2-1:不穏な空気

 特殊な屁が出ると判明したあと、家に帰ってから素夫と経は今後についての話し合いを行った。そして、経から出る「屁」の成分を詳しく調べるために通学前と帰宅時に、須賀志総合病院に寄ることが決まった。その日食べたものが影響するのか、また、日ごとに成分が変わるかどうかなどを調べるためだ。


「じゃ、行ってきまーす」

「あんま気張って漏らすなよー」


 朝食を食べて、素夫と一緒に病院へと向かった。検査をするために我慢していた屁を出して、すっきりとした気持ちで声を出したのだが、その顔はすぐに苛立ちに歪んだ。


「黙れクソジジイ!」


 からかうことが大好きな自分の祖父に呆れつつ、経は学校へと向かった。

 経の屁に特殊な効果がつくことが判明した昨日から一夜明けた今日。経は高校生なので、当然だが平日は授業がある。

 電車に乗り込み、普段通り学校の最寄り駅で降りる。

 今までは屁をしたくなったら適度に我慢して、ばれないようにこっそりとできていた。だから我慢をする辛さはそこまで経験したことがないし、屁を頻繁にしたいと思うこともなかったように思う。だがしかし、してはいけないとなると猛烈にしたくなるのはどうしてなのだろうか。

 今は我慢して、学校のトイレでしよう。そう決めた経はわずかに歩く速度を早め、最寄り駅から五分もかからない高校へと急ぐ。


「けいー、おーはーよー!」

「うぐっ」


 後少しで校門というところで、経の背中を襲った衝撃。出そうになった屁を気力で止めて、背中にぶら下がっているものはそのままに、ぐるりと首を後ろへと向ける。


「おーざーわー」

「姫って呼んでって言ってるでしょ!」


 色素の薄い茶色の髪が視界の端にちらつく。癖のあるその髪の毛はパーマをかけたようにゆるいウェーブを描きつつ、そのウェーブの方向は全てバラバラだ。

 飛びついた本人である緒澤おざわ姫海きみは、経の背中にぶら下がった状態のまま突進したことへの謝罪はせずに呼び方の訂正を求めている。


「姫って名前についてるんだから、使わなきゃ」

「意味わかんねぇし。つーか、いい加減降りろ」


 黙っていれば美少女。その代名詞とも言える姫海は、ほんのりと赤く色づいたほっぺをぷぅっと可愛らしく膨らませて不満をあらわにする。


「おはよ、経」

「はよ、お前もいたんなら止めろよ……」


 姫海の少し後ろから姿を現したのは、白金しろがねたくみ。高身長で黒髪短髪。爽やかでスポーツができそうな少年に見える工は、パソコンの入ったカバンを大事に抱えながら面倒くさそうに顔を歪めた。


「僕に姫が止められると思ってるの? 無理でしょ」

「……降りろ、緒澤」


 真顔で返された言葉に思わず押し黙り、反論することはやめて未だ背中に乗ったままの姫海に声をかける。


「ひーめー」

「……降りろ、姫」


 深く息を吸ってから重々しく吐き出された望み通りの呼び名。満足そうに頷いたあと、姫海が心底不思議そうに首をかしげる。


「毎回このやり取りするの無駄じゃない? 中学からずっとだよね。経は学習能力ないの?」

「同感」


 さらりと肩から落ちた癖っ毛に一瞬視線を奪われた工も小さく首を縦に動かした。


「うるせ」


 経と工は小学校からの仲で、姫海とは中学から一緒だ。

 機械作りに関しては天才的で、現在は飛呂総合高等学校の機械工学科に通う姫海。そして、プログラミングに関しては企業からも声がかかるレベルで、同じ高校の情報学科に通う工。二人は中学で意気投合し、結果、工と仲のいい経を含めた三人で今もよく行動をしている。


「で、経はなんで昨日休んだの?」


 姫海が、唇に人差し指を当てて首を傾げた。性格補正なのかも知れないが、全然ぶりっ子に見えないところがすごい。


「それ、僕も気になってた」


 三人は校門から学校へと入り、下駄箱で靴から上履きに履き替える。経は体育学科のため、三人とも下駄箱の場所は違う。一旦別れ履き替えてから再度顔をあわせたあと、経は言いづらそうに人差し指で頬をかいた。


「とりあえず、トイレ行ってからでいいか?」


 急いで知りたい訳でもないので、姫海と工は大丈夫だと同時に頷く。


「じゃあホームルームも始まるし、昼休みに屋上でいっか」

「ん」

「おー」


 昼の約束に全員が了承したのを確認すると、三人はそれぞれのクラスへと足を進めた。

 クラスに荷物を置いてからトイレに向かい、経は無事に事なきを得た。その後は通常通りの授業を普通に受ける。昨日の電車内での事件を知っているクラスメイトもいていろいろと聞かれたりもしたが、それも当たり障りのない回答で躱していればあっという間に昼休み。

 昼食用に購買で焼きそばパンとメロンパン、クリームパンを購入してから経は屋上へと向かう。階段を上って行くと、ちょうど屋上への扉を開けようとしていた姫海がいた。


「経も今きたの?」

「おう、工は?」


 経が質問を投げかけたそのとき、姫海が触れていたドアノブが勝手に外側へと開いた。


「もういる」


 扉を開いたのは工だった。右肩にパソコンが入ったカバンを下げ、右手に弁当箱の包みを握っている。そして、左手でドアノブを掴んでいた。

 お礼を言って、工が開けた扉から屋上へと出た姫海の後ろに経も続く。じっとりとした熱を感じる季節になってきたが、屋上に吹き付ける風のおかげかそこまで暑さは気にならない。

 三人は太陽に背を向けて座ると、それぞれの昼食を広げた。


「で? 結局なんで休んだのー?」


 弁当に入っていたミニトマトを口に運んで、ヘタを弁当箱の蓋に置いてから姫海が声を出した。奥でだし巻き卵を食べている工は、無言で経を見つめている。


「事情聴取受けてたんだよ」

「なになに? 事件?」


 身を乗り出してきた姫海を押し返し、経はクリームパンの最後の一口を飲み込んだ。


「そ」

「詳しく」


 弁当を食べ終わった工がようやく声を出した。


「あー……誰にも言うなよ」

「もちばっち!」

「古い」

「うるさいよ工くん!」


 両手を振り上げる姫海とパソコンを守る工を視界にいれて、動じることなく経は昨日怒った出来事を順番に話した。

 できることなら言いたくはない。それでも隠さずに全て伝えたのは、二人に隠し事をしようものなら、どんな手を使ってでも吐かせようとするとわかっているからだ。そもそも、素夫とも知り合いの二人に秘密にし続けるのは難しい。


「す――」

「言うな、繰り返すな」


 経の周り、半径一メートル以内の人が眠ってしまったこと。そして素夫が調べた結果、電車内でしてしまった経の「すかしっぺ」が原因だと判明したところまで説明をした。

 その瞬間、ヒーッとお腹を抱えて笑いながら、姫海が大きい声で復唱しようとした。その言葉を経が慌てて止めると、吐き出せなかった分の息が詰まったからか今はゴホゴホと咳き込んでいる。


「その力で世界征服でもするの?」

「しねーわ!」


 首をかしげる工も、口元に手を当てていることから笑いをこらえているようだ。工は表情があまり表に出ないため、このような動作をすることは非常に珍しい。


「あー……苦しい……もう、笑えない……」

「言いたくなかったわ、まじで」


 腹を抑える姫海もようやく落ち着いてきたようだ。長く息を吐き出して、途切れ途切れながらも声を出す。


「あれだね。それで武器作れるね。私に任せていいよ!」

「それは……ちょっと楽しそう」

「お前らがやると冗談で終わらんからやめろ」


 弁当箱を片付けた工が、パソコンを起動してカタカタと操作をし出した。どうやらデザインを考えているようだ。対する姫海もスケッチブックを取り出し、武器にするために必要な機能をサラサラと書き留めていく。


「やめろっつの!」

「無理だよー! 想像力が止まんない」

「楽しければなんでもいい」


 経の静止も虚しく、二人はお互いの意見交換をし始めた。

 最終的に、今日の帰りに三人で素夫の研究室に寄ることが決定した。そして午後の授業が始まるギリギリまで、経を置いてきぼりにした二人の会議は続いたのだった。

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