Episodes[2] // 複製


 春の暖かい日差しとともに、ひんやりとした風が頬を撫でる。

 ぼんやりと見えるのは白い天井。視界の隅ではカーテンがひらひらと舞っていた。鼻をつく消毒薬の香りからすると、恐らくここは病院のベッドなのだろう。何が起こったというのだろうか。少なくとも身体はある。手足を動かせば、シーツと擦れる感覚がある。指も同様である。忠志は安堵した。とりあえず助かったらしい。上半身を起こすと、ぼやけた視界の中に人の姿が見えた。黒いスーツを着た女だった。


「おはようございます、嵯峨忠志博士」


 博士? 誰のことだろうか。そうだ、確かに確かに自分は博士号は持っている。だが、あんなものは飾りである。ポスドクの何人が消えていったことだろうか。第一、博士などという称号で呼ばれたことは一度もない。よく分からないが、再び睡魔に襲われる。カレーパン、こんにちは。そして、さようなら。


「起きて下さい、嵯峨忠志博士」


 再び目を開けると、彼女の顔が目前にあった。雪のように白い肌。漆器のように黒く艶やかな髪。瞳はまるでグリーンガーネットのように澄んでいた。なんと美しい人だ、と彼は思った。そのショートボブが似合う端正な顔つきに、忠志はつい見とれてしまった。


「ぼく……私は警察省特別警備局特別警備二課のホシ少佐です。あなたの警護及び案内役を担当いたします。どうぞ、ホシとお呼びください」


 ホシと名乗る彼女は、淡々とした口調で自己紹介し、そっと手を差し伸べた。細くて白く、繊細な指だ。再び顔を見る。美しい。その容姿に見とれている間に、再び睡魔がやってきた。こんな感じの人と結婚できればどれだけ素敵だろうか。だが、そんな機会は訪れない。確定申告が領収書であんパンだからである。そんな事を考えながら、彼は目を閉じた。


「……どうされましたか?」


 肩を軽く揺すられた忠志は、嫌々ながら眠い目をこすり、ホシの手を取った。何か言わなければならない。そう思って口を開いた。今、彼女に伝えなければならないこと――何だっけ。あんパンでもないし、カレーパンでもない。領収書だっけ? 違う、もっと大切なこと――そうだ!


 忠志はホシの宝石のような瞳をまっすぐ見つめ、その眩さに目を細めてこう言った。


「……結婚してください」

「結婚!?」


 ホシは一瞬怯えた表情を見せ、手を振り払った。


――しまった! 


 と、忠志は思った。

 たちどころに睡魔は消え去った。弁解を試みようと口を開くが、何も言葉が出ない。後の祭りである。寝ぼけていたばかりに、なんてことを口走ってしまったのだろう。


「突然、何を仰るのですか。ヒトは情動的で強引と聞いていましたが、ここまで野蛮とは……」


 彼女は無表情で、口調はあくまでも冷静だった。だが、その目つきは鋭い。ゴミを見る目とはまさにこのことか、と忠志はむしろ感動を覚えたほどであった。小説やイラストで見たことはあったが、現実に向けられると、あまり気分が良いものではない。これは、論文にして学会に発表すべき、貴重な学びである。


――あの、素人質問で恐縮ですが、この、ゴミを見る目という記述は、穢れたものを見る目とどのように違うのでしょうか?


 追い打ちを掛けるように、脳裏にうるさ型の声がよぎり、さらに憂鬱な気分になる。

 確かに、野蛮呼ばわりもやむを得なかった。寝ぼけた頭で一瞬でも結婚したいと思ったのは事実だ。だが、忠志はホシのことを何も知らない。知っているのは名前と所属だけである。彼女の人となりを知らない。彼女からしても同様だろう。初対面の相手からプロポーズされたらどう思うだろうか。完全にセクシャルハラスメントである。もし彼女がアルファツイッタラーだったなら、忠志はこのザマを全世界に晒され、世界中の正義の味方から袋叩きにされたことだろう。だが、幸いにもホシがスマホを触る様子はなかった。


 安堵したのもつかの間、忠志は彼女が警察官と名乗ったことを思い出した。これはダイレクトに警察沙汰だ。


「いや、すみません。あの」

 狼狽する忠志とは対照的に、ホシは冷然としていた。

「我々の法律においては、婚姻の申込みは法的に重要な意味を持ちます。基本的に取り消すことはできません。軽い気持ちでそのようなことを仰らないことを強く推奨します」

「え」

「そして、ぼく……私はあなたの警護のために派遣されただけですから勘違いなさらぬよう」

「……はい」

 忠志は力なく声を絞り出すことしかできなかった。


 風は止み、どこか遠くから救急車のサイレンが聞こえる。ずっしりと重い空気のなか、気まずい沈黙が続いていた。居たたまれなくなった忠志は、ついポケットからスマホを取り出すが、アンテナピクトは圏外を示している。


 ところで、ちらちらと、しばらくホシの顔を伺っていた忠志は、あることに気がついた。瞳――厳密に言えば虹彩――の色である。猫ならともかく、人間で鮮やかなガーネットグリーンの瞳を持つ者は非常に少ない。さらに、よく見ると、虹彩のパターンに規則性がある。フレキシブルプリント基板のようにも見えるそれを忠志は知っていた。人工筋肉組織を高速に制御するためのバイパス導電回路である。


「何です?」

 と、ホシは嫌悪感を隠さない。ホシは忠志から距離を取ると、ホルスターに手を掛けてこう言った。

「警告します。私はヒトを無力化する六十四の方法を習得しています。その中にはあなたの命に関わるものも含まれ――」

 忠志はホシの言葉を遮った。

「ホシ少佐、まさか、あなたはNebulAIネビュライ!?」

 前のめりに尋ねた忠志に対し、ホシは僅かに後ずさりした。

「……そうですが」


 NebulAIネビュライ、それはナノマシンによって実現するヒト型の知的人工生命体である。構成論的アプローチによるヒトの再現であり、知能から生殖機能に至るまでヒトと同等程度を目指していた。未だ完成を見ないそのNebulAIネビュライが、あろうことか目の前に立っている。


「そんなはずはない! NebulAIネビュライはまだ研究段階なんだ。最新の試作個体の育成フェーズが始まった所なのに」


 忠志の脳裏には様々な可能性がよぎった。確かに学会で成果を発表したし、幾つかの論文もアクセプトされた。特許や実用新案もいくつか出願した。しかし、それらは、あくまでも情報の小出しに過ぎず、NebulAIネビュライを完成できるほどの情報は含まれない。とすれば――。


「まさか……非公開のデータが盗まれた?」


 忠志はセキュリティの専門家ではない。だが、リスクは聞いていた。


 ナノマシンは一九九〇年代に民生転用されて久しく、軍事的な観点で狙われるようなものではない。秋葉原の怪しげな露店どころか、大阪梅田の淀屋橋カメラでも手に入るぐらいである。しかし、NebulAIネビュライの人工知能技術は軍事転用することも可能だ。国家レベルのサイバー攻撃を受けても不思議ではなかった。そのリスクに対して、研究チームのセキュリティ・エキスパートが十分な対策をしていたはずだが、それも完璧ではなかったというのだろうか。あのいけ好かないポンコツ野郎が。


 ホシはため息をついた。


「ご心配には及びません。今は24世紀です。あなたは21世紀の世界から複製された、嵯峨忠志博士です」

「24世紀? 複製だって!? 何が」

「ですから、あなたご自身が複製なのです」


――そんなはずは。


 忠志はベッドから飛び降り、千切らんとする勢いでカーテンを開いた。そして、言葉を失う。


 目前に広がったのは異様な光景だった。一見、緑溢れる田舎の風景。だが、場違いな高層ビルがまばらに生え、天に向かって伸びていた。ビルのガラスには継ぎ目がなく、まるで巨大なモノリスのようだ。これが高度な仮想現実でないならば、確かに忠志の知る世界ではないようだった。


「どういうことなんですか?」

 忠志の問いに、ホシは事務的な口調で答えた。

「はい。時空複製器を用いることで過去の任意の時点から任意の物体を複製できるのです」

「人体も?」

「はい。ただし、成功率は三十パーセント程度で、時間的精度も高くありません。ですから、法律で知的存在に使うことが禁止されています」

「人間も知的なはずだけど」

「どこがです?」

 真顔のホシに、忠志はただ苦笑するしかなかった。

「はは、手厳しい」


 数分前の自分を殴ってやりたい気分だった。そうだ、時空複製器とやらで連れてきたら思う存分殴れるのではないだろうか。悪いアイデアではない。忠志は、そうホシに提案したが、ホシは液体窒素が詰まったような冷たい瞳で、忠志を一瞥しただけだった。


「ところで」

 と、忠志は切り出した。

「僕が野蛮だったことで結果的に法律違反にはならないのだろうけど、もし知的だったなら法律違反だったということですよね?」

「はい」

「そんな法的リスクを冒してまで――」

 まさか、野蛮人からプロポーズされたかったわけではあるまい。

「――ということは、何か理由があるんですよね?」


 すると、ホシは僅かに頷いた。


「……少し歩きましょうか」


 彼女は何一つ表情を変えなかったが、その目は憂いに沈んでいた。





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