第2話 お店に通う理由づけ
翌日、オレは一人ほくそ笑みながら、ビルの床にモップがけをしていた。
昨日はときめいた。この幸せを……誰かと分かち合いたい。
そう思ったオレは友人の寺島にメールを入れた。内容はもちろん前日のできごとをこと細かに書いたものだ。五分も経たないうちに、寺島から返信メールがきた。
『おぉ! まさに、ドラマにあるような劇的な出会い! あるもんなんやなぁ。上手くいくことを願ってまっせ。続報に期待!』
やつめ、望み通りのリアクションだ。これでいい、これによって、オレはもっと寺島にうらやましがられようと精進するはず! 他人に報告、自慢することによって退路を断ち、前進せざるをえない状況を作り上げるのだ。
調子に乗ったオレは渡辺のやつにもメールを送りかけた。が、それはだめだ。たしかヤツは最近、合コンで彼女ができたはずだ。危ない危ない。つきあってもいないくせに中学生みたいにウカレていやがる、と馬鹿にされるに違いない。自慢するつもりが、逆に優越感を与えてしまうところだ。
よし、渡辺にはもう少し進展してから報告しよう。その頃にはアイツも別れているかもしれないし。
バイトを終え、家に帰ってからも、また誰かに自慢したくなった。次の餌食は後輩の野口にしよう。野口は長いあいだ彼女がいない。恋愛の免許証を五年以上更新していない。
部屋の電気を消し、深呼吸をしてからオレはヤツに電話をかけた。きっと野口だったら望み通りのリアクションをしてくれるはず。
「……どう思うよぉ? これどう思う? 覚えててんで! 半年以上も会ってへんのに覚えててくれてんで! 人の顔ってそんなに覚えてる? どう思う?」
さぁ……野口よ、羨ましがれ、オレを気持ちよくさせろ。
「でもさぁ、平日の昼間っから一人でお好み焼き屋やろ、んで小説読んでるんやろ。顔を覚えてたっていうより、悪目だちしてただけちゃうん?」
野口は意外にも噛みついてきやがった。
「確かにそうかもしれないけど。でも、普通声なんかかけてくるかな? やっぱりオレに興味があるからと……」
「一人で食べに来る客なんかあまりおらへんから、かわいそうに見えたんやって! たぶん」
かわいそう? 野口の分際で、オレのことがかわいそう?
「なんてことを言うねん! でもな、本を読んでてんでオレ! 孤独でも大丈夫な人っぽく見えるはずやん! やろ?」
そうだ。本を読んでいる最中なのに、わざわざ話しかけてきたんだぜ。
「ん、よくわからんわぁ……んじゃ、これからエロビデオ返しに行くし、切るで」
羨ましがられるどころか、気持ちは萎えてしまった。
早く復活をしないと。復活をするには生け贄が必要なんだ。
次の日、アルバイト先の主任(32才独身)にタイムカードを押すなり、お好み焼き屋での件を話した。
「へぇ、ふぅん、覚えててくれてたんだ。へぇぇ、そうなんだね」
一見、あまり興味のなさそうな反応に見える。だがそれは激しい動揺の裏返しによるものだと、主任との長いつきあいの中でオレはわかっていた。
オレは復活した。完全体となった。
そして一週間後、オレは『でんぐり返し』に向かった。血が滲むくらいにヒゲを丁寧に剃り(血の滲む努力というわけだ)お気に入りのシャツで完全に武装して。
八月十二日……お盆シーズンだから人は少ないはずと予想していたが、現実は逆だった。みんな里帰りしていると思っていた。でも都市部には連休をもてあます地方人が遊びに来るものなんだ。
人ゴミをかき分け『でんぐり返し』に着いたころには満身創痍だった。熱くなった体に熱い食べ物を入れるのか……しかもガラス越しに店内をのぞくと大変な盛況ぶり! オレはひどく場違いな気がして、すごすごと引き返した。都会に完全に敗北した。好きな子の顔を見る喜びよりも、にぎやかな店内で孤独を実感する辛さ。ネガティブなほうに想像力が働いたのだ。
真夏の街なんか歩くもんじゃない。オレは家に帰ってすぐに寝た。
翌週、オレは再び『でんぐり返し』に行った。
もちろん血の滲むくらいにヒゲを剃り、二週間前と服装がかぶったりしないように注意をして。恋は乙女だけでなく男をも綺麗にするのだ。
ところで好きな子ができたときの注意点がある。それは早いうちに彼氏の有無を確かめること。かつてオレは気になっている女子を遊園地に誘おうとして「ごめんね、彼氏に怒られちゃうから」と断られ、気まずい思いをしたことがある。
事前に確認しておけばよかったものを。傷も浅くてすんだものを。恋は盲目とはよくいったもので、好きになった女に男がいるなどとは、大抵の男の頭は考えないようにできているのかもしれない。おそらくDNA的ななにかがそうさせているのだと思うよ。
オレは自身にノルマを課した。それは結城さんに彼氏がいるかどうかを確認することだ。職場やサークルなど組織内での恋愛じゃないので、ライバルはいないが味方もいない。むろん情報通もいない。つまり本人に直接聞くしかないのだ、それもできるだけさり気なく。もし彼氏がいたとしても、オレの動揺が彼女に伝わらないように。
古典的なまじないではあるが、人という字を手のひらに書いて飲みこみ、オレは店内に入った。なんてこったい! お盆明けだというのに、客がいっぱい。それにあわせて店員の数も多い。五人ほどの店員が忙しそうにホールを歩き回っている。これでは結城さんと面会できるかわからない! くそぉ、モブキャラどもよ。またしてもオレの邪魔をしやがって!
オレはふたたび手のひらに人という字を書き、飲みこんだ。お前らなんか食ってやる!
「お一人様ですか? こちらへどうぞ」
テーブルに案内してくれたのは結城さんではなく、髭剃り跡の青いオッさんだった。
店内を見渡しても彼女は見あたらない。せっかく来たというのに。今回は店の中に入れたのに。観念したオレは青髭を呼び、海鮮スペシャルを注文した。
わざわざ足を運んで会えないのは辛い。もっと駅から近ければいいのに。
オレはバッグからレイモンド・カーヴァーの短編集を出し、読み始めた。飲食店で水を飲みつつ、本を読む……結城さんには会えなかったけど、考えてみればこれだけでもゆとりのある生活ではないか。
「ひさしぶりです!」
明るく弾んだ女子の声。本から目を上げるとそこには具材を持ってきた結城さんがいた。くそう、めっちゃ笑顔やんけ! オレは急いで背筋を伸ばし、本を閉じた。
ちょっとした奇跡をオレは感じた。だって店員が六人いて、持ってきたのが彼女だなんて! ロシアンルーレットでいきなりこめかみをぶち抜いた確率! いやいや、その比喩は間違っているぞ、なんだか不吉だし。とにかく落ち着けオレ、彼氏いるん? って聞かないと! いや、いきなりは不自然、とりあえずは深呼吸……ヒーヒーフー! う、生まれるぅ? だから落ち着けよ! もぉ!
オレは激しく動揺した。心臓がドキドキしている。どうしてこの子はこんなに素敵な笑顔ができるのだろう? けして計算のされていない無添加の笑顔だ。こんな表情で「頑張れ!」と言われたなら、魚雷にだって乗りこんでしまうかもしれない。そしてそんな笑顔を見せられたときには、オレはいつだって上手に笑顔を返せない。きっと不自然でぎこちない笑顔になっているはずだ。
「混ぜて落とすところまでやりましょうか?」
もちろんです。そのあいだしか、ちゃんと話せる機会はないもの。
「やっぱさ、お盆の時期は忙しかったの?」
「はい、ちょっと夏バテ気味です」
「連休はとったの?」
「えぇ、とりましたよ」
「そっか、田舎に帰ったりしたの?」
「私、実家なんですよ。田舎に帰りました?」
「うん、七月末に京都に帰ってみたよ。四日間くらいやけどね」
「家族の皆さんは元気でしたか?」
「それがね、オレの部屋さ、オトンに奪われてしまってさ。オカンと同じ部屋に寝泊まりしたんやけどさ、最悪やったで」
「ん? お母さん、寝るのが早かったとか?」
「うぅん、その逆。オレが寝たいのに、夜遅くまでテレビ見とるねん」
「へぇ、元気なお母さんですね」
アホかオレは? オカンのことを話してどうする? 彼氏がいるか早く聞くんだ!
「スタジオ内で爆笑がおきるたびに、オカンはふりかえってオレの表情を確認してくるねん。オレ、テレビを見てそんな笑わないのに、なんだかむずがゆくてさ」
「きっと、息子が退屈していないか気にしてるんですよ。いいお母さんじゃないですか」
そう言って結城さんははクスッと笑った。
「じゃあ、ごゆっくりして下さいね」
砂時計を逆さにして、彼女は立ち去った。
会えないものだとあきらめていたところで、急に姿をあらわすんだもの、結城さんが去った後もオレはしばらくドキドキしていた。
本でも読んで落ち着こう……ダメだ、ちっとも内容が頭に入ってこない。オレはすぐに本を閉じた。
結城さんのささいな言動からいろいろと推察をしたり妄想をしたり、彼女とわずかにコミュニケーションを交わすだけで、童貞のようにピュアになってしまう。
お好み焼きはあいかわらず美味かった。食事を終え、水を飲んで落ち着いたオレは考察をはじめる。
近所のコンビニでもそうだったが、オレは店員が可愛いだけで、その店をヒイキにしてしまうフシがある。これって悲しくないかい?
たとえば週に一度この店に足を運ぶとする、けっこうな時間とお金の浪費じゃないのか? また彼女もそういう常連客を量産するために、青髭かなんかの指示で笑顔をふりまいているのではないか? 戦略的笑顔? 小悪魔?
危ない危ない。店の戦略にはまってしまうところだった。
でも待てよ。キャバクラに1回行くとして、たとえば西日暮里あたりの安い店で四千円とする。そして『でんぐり返し』に1回行くと五百円使う。そう考えると『キャバクラ1回=でんぐり返し8回』ではないか! コスパ最高やん。キャバクラに3回通って女の子を口説き落とすのと、でんぐり返しに24回通って結城さんを口説き落とすのでは、どちらに分があるか一目瞭然ではないか。少し早い時間の激安のキャバクラだと思おう。それにしても、コスパ最高やん。
「私ね、七月から契約社員になったんで名刺ができたんです」
会計の時に結城さんから名刺を渡された。店名のロゴマークのそばに、彼女のフルネームが印刷ではなく、ボールペンで書かれてあった。
「手書きで失礼ですけど、今後もよろしくお願いしますね」
裏返すと店の営業時間と電話番号、そして結城さんの丸文字で『でんぐり返しをよろしくお願いします』と書かれてあった。
ますますキャバクラみたくなってきたな、オレはほくそ笑んだ。もちろん結城さんの携帯電話番号はおろか、メールアドレスも書かれていなかった。
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