第3話 姿を消した祈乙女

 初めに異変に気づいたのは、水遥可だった。

「輝更義、お願いがあるのです」

 水遥可が心配そうに、夫に話しかける。

「祈宮守護司に、佳月さまの様子を尋ねてみてはくれませんか? 明後日にはここを出るのに、文に返事がこないのです」

「え、あんなに頻繁にやりとりなさっていたのに?」

「ええ。それで、その……何かあったのではと、『見て』しまったのですけれど」

 人の秘密をのぞくことを良しとしない水遥可は、後ろめたそうに千里眼の力を使ったことを告白する。

「佳月さまは薄暗い部屋の中にいらっしゃって、よく見えなかったのですけれど、なんだかあまりに静かすぎて。気落ちして動く気にならない、というような風なのです。……狐ヶ杜を出ることを、直前までお知らせしなかったので、お怒りなのでしょうか」

「俺が怒られるならわかりますけど。水遥可さまに何をしてくれてるんだ、と。ヤエタの手繭良殿も、お怒りだろうな……」

「そんなことありません。文では、手繭良さまにも詳しい事情はお話ししていませんが、元・祈乙女の立場は複雑だから……と、何か察していらっしゃるようなお返事が届きました。それにわたくし、佳月さまにも手繭良さまにも、輝更義がどんなに素晴らしい方で、わたくしにとって大事なのか、きちんとしたためましたもの」

「えっなんですかそれ恋文みたいなんですけど俺宛にしてほしかった」

 心の内がダダ漏れの輝更義に、いつものように矢立がスコンと突っ込む。

 思わず笑った水遥可は、

「とにかく、祈宮守護司に確認してもらうのが一番です。佳月さまは繊細なお方、もしかしたら私に起こることを我がことのように考えて、気鬱になっておいでなのかもしれません。もう覗いたりせずに、報告を待っていますね」

 と言ってから、矢立にもじっと目を向けた。

「あなたとも、お別れですね。お世話になりました」

 矢立は静かに、ふわふわと宙に浮いている。かの付喪神が、話しかけても何の文字も書かないのは、珍しいことだった。

「……あまり落ち込むな」

 水遥可のいないところで、輝更義は自分のことは棚に上げてこっそりと矢立に言ったが、矢立はただ彼の懐に戻っただけだった。


 水遥可が、狐ヶ杜を去る日がやってきた。

 小雪野の生家から迎えの輿と侍女、従者たちがやってきており、その行列の前で利舜儀と輝更義は水遥可を見送ることになった。

「水遥可殿、どうか息災で……」

 利舜儀がその先を続けようとしたところで、ひと騒ぎ。

「水遥可さまあああ」

 朝から姿の見えなかったるうなが、邸の門を飛び出してきた。なんと、旅姿だ。

 彼女は輿の横に立っていた水遥可の前で、深々と頭を下げる。

「わ、わたしも、わたしもお連れください! やっぱり!」

「まあ、るうな」

 顔を明るくする水遥可。るうなはそのままくるりと反転して、利舜儀に許しを乞う。

「利舜儀さまっ、どうかどうかお許しを!」

 彼は大笑いした。

「許すも何も、そうと決めたならお前の道だ。息災でな」

「ありがとうございます! わあん、レイリ殿っ! これからも一緒に水遥可さまにお仕えするからね!」

 またもやくるんと反転し、るうなは今度は水遥可の後ろにいたレイリに抱きつく。レイリはぎょっとしたように一歩引いたが、「う、うん」ともごもご言いながら、るうなにぎゅうぎゅうと締め上げられるままになっていた。

「……俺もあんな風に、水遥可にしがみついてわんわん泣いて引き留めたいです」

 輝更義が頭をかく。

 水遥可が眉を曇らせて、輝更義を見上げた。何か察したのか、利舜儀はその場を離れて下がる。

 直後。

 輝更義の腕が伸びて、水遥可を強く抱きしめた。

「もう、俺の妻ではなくなるのに、こんな、申し訳ありません」

 途切れ途切れの言葉に、水遥可は強く目を閉じた。彼の胸に顔を埋める。 

 輝更義は、声に笑いを滲ませる。

「本当なら、手の届くお方ではなかったのに、とてもとても大事な一年をいただきました」

「……わたくしも、とても大切な一年でした」

 顔を上げ、微笑む水遥可の声も、かすれる。

「輝更義には、たくさんの『初めて』を、教えてもらいました。こうして、殿方に抱きしめられるのも、初めて。父上だって、こんなこと、なかったのですもの」

「うわ、こ、光栄です。水遥可さまにそんなことを言っていただけるなんて、男として。……元夫を名乗れるだけでも、嬉しいことです。なんだか、罰当たりですけど」

「…………」

「あ、祈宮から連絡があって、佳月さまは何ともないそうです。お返事の文がきたら、お知らせしますから」

「……はい」

「ヤエタ石、本当にお持ちにならなくていいんですか」

「はい。狐ヶ杜でお役立てください」

「それから……」

 ――しばらく、黙りこくった後。

 輝更義はゆっくりと、水遥可を手放した。口を引き結び、それから一言だけ、言う。

「会いに行きます」

「……はい。心から、お待ちしています」

 すでに涙をこぼしていた水遥可は、それでもまた、微笑んだ。

 

 瑞青の大通りを、輿を担いだ一行が遠ざかっていく。

 輝更義と、玄氏の狐たちは、それを黙って見送った。

「いいのだな?」

 声がして振り向くと、利舜儀だ。

 輝更義は、笑う。

「元々、こういう予定でした。予定通りで、大成功です」

「ふうん」

 つまらなそうに利舜儀は唸り、先に立ち去る。

輝更義は、胸に手を当てた。

そこに、空虚があるような気がした。

「……絵姿、また、出してこよう。以前のように。元に戻るだけだ」

彼はつぶやき、踵を返した。



 ところが、そのわずか二日後のことだった。

 狐ヶ杜に、祈宮守護司の伝令が飛び込んできた。刃凪茂の命でやってきたのだ。

「佳月様が、いらっしゃらない?」

 鋭く声を上げる輝更義に、狐姿のままの伝令が報告する。

『どうやら、一じゅん(十日)前の花占いの直後から、お姿が見えないようです。その次の占いが昨日だったんですが、水鏡壇にお姿を現さず……』

「何があった。女官たちは何をしている!」

『女官の話では、ひとつ前の占いの翌日、神域を散策なさっている時に、数人の男が佳月さまを連れ去ったとか。女官たちは、佳月さまの命を盾に、数日黙っているように言われたと』

「その間、兄や守護司たちは気づかなかったのか?」

『刃凪茂さまは皇宮に用事があって、ここ数日祈宮を離れておりました。他の守護司たちは気づかなかったようです。女官が騒がなかったので、無理もありませんが……。元々、佳月さまはほとんど祈宮から降りて来られないそうで』

 水遥可――霽月は時折、祈宮で働く者たちに会ったり狐の子たちに会うのを好み、宮から降りて守護司の寮のあたりを散策することがあった。佳月はほとんどそういうことはしないのだろう。

 どちらにせよ、占いに姿を現さなければ、水鏡壇を見張る守護司たちに何かあったとわかる。皇宮にも伝わる。男たちが女官を脅して口封じしたのは、それまでの間の時間稼ぎ、ということだろう。

「何かわかっていることは」

『男たちは最近、祈宮で働くようになった人間たちです。人間でも祈乙女のお役にたちたい、と言って志願してきたそうで、しかしいきなりお側に上がることは許されませんので、下働きをしていたとか』

「わかった。俺も祈宮に向かう。数人連れて行くから少し待て。父上にも知らせろ」

 輝更義は狐ヶ杜の部下たちにこのことを伝えると、そのまま研師たちの仕事場に向かった。

「輝更義? どうしたのだ」

 道具の手入れをしていた火鈴奈を呼び出す。輝更義は密かに、佳月が行方知れずになったことを告げた。

「祈乙女がおらず占いが行われないなど、前代未聞だぞ」

 衝撃を受けた様子の火鈴奈に、輝更義はうなずいた。

「何が起こっているのか、調べてくる。……それで、火鈴奈、頼みがある。水遥可さまに、このことを伝えてくれないか」

 火鈴奈は目を見開いた。

「水遥可殿に?」

「佳月さまから文の返事がないことを、心配しておられたんだ。文は前回の占いの前に届いているはずなんだが……。それに、水遥可さまは先代の祈乙女。もしかしたら何か、ご助言くださるかもしれない」

 火鈴奈には詳しいことは話せなかったが、この状況では水遥可に千里眼で佳月を探してもらったほうがいい。輝更義はそう考えていた。

「……元妻なのに、すっかり言葉遣いが変わってるね」

 火鈴奈はどこか呆れたような表情をしたが、うなずいた。

「とにかく、引き受けた。でも、どうして伝令ではなく私に?」

「本当は! 俺が行きたいんだけど! 行けないからせめて水遥可さまが喜びそうなおま」

「わかったわかった」

「……矢立を連れて行ってくれ。矢立、何かあれば俺に知らせてくれ」

 輝更義が言うと、矢立は彼の懐からするりと抜け、火鈴奈の周りをくるりと回ってから、火鈴奈の懐に収まった。

 火鈴奈は師匠に断りを入れると狐に姿を変え、狐ヶ杜を飛び出して行く。

 輝更義も部下たちとともに、狐に姿を変えた。

(佳月さま……ご無事で)

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