Episodes[3] // ヒトの愚かな遺産


 ホシによると、ここは首都にある世界最大規模の総合病院だという。


 白く無機質な廊下が、まっすぐ続いていた。天井は一面がすべて均等に発光しており、廊下は屋外のように明るかった。無骨な配線どころか、ポスターの一つさえも見当たらない。清潔感の漂うミニマルデザインの――いや、清潔感が行きすぎた殺風景な内装である。行き交う人々は皆、白い肌と鮮やかでカラフルな瞳だった。


「みんなNebulAIネビュライ!?」

「はい」

「こんなに、NebulAIネビュライが。本当に二十四世紀って感じだ……」

「そうですか」


 ホシは相変わらず冷淡だ。忠志は苦笑した。

 彼女は八インチほどのサイズのタブレット端末に視線を落としながら歩いている。それでいて、律儀にも忠志から約一・五メートルの距離を保つことを忘れない。彼女は忠志の何だと言っただろうか。警護担当ではなかったか。これは職務放棄である。忠志はそう指摘しようかと思案したが、心の中に収めておくことにした。ここで関係を悪化させることに何の得もないからだ。


 ちなみに、歩きスマホは何とやらであるが、NebulAIネビュライにはその心配はない。視野角はほぼヒトと同じだが、実質的な死角は少ない。ヒトと異なり、視野全体がくっきりと見えているからである。これは網膜上の画像素子が視野全体を均一にカバーしているからであり、そして、画像素子数は標準的なヒトの桿体細胞と錐体細胞の総数より多いからでもある。ただし、その欲張りな設計の代償として、毎秒最大百二十フレームの巨大画像を常時処理しなければならない。NebulAIネビュライに搭載できるCPUの性能には限りがあるため、愚直に実装すればCPUを百パーセント占有することだろう。幸いにも、グレースケール化、二値化、畳み込み演算のような定型的な画像・動画処理は、ナノマシンで構成したFPGAにオフロードできる。さらに、画像認識にはニューラルネットワークを使用する。結果的に、平常時のCPUの使用率は十数パーセント前後で収まるようになった。まあ、その成果についても、学会の連中は『素人質問』を繰り返すだけであったが。


 椅子に座る患者に対して、白衣の看護師らしき男が笑顔で話しかけていた。

「Bonan matenon」

 しかし、その声には疲労の色が滲んでいる。

 しばらくぼんやりとしていた汗だくの患者は、やがてかすれそうな声で力なく応じた。

「Bonan matenon」


 そういえば案内版には日本語が見当たらない。アルファベットが使われているが、英語ではないようだった。

 忠志はホシに尋ねた。


「ぼーのぼーの?」

「ボーナン・マテーノンです。おはようの意味ですが」

「ああ、エスペラントですか」


 中二病を患っていた頃の記憶がふと蘇り、のたうち回りたくなる。


「厳密には、単に公用語と呼ばれています。文法や単語も、エスペラントとは若干異なります」

「日本語とか英語は使われてないんですか?」

「単語としては使われています。例えば、ぼく……私の名前は、日本語の『星』が由来です」

「おー、良い名前! 似合って――」

 アイスピックのような視線を受けて、忠志は慌てて口をつぐんだ。口説いているわけではなかったが、思った事はすぐ口に出てしまうのが忠志の悪い癖であった。

 ホシは続ける。

「特に医療用語は英語、日本語、ドイツ語を由来とする用語が多いと思います。日常語にも少なくありません。建国前は多様な言語が使われていたこともあり、ピジン言語が定着してクレオール言語化したものが現在の公用語といわれています」

「面白い。鹿谷ろくや、ああ、NebulAIネビュライ研究チームの自然言語担当なんですが、彼が聞いたら、嬉々として質問攻めにするだろうな。でもその経緯だと、まだ昔の言語を使い続けている地域もありそうですね」

「はい。仰る通り、ごく一部に日本語を使う閉鎖的なコミュニティがあります。しかし、我々は言語の違いが争いを生むと考えていますので、原則として公用語を使うことにしています」

「興味深い」

「そうですか」

「待って、となると僕も公用語を使えってことか」

「ヒトの言語学習能力は極めて低いと聞いておりますので、しばらくは日本語で結構です」

「しばらく……しばらくだって……!?」

 英語すら苦手なのに、と危うく漏らすところだった。自分が苦手とする外国語で困らないようにとNebulAIネビュライの自然言語処理エンジンには多くの開発コストを掛けた。その結果がこれである。報われないとはこのことだ。


 シュッパッという軽快な音を立てて、扉が開く。どうやらエレベーターのようだ。

 1階に到着すると、人通りは多くなった。多くの患者は診察を待って椅子に座っているが、立って並ぶ患者の姿がある。白衣の医師や看護師が血相を変えて走り回っていた。


 ところで、忠志は度々向けられる冷ややかな視線が気になっていた。ホシだけではない。患者や医療スタッフからも浴びせられている。中学時代に似たような経験がある。


「背中に紙でも貼られてます?」

「いいえ」

「それにしては、何か、注目されているような」

「生物学上のヒトは、22世紀に絶滅しました。今は過去から複製された人間は、あなたを含め2名です。あなたが物珍しいのでしょう」

 ホシは淡々と、何の感情もないかのようにそう言った。


 もしそれが事実なら、衝撃的だ。しかし、原因は――。


 忠志には気がかりがあった。NebulAIネビュライとヒトの夫婦が増えていけばヒトの人口は減少してしまう。その可能性は確かに危惧していた。しかし、NebulAIネビュライはヒトと同様に胎生であり、工場で大量生産するものではない。爆発的に個体数が増えるわけでもなく、ヒトを駆逐するような事態が百年やそこらで訪れるとは思えなかった。そこから推測するに、人類が迎えた週末は穏やかなものではなく、突如として訪れた悲惨であったに違いない。


 忠志は恐る恐る尋ねた。

「どうして絶滅を?」

「ヒトは生物兵器で自滅したのです。ですから、我々はヒトを反面教師にしています」

「生物兵器で自滅だって!? なるほどね……なるほどね……」


 忠志は平静を装った。だが、冷や汗が背中を伝う。手はわずかに震えていた。それは怒りなのか、哀しみなのか、忠志には分からなかった。ただ、彼が思い描いた理想の未来は訪れなかったということだけは確かだ。NebulAIネビュライが人類の間を取り持って、皆が平和に暮らす未来は。とはいえ、人類の争いの歴史を考えれば、何の意外性もなかった。これは、避けられなかった結末なのかもしれない。


「何と愚かな……」

 と、忠志は声を絞り出した。


「同感です」

 ホシはあざ笑うでもなく、悲しむでもなく、ただ冷淡にそう言った。ただ、彼女の言葉は人類に対してではなく、特定の個人に対して向けられているようにも聞こえた。


 角を曲がると、徒競走ができそうな広さのロビーホールに出た。


 ホシは足を止めて忠志に向き直る。


「しかし今、我々もまた絶滅の危機にあるのです」


 ホシの背後に広がる絶望的な光景に、忠志は言葉を失った。そこには無数の患者がブルーシートの上に所狭しと横たえられている。患者数に対して医療スタッフは明らかに不足しており、あちらこちらで患者の家族が悲壮な表情で医療スタッフに助けを求めていた。それはまるで野戦病院であった。


「――その愚かな旧人類の遺物で」

 と、ホシは付け加えた。




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