scene73*「涙」
見るなり血相変えてバタバタと私の傍へ来た君。
その確かな様子は、愛の証拠だと思っていいでしょうか。
【73:涙 】
帰宅して二人分の簡単な夕ご飯を作り、彼が帰ってくるまでにまだ少しだけ時間があったものだから先にお風呂に入った。
髪も体もさっぱり綺麗にし充分温まる。
出た頃には温かさで体がふにゃふにゃになりそうなくらいにリラックスして、お腹がぐー、と鳴った。
スウェットに着替えてリビングに行きテレビをつけると、ちょうど健康バラエティ番組が始まったばかりだった。
最近、こういう番組が多いなと感じる。
ためしにリモコンで番組表一覧を出してみると同じ時間帯のところに並ぶのは、健康バラエティと、生活の役立つ知識を紹介するやつと、学力系のクイズ番組。あとは世界の驚き映像100連発とかばかり。
みんな似たようなやつばっかりだけど、きっとこの時間帯にテレビを見ている層はそういうものが大好きそうな人たちばかりなんだろう。
現に生活の役立つ知識や健康系、頭の体操みたいなクイズは高齢者が好きそうだし、驚き映像なんて次々勝手に繰り出される映像のたびに「わ~!」とか「すごーい!」とか、何にも考えずに会話のネタにもなるから、見る人にとっても都合の良い時間の過ごし方ができるのかもしれない。
考えたら私がうんと子供の頃のこの時間帯はアニメがやっていた気がする。
だけど、食卓の時間と被るのでご飯を食べながら戦いの話を見たり、名作劇場でもれなく主人公に襲い掛かってくる悲しい出来事は、ご飯が美味しいのかそうじゃないのかよく分かんなかった。
あんまり大したものやってないなと思い、録画したままになっていた番組を見ようとHDの方の電源を入れた。
時計を見るともう彼が帰ってくる時間だ。
だけど何の連絡もないし、もしかしたら急な残業なのかもしれないなと思う。
いつもならこの時間に帰ってくる彼を待って一緒に夕食をとるのだけれど、今日はもうお腹も鳴りっぱなしだし先に食べようと思った。
つくったものはお揚げと豆腐のお味噌汁に、サラダと、豚小間が安くなってたからそれで生姜焼きにした。それと冷蔵庫に常に常備してある真っ黄色のたくあん。
今日の帰りにキムチを買ってきたから、たくあんを細切りにしてキムチ和えにしたのを彼のおつまみに出してあげよう。今から作ってラップしても、キッチンと冷蔵庫にキムチの匂いが残るからギリギリまで手をつけない。
お椀にお味噌汁をよそってからご飯のお釜を開ける。
生姜焼きなのに白いご飯じゃないの!?って彼から苦情がきそうだけど、今日はアサリご飯。
だってご飯作ってるの私だし。作る人の自由だ。
無性にアサリが食べたくなった。ただそれだけだ。
だけど酒蒸しやボンゴレパスタに混ぜたい気分じゃなくて、ご飯として食べたくなった。
白いご飯に、クリーム色にぷりっと混ざっているアサリ。一緒に入れた刻みニンジンは綺麗な橙色だ。
ご飯によそって鮮やかな緑の三つ葉を散らす。
こんな美味しいのを前にして、やっぱり彼が帰ってくるまでなんて待てないなと思った。
食卓へ並べていざ食べようとした時……。
「痛っ!!!??」
瞼に、刺すような強烈な痛みが一瞬走った。
そして小さなチリが目尻の下あたりにゴロゴロ漂うような、転がるような不快な感覚。
一体何のゴミかは分からないけれど、きっと何かが入った事は確かだ。
目のゴミの困るところは何の予告もなしに正体不明の痛みに襲われる事だ。
外でなら土埃とか何かが飛んでくるなんてのが分かるけれど、室内で考えられるのは空気中に漂う繊維のチリとか、自分のまつ毛が抜けたり刺さったりして入るとか、朝の洗顔でも拭きとり損ねた目の際のごく小さな目脂のかけらだとかに違いない。
もしかしたらこの感覚は一番最後の目脂のかけらな気がした。
朝は急いでて今日は適当に顔を拭いた気がする。
とにかくこの痛みを一刻でも早く解決しないと、心おきなく春の味覚を楽しめない!
私はバタバタと洗面所へ行き、蛇口を捻ると目をよく洗った。
せっかくお風呂上がりで温まって化粧水を塗ったのに、出したのは水だから顔に残る温もりは消えて行くし、せっかくつけた化粧水もまったく意味がない。
無駄な事をしてしまったと思いながらも洗い終わり、顔を拭いた。
白い蛍光灯の真下、鏡でよく確認する。あかんべをするようにして確認すると、ゴロゴロ感はなくなったものの白目はうっすら赤らんでいるし、瞼の内側の赤目部分は充血したように赤くなってしまっている。
やれやれという気持ちでリビングに戻った。
まだどこか目がヒリヒリしているような気がして不安になったので、前に目が傷ついて眼科にかかった時にもらってきた目薬があったことを思い出し、薬箱をリビングにあるキャビネットの棚から出した。
木でできた救急ボックスを開けると、救急薬品みたいな独特な匂いがした。湿布だとかそういうやつだ。
お目当てのものはすぐにあって、小さなジップロックに小指くらいの長さのポーションボトルは入っていた。
眼科で貰う点眼薬の形って市販のものとは全然違う。
でもこういうのって使いきらないとだめだし、そもそも薬品に期限ってあるんだよねと思いながら、まぁ悪化するような変な成分は入っていないだろうと勝手に判断して目に点した。
きっと医療従事者がこれを傍で見ていたなら「そういう危険な使用の仕方やめてください」と私は怒られるんだろうなと思いながら。
ただアサリご飯を食べたかっただけなのに、生姜焼きの美味しい匂いだってすぐ傍まであるのに。
顔は冷えるは、ご飯前に薬品の匂いを嗅いでしまうわ、目薬を差したおかげでうっすらと点眼液の味が喉奥におりてくるわたまったもんじゃない。
点した目薬は瞼のプールは狭すぎるのか、目尻からポロリと頬へと流れた。
とにかくご飯は美味しく食べたいので口だけでもゆすいでこよう。
冷静にご飯の事が頭から離れてない自分におかしく笑いそうになりながら、洗面所へ向かおうとしたところで玄関から「ただいま~!!電車が止まって遅くなっちゃった!」と彼が帰ってきた声がした。
そしてパタパタとスリッパ音を鳴らしてリビングへ入ってくると……。
私の顔を見て驚いた顔をして立ち止まった。
口をポカンと開け、眉根は何事かと言う感じに寄っている。
そして彼の視線が救急ボックスにチラリと向くと、更に絶句していた。
彼こそ一体どうしたんだろうと思っていると、彼がすごい勢いでバタバタと私の目の前に来て両肩を掴んだ。
「何かあったのか!!??」
「へ??」
「だってっ……泣いてたろお前!!??」
「……え」
「ほら、泣いてるじゃん!目だって真っ赤だし!」
迫真の表情に私の方が固まってしまう。
彼は完全なる勘違いをしているようだ。違うってば、と答えようとした矢先、彼がとんでもない事を言った。
「やっぱり、もしかして気付いた!?」
何を!?と言いそうになったけれど、それを言ってしまえば、彼が何に気付かれたくなかったのかを知ることができない。
瞬時に察した私は、口をぎゅっとむすんでしばし瞳を見つめる事にした。
すると彼は今まで掴んでいた両肩を離して、一歩だけ後ずさった。
そして、「……そうだよな……。気付かないわけ、ないよな」と、私が出しっぱなしにしている救急ボックスへと手を伸ばし、ため息がちにその中身を見た。
むしろそれに私の方が、一体そこに何があったわけ!?全然何も気付かなかったんですけど!?と突っ込みたい気満々だ。
彼が次に何を言うのか逆に気になって私は黙っていると、彼は救急ボックスにあるテーピング薬と湿布薬をどかした。
そしてその下から……何と白いリボンのかかったペールグリーンの小箱を取り出した。
つまり、朝食というワードがつく映画タイトルで有名なあのブランドだ。
私はさっきまでの目の痛みを忘れ呆気に取られていると、彼がそれを持って私へと向き直った。
「ここなら全然バレないって思ってたけど、そういう場合に限って何かの力が働くもんなのかな。まさかお前がこれ開けちゃうとは思わなかった」
どうやら彼は私が頭痛薬とかを飲む理由で救急ボックスを開けたと思っているらしかった。
まさか効果の分からない目薬をダラダラと使い続ける為に救急ボックスを開けたなんて言えない。
それにしても、彼の手の内にある小さな箱。
女の子が、絶対に憧れているものが入っていそうだった。
「ベタですけど、どうぞ受け取ってくれませんか」
ぱこん、と蓋を開ける。
そこには大きくきらめくダイヤモンドリングが光っていた。
急展開に私は口をあんぐり開けて……でも、ゆっくりと首を縦に振った。
そんなの、答えなんて決まっているじゃないの。
ちょっと救急薬品くさいのはさておき、彼と付き合ってからずっと夢見た憧れの物をこんな形で貰えるとは思わなかった。
こんな素敵な事が待ってたなら、夕ご飯は生姜焼きにアサリご飯にお味噌汁だなんて絶対しなかったのに。
奮発してオシャレなお店に出向いたのに。
っていうか考えたら、あの時は私の涙に心配して必死だったんじゃなく、ただ単に自分のサプライズがバレてしまっただけの慌てぶりだったんじゃない。絶対にそうでしょ!
後日、素敵なレストランで種明かしにそう話したら、彼は相当面白かったのかお腹を抱えて笑い転げた。
私も自分で言っておきながらもうおかしくって、彼につられて涙が出るほど笑ってしまったなんて、自分たちはやっぱりお似合な二人かもしれない。
笑いが止まらない私たちをサーヴするソムリエが不思議な顔をしていたなんて気付かずに。
( 君といるとまさかの展開に笑い泣きばっかりです )
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