第320話 イネちゃんと特使

 保証されたゆっくりとした時間を、戦闘後に過ごすようになってから1週間が既に経とうとしていたある日、戦闘前の準備運動をイネちゃんがしていたときにクーデター軍の陣地から3騎の騎馬が走ってきたのだった。

 当然ながらこちらは即時警戒を開始して、先頭を走る人に受けて引き金を引こうとしたとき。

「ちょっと待ってください、あれはもしかしたら特使なのかもしれません」

 最近イネちゃんが配置されている監視塔から指揮を取っているアーティルさんが望遠鏡を覗き込みながら制止してきた。

「特使って……今更?」

「戦闘が始まって1週間弱ですから……今更というほどではありませんよ」

 つまり帝都をクーデターで襲った分ではないとアーティルさんは言っているようなものである。

 まぁもう半月以上前のお話だし、間が開きすぎていてあちらの内政を安定させていたなんていう言い訳も苦しい感じではあるけれど、なんでアーティルさんはこんな断定した感じなんだろう。

「非武装を示すのぼり旗と、特使であることを示す飾り防具ですので……クーデターの主力となっている貴族の方々はそういった伝統を重んじる方が多いものでして……その装備をして少人数で向かってくるというのは特使である可能性は極めて高いのです」

 うん、イネちゃんが知らない情報てんこ盛り。

 でもまぁこの戦闘の総指揮官はアーティルさんだし、そのアーティルさんが制止したのなら今は特使ということで納得しておこう。

「それで、受け入れるの?」

「そうですね……できればムーンラビット様も同席していただきたいのですが、本日は異世界、大陸に帰られておりますし……」

 間が悪いことにムーンラビットさんは、アーティルさんが言うとおり今日、ピンポイントで帰還しちゃってるんだよね、どうにもヌーリエ教会の運営会議らしいから実務トップが参加しないのは大問題になるし満場一致で見送ったんだよなぁ。

 一応夜間哨戒部隊として夢魔の人も残ってはいるけれど、正直ムーンラビットさんのような立ち回りは期待してはいけないからね。

 ムーンラビットさんのあの立ち回りってヌーリエ教会の実務トップで、実質自分の責任で大抵の判断が下せるからこそなので、下っ端一兵卒が同じ立ち回りをしてしまうと途端に組織全体が崩壊していくこと請け合いだからね、うん。

「だったらアドバイザーとして夢魔の人1人くらい同席してもらえばどうかな」

 とはいえムーンラビットさんのグイグイいく立ち回りができないというだけで、相手の思考を読んでからアーティルさんに耳打ちアドバイスしてはいけないわけでもないし、その程度であるのなら地球の外相会談とかでも専門家を交えた会合ならたまーに見るものだからね、今回もその手段は取れる気はする。

「それでしたら……イネ様もご同席していただけないでしょうか。ムーンラビット様でしたら相手が激昂してしまったり、特使に偽装した暗殺者であったとしても対応していただけるでしょうが、今カルネルに残られている方々ではそのあたりの対応が難しいと思いますので……」

「いやイネちゃんでも間違いなく難しいですからね?」

 要はSPシークレットポリス、もしくはSSシークレットサービスをイネちゃんにやってほしいってことだろうけれど、イネちゃんはそのへがんの動き方とかはまるで訓練していないのでお役に立てる自信がこれっぽっちも存在しない。

 とはいえここで休戦成立すればこちらとしても助かるのは確か。

 イネちゃんはお父さん立ちの訓練に加えて色々巻き込まれまくってたおかげ……というのもおかしな話だけれど、こんな感じの連戦は案外慣れちゃったのもあってまだ戦闘を続ける分には問題ないのだけれど、前線で戦っている人たちに関してはすれ違う短い間だけ表情を伺える状態であっても誰もが疲労の色を隠していないと言って差し支えないレベルで、ご飯を食べるときにロロさんたちとお話できるタイミングがあっても疲れているのが感じられるくらいに戦場全体の士気も落ちているように感じる。

 これに関してはラインが完全に膠着していることを考えればクーデター軍側も似たような状況であることは伺えるけれど、こうも長期戦となればゴブリンという戦力を運用しているクーデター軍側が有利になるのは明白である以上、このタイミングでの特使というのも話したい内容なんてものがイネちゃんには想像つかないんだよね。

「ともかくどこか、特使を受け入れる体制にならなければいけませんが……」

「別に監視塔の下層にある部屋でいいんじゃない?掃除もしてあるし、兵舎にすら使ってないあまり部屋だから、家具を適当に運び込むだけでいいし」

「……そう、ですね。それではそうしましょう。多少は待たせることになるでしょうが、特使を送ってきた以上はあちらも待つ前提でしょうからね、申し訳ないですが待たせましょう」

 アーティルさんが方針を固めたことで皆が一斉に動き出した。

 いやまぁイネちゃんとしても割と強制参加っぽいし、場所の提案者はイネちゃんなわけだし家具運びとかは手伝わないとかなぁ。

「それじゃあ2人はこのまま戦場の監視と、何かあったら報告をお願い。特使であって相手の重鎮とかじゃないから、扉を蹴破るくらいの元気出して知らせにきてもいいからね」

「監視と報告に関しては分かりましたが、蹴破るほうに関しては遠慮しますわ」

 ハッハッハという笑い声が挙げられる程度に狙撃部隊の2人は元気みたいだね。

 とりあえず適当な家具とか見繕って運び込むか……最悪鉄製でイネちゃんが簡易的に作っちゃうかな、足を鉄、天板はガラスでっていうのもおしゃれだし。

 そんなおしゃれな机が必要になるのかという疑問はこの際投げ捨てて、特使を受け入れてお話を聞くための部屋の準備をするためにイネちゃんは監視塔を降りていくと……。

「あれ、今日はどうしたんですか。なんだかあちらから騎馬まで走ってきましたし……」

 その報告のためなのか、ただ単に話を聞きに来ただけなのかはわからないけれどジャクリーンさんに話しかけられた。

「あぁうん、特使らしいから今から受け入れてお話を聞くんだって。ただムーンラビットさんがいないから明確な条約を結ぶかどうかは別だとは思うけど……とりあえず休戦くらいはありえると思うんだよね」

「あぁなる程……それで鎧を脱いだいつもと違った装備の連中だったんですね。あとそれでしたら私もご同席しましょうか?私は貴族の依頼を優先的にやってたので其の辺に関しても明るいですし」

 なんだって!

 SPやSSみたいな経験があるのなら是非頼みたいのだけれど……大丈夫かな。

 一応ジャクリーンさんってキャリーさんたちとなんか色々と関係が深い感じっぽかったし……もし大陸の王侯貴族関係者だったとするならあまり危険なことはやめておいたほうがいいと思うのだけれど。

「あ、なんだか信じてないっぽいですね。大丈夫ですよ、この程度なら全然危険でもなんでもないですし、私は斥候任務ばかりでしたので疲れもそれほどではないので気を使ってもらわなくても大丈夫ですって」

 まぁ……言われてみればそんなやんごとなき人だったら裏稼業傭兵なんてやらないか。

「うん、それじゃあお願いできるかな。イネちゃんはとりあえず部屋に適当な家具を運び込むか作るかしておくから、ジャクリーンさんはアーティルさんの護衛をお願い。まぁ今はまだ夢魔の人を呼びに行ってるだろうから大丈夫だとは思うけどね」

「わかりましたー、それじゃあ私は先に部屋の前の廊下で待機してますね」

 ちょっと搬送手伝ってほしいとは言えなくなってしまった。

 座る椅子とかに関してはイネちゃんが作るものは間違いなう硬くなるから、どこかから座り心地の良さそうなソファーとかを見繕わないといけないんだけどなぁ、いやまぁ座布団とかでもいいんだけれど、こう、偉い人が会談したりする場所だとふっかふかのすごくお高そうな1人がけのソファーがあるイメージ。

 ともあれ今はウキウキしてるジャクリーンさんと分かれてイネちゃんは物流倉庫に向かう。

 カルネルの規模が大きくなったことに合わせて教会の周辺だけじゃなく、街の外周にもいくつか物流倉庫になる区画を作っておいて正解だった……こんな使い方は割と不本意ではあるけれど、なんだかんだで特使としてもてなす必要があるだろうし、仕方ない。

 このあとイネちゃんはムータリアス産の高級ソファーを自腹で問屋さんから購入することになるのはまた別のお話……いやまぁ本当最近お金を使う場面がなくてどんどん貯まっていく一方だからいいんだけどさ。

 ……ムーンラビットさんに後日経費として請求しておこ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る