第9話 もう少しだけ
「俺たちが持参した六辺花茶を、
輝更義がうなずいた。
「口にするものの中にあったなんて」
候補者の一人が、目を丸くしながら水遥可に尋ねる。
「でも姫、どうして六辺花茶だとお気づきになったのですか?」
「そうだわ。香りの強いものなら、他にもございます。別の花茶もございますし、味噌の壷の中でもよさそうだし、城の花壇でもいいし」
もう一人の候補者も、不思議そうに首を傾げた。
水遥可はいたずらっぽく笑う。
「頭領様は、御自ら石を隠したとおっしゃいました。石を香りの強いものの中に隠そうとすれば、頭領さまの身体に、香りがついてしまいますでしょう?」
しーん、と、台所がいったん、静まりかえり――
「あっ。酒!」
全員が声を上げて冴数貴を見た。
冴数貴が爆発するように笑い出す。
「見事だ、水遥可殿! そう、わしは今朝、この台所に直接、石を隠しにきた。迎え酒じゃあ、花茶を寄越せぇ、と六辺花茶の瓶に手を突っ込みながら、石を隠したのだ。そして身体についたその香りを隠すため、ずっと花茶割りの酒を飲んでおった」
「お酒にせずとも、お茶でよろしかったでしょうに」
水遥可が笑い含みにたしなめると、かかか、と冴数貴は笑う。
「顔に出そうだったからな! 酒で酔ってしまえと思ったまでだ!」
「……顔に出る?」
眉根を寄せてつぶやくレイリに、水遥可がそっとささやく。
「わたくしたちにはわかりませんが、狐族同士は狐の姿でも、表情を見分けるのでしょう」
「さて、先ほど、輝更義の意見を容れることを約したな。……火鈴奈」
冴数貴が、火鈴奈に声をかける。
彼女が冴数貴の前に出て正座すると、水遥可は進み出て、冴数貴に石を渡した。
冴数貴は、両手で石を差し出す。
「
「かしこまりました」
火鈴奈は深く頭を下げてから、ヤエタ石を受け取った。
そして、石をじっと見つめて頬を染め、冴数貴の横を見る。
そこには、輝更義と水遥可が並んで立っていた。輝更義はやれやれと水遥可に視線をやり、水遥可は火鈴奈を見て、袖の陰でこっそりと右手の親指を立てた。
「水遥可殿」
翌日、火鈴奈は水遥可と二人、縁側で話す機会を持った。
「差し出がましいことを言うようですが……水遥可殿も、何か、迷っておいでなのでしょうか」
「そう、ですね……」
口ごもり、庭の花を眺めていた水遥可は、やがて続ける。
「いずれ第二の妃を迎えることは理解しつつ、嫁入りしてすぐは、しばらくは輝更義さまと二人の時間を過ごすのだと思っていました。でも、このところ、いっそ早く妃が決まった方がいいのかも、と思うようになって」
「なぜです?」
「なぜでしょうね」
微笑む水遥可。
今回の件で、水遥可がか弱いだけではないこと、自分たちとは異なる武器を持っていることを、火鈴奈は理解している。しかし、今この瞬間の水遥可は、まるで子どものように頼りなげに見えた。
「……私は再び、玄氏に参ります。一年間はおります。何か助けになるようなことがあれば、いつでもおっしゃってください」
火鈴奈は、あえて感情を乗せずに、淡々と申し出た。
水遥可は微笑む。
「ふふ、せっかく、ナイロの恩をお返ししたばかりですのに」
「ヤエタ石の恩は、それよりもずっと大きいのです。どうか」
生真面目に言い募る火鈴奈に、水遥可はうなずいた。
それから二日かけて、冴数貴は輝更義の狐牙刀を最後まで研ぎ上げた。
その瞬間には、狐族の全員が立ち会った。
神棚には酒や穀物などが用意されており、その中央に、研ぎ上がった刀が刀掛けに置かれる。城にいる素氏、玄氏の全員がその前に並び、素氏の神官が祝詞を上げる。
今年の神事は、こうして無事に終わった。
出発の日の朝。
ようやく輝更義の元に、彼の半身、狐牙刀が戻ってきた。腰に佩く動作で、しゅるん、と刀は彼と一体になった。
「……ヤエタ石の霊力を感じる。力が満ちてくるのを感じます。頭領、ありがとうございました」
輝更義は礼を言った。冴数貴はうなずく。
「来年の神事も、輝更義が来るがいい。水遥可殿と共にな」
「はい」
短く答えたものの、輝更義は心の中でつぶやく。
(そのころまで、水遥可さまが俺の妻でいてくださればば……だが)
彼が振り向くと、水遥可は狐族の娘たちと庭で話をしている。
「水遥可さま、ぜひまた、笛をご一緒させてくださいましね!」
候補者の一人が、胸元にさした自分の笛に触れながら、なつっこい様子で水遥可に話しかけた。水遥可は笑みを返す。
「ええ、ぜひ。楽しみにしています。修行、頑張ってくださいね」
「はいっ。ああ、狐ヶ杜に行けなくて残念。島を出て仕事がしたいのにな」
外の世界に出たい様子の娘は、やはり妃の座はどうでもいいらしい。ため息をつき、しかし笑顔に戻った。
「頭領にお願いして、モンザイに働きに行こうかしら。今、モンザイの町で研師が何人か必要だと聞いたので」
「そうなのですか。モンザイは祈宮からすぐですから、祈宮にもぜひお参りしてくださいね。美しいところです」
「はいっ」
もう一人の娘が、輝更義の視線に気づく。
「あ、そろそろ出発では? どうぞ、道中お気をつけて!」
「ええ、ありがとう。みなさん、元気でお過ごしになってね」
戻ってきた水遥可と共に、輝更義はシラビ城の門に出る。玄氏の一行はすでに支度を済ませて、若頭領夫婦を待っていた。
火鈴奈も、すっきりとした表情で一行に加わっている。
「出立!」
号令と共に、一行は森の間の坂を降り、島の市を通り抜けて海を渡る道へと向かった。輝更義が水遥可と共に歩いているので、渡りきるまでは皆、人間の姿だ。
「み、水遥可。ごほん」
輝更義は、軽く咳払いをしてから、隣の水遥可に話しかけた。
「はい」
「結局、その、候補は決まりませんでした。俺はこれで良かったと思いますが……水遥可はどうですか」
「…………そうですね」
言葉を選ぶ様子を見せながら、彼女は微笑む。
「跡継ぎ問題で一番大変な思いをしている輝更義さまが、これで良かったと思ってらっしゃるなら、わたくしもこれで良かったと思います。それに、火鈴奈殿にとって良い結果になったのも嬉しいこと」
「ええと、あの。げほんごほん」
輝更義はもう一度、咳払いをした。
「
「ふふ。今回、もし火鈴奈殿のことがなくて、わたくしがどうしても候補を早く決めてしまいたかったら、そうなるように動いておりました」
水遥可はしゃらりと扇を広げ、口元を隠してささやいた。
「
「……あ」
輝更義は口を開けた。
彼は忘れていた。水遥可には千里眼があるのだから、さっさとヤエタ石の隠し場所を見つけて候補の誰かに教えてしまえば、その娘が選出されただろう、ということを。
「……早く決まった方がいいと思っていたのは、決まらないと輝更義さまが大変なのではと考えたまでのこと」
水遥可は軽く首を振る。
「そうでないなら、わたくしの方は今に不満などありません。毎日、本当に、幸せに過ごさせていただいているのですもの。これ以上を望んだら、狐神さまの罰が当たってしまいます」
「そ、そうですか」
「はい」
うなずいた水遥可は、扇を胸元に挟むと、顔を上げた。
彼女の視線は、目の前に延びる青い海の中の道を、松林の緑と共に湾曲する海岸線を、そして遠くに見えるガラカイの町までたどっていく。
「美しい景色。こうしている今も、幸せな気持ちです。……連れてきてくださって、ありがとう」
水遥可がそう言って笑うので、輝更義もどこか釈然としないながらも、笑顔を返した。
道を渡りきると、輝更義は黒い狐の姿になって身を屈めた。
『さあ、どうぞ』
「はい、お願いいたします」
水遥可はレイリの手を借り、輝更義の背に乗った。横座りになり、首に手を回す。
(こんなに、幸せだと)
彼女は大きな耳を見上げてから、彼の首にそっと頬を寄せる。
(また一人に戻るのが、怖くなってしまう。だから、早く決まってしまった方がと、そう思っていたけれど……もう少しだけ)
水遥可は腕に、力を込めた。
(もう少しだけ)
『いいですか? では、狐ヶ杜に帰りましょう!』
回した腕に、輝更義の声が響く。水遥可は答えた。
「はい。皆で帰りましょう」
一行を見守る秋晴れの空が、遥か水平線まで続いていた。
【第三章 刀研ぎと第二の妃 終】
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