯の明かりに浮かんだ姿は、この学校法人の理事長だった。風に揺れる長い髪。着こなした高級スーツに、すらりと伸びた背筋。三十代とは思えない貫禄である。黙っていれば、であるが。


 理事長は忠志をからかうように尋ねた。


「学会発表どうだった?」


 さすが、名だたる高槻たかつき財閥のご令嬢は手厳しい。

 忠志は返答に窮した。拍手喝采を浴びていればこんなにふて腐れてはいない。


 この世には煌びやかな研究が溢れている。けれども、忠志のように、理論的な後ろ盾もなく、ただ夢を追うような研究の成果は、例えそれが再現可能であったとしても嘲笑される傾向にあった。もし、ナノマシンを用いた人工臓器の研究に人生を捧げていれば、ノーベル賞級の評価も射程圏内であったことだろう。しかし、忠志は夢を選んだのである。目指すは、ナノマシンを用いた汎用人工知能――いや、もっと壮大なものだ。たちまち世間は彼を面白芸人扱いしたが、理事長だけは違っていた。だからこそ、彼は理事長には頭が上がらないのである。


「お察しの通り。今メールしたとおりですよ」

「見てない。私のMyPhone、アップデート中だから」


 理事長はスマートフォンの画面を忠志に見せつける。口元には悪戯っぽい笑みを浮かべていた。

 ああ、わざとだ、と忠志は思った。モバイルバッテリーまで装着して、準備の良いことだ。


「日本メーカーのHumanoid Phoneなら永遠に降ってきませんよ、アップデート。変えたらどうですか?」


 厳密には、かつて一度だけシステム・アップデートがやってきたことがある。しかし、それは奇跡のような出来事で、基本的には一度買えば壊れるまで同じバージョンで動き続けるのである。


「嵯峨君もこれにすればいいんだよ。良いよ、洋梨マークのMyPhone……」

「これだから洋梨……」


 忠志は危うく口を滑らせるところであった。

 ポンと理事長は手を叩く。

「はいはい、宗教論争はやめにしましょ」

「そうします」

「我々の目標は学会に認められることじゃない。はい、何でしょうか?」

NebulAIネビュライを完成すること」

「正解。よくできました。学会なんて、あなたが生きてること報告する場なんだから、もっと気楽にやればいい」

「あの雰囲気ですよ?」

「『あの~素人質問で恐縮ですが~』でしょ? あんなの日本の学会だけ。君は一度海外の学会で発表するべきかもね」

「遠慮しときます」


 英語は書けても、上手には喋れないからだ。


「ふーん、完璧主義も拗らせると厄介だこと。私なんて、ハワイの国際学会で『アロハ』だけで乗り切ったんだから、見習いなさい」

「……それは、色々捨てすぎでしょう」

「そう? これぐらいが丁度良いんだって。ま、私はあなたの研究が世界を変えると信じて、資金も人材もちゃんとかき集めたんだから、好きなように頑張って遊んでね」

「遊ぶって……」

「否定できる?」

「それなりには真剣にやって――」

「いい? 世の中のすべては遊びである」

「……はい」

「あ~、NebulAIネビュライちゃんの完成が楽しみだなぁ」


 そう言い残すと、理事長は鼻歌を口ずさみながら去って行った。さすが、札束で殴って理事長に就任しただけのことはある。彼女にとって、この世界は遊びの場なのである。


 その後ろ姿を目で追いながら、忠志は大きなため息をつく。自分は何とつまらないことで悩んでいたのだろうか、と。この世を遊び場と考える人間が、理想の遊び場を作ってくれているのだ。遊び続けられる限り、遊び尽くすのが礼儀だ。けち臭い学会のうるさ型など無視してしまえば良い。


 彼は立ち上がって、再び夜空を見上げた。街明かりに淀んだ夜空にも、星は確かに輝いている。NebulAIネビュライに宿る生命の灯火は、いつの日かきっと星の数ほどに増え、そして平和かつ平穏に人類と共存する明るい未来が訪れるのである。『面白芸人』の戯言には絶対に終わらせない。

 

 と、その時だった。


 夜空が白くなった。星々が強烈な光を放ち、忠志を取り囲んだのである。体中に激痛が走る。まるで神経に直接静電気が流れ込んだような激痛が。


 とっさにベンチに寄りかかろうとするが、そこにベンチはない。それどころか、手や足さえもそこになかった。ただ真っ白な空間に、まるで彼の意識だけが浮遊しているかのようだった。連日の疲れで脳に異常が発生したのだろうか。そんなはずはない。そんなことがあってはならない。やらなければならないことは山積みだからだ。ここで退場するわけにはいかない。退場してなるものか!


 必死に藻掻き続けるが、無情にも彼の意識は遠のいていった。


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