第4話 海の上の白尾(シラビ)城
海の中の道は、石畳が敷かれている上にそれなりの幅があり、歩きやすい。しかし、現れているのは一時的でいずれ水没するのだと思うと、慣れない者は背中がぞくぞくするような、みぞおちのあたりに何か詰まっているような、落ち着かない気分にさせられる。
渡りきったところは、小さな市になっていた。ガラカイの民が店を出し、素氏相手に商いをしているのだ。城まで物資を届ける商人もおり、本土との行き来は盛んなようである。
長い石段を登り、島の中央にある白尾城までたどり着いた。
小さな島なので、城は高く作られている。皇宮や狐ヶ杜の本家は横に広いので、それに慣れた者たちの目には新鮮に映った。
素氏の城は、隣国の
頭領への挨拶のため、輝更義たち一行が通された部屋も、畳に襖、床の間といった作りだった。
「高天の畳、新しいですね。いい香り」
靴を脱いで謁見の間に入り、正座をした水遥可が、そっと畳を撫でる。
隣に座った輝更義がそれに同意しようとしたとき、急に背後に気配が沸いた。
「これはこれは。
二人がパッと振り返ると――
そこにいたのは、年老いた一頭の白狐。しかし、狐なのは頭だけで身体は着物をまとった人間だ。
素氏の頭領、
彼は鼻面を軽く上に向け、においをかぐ仕草をしながら、水遥可とその後ろに控えたレイリをじろりと見た。
「やはり、我らとは違う匂いが混じっているのう」
無遠慮な言葉の連続に、輝更義は何か一言言おうかと思ったが、いったん心に納めて挨拶をした。
「お久しぶりです、素の頭領。父の名代として伺いました」
水遥可も、さらりと長い袖を払って冴数貴の方へ向きを変えた。微笑んで、両手を胸の前で重ねる。
「初めてお目にかかります。玄輝更義の妻、水遥可と申します。おっしゃるとおり、元・祈乙女でございます」
「ふん。さすがは、
顔を近づけてじろじろと見ている冴数貴に、水遥可は微笑んだ。
「わたくしのこれまでの人生、祈乙女であったことくらいしか申し上げるべきことがございません。すぐに自己紹介が済んで、楽なものです」
すると、冴数貴は弾けるように笑い出した。
「ぶっはっはっは、開き直っておるのか謙虚なのかわからん娘だ。輝更義、面白い妻を迎えたな」
「妻は最高の中の最高です」
輝更義がきりりと言うと、「お前の方が開き直っておるな」と冴数貴はまた笑う。そして、そのままそこにあぐらをかいて座り込みながら笑いを納めた。
「玄氏に、日の神の子孫とはいえ人の子が嫁入りするのは神話の時代以来のこと。居心地の悪いこともあるだろうが、我らが拠点を見ていくがいい」
「ありがとうございます。楽しみにしておりましたので、ぜひそうさせていただきます」
水遥可はまた微笑み、頭を下げた。
冴数貴は彼女に向かってひとつうなずくと、彼女の後ろに視線を投げた。
「火鈴奈、役目、ご苦労」
「ただいま戻りましてございます。この二年、貴重な経験をさせて頂きまして」
水遥可から少し下がったところに控えていた火鈴奈が、静かに頭を下げた。
「久しぶりのふるさとだ。お前の後任の選抜にはつきあってもらうが、それまでゆっくり休め」
冴数貴は彼女をねぎらってから、輝更義に向き直る。
「ところで輝更義、聞いたぞ。水遥可殿を嫁御にしたことで、貴重なものを手に入れたそうだな」
「さすがは
輝更義は、脇に置いていた白木の箱を冴数貴の前に置き、静かに押しやる。
冴数貴が箱のふたを取ると、ごくうっすらと、
「美しい」
ヤエタの研石である。それは青磁色に艶めいていた。
「これほどの大きさ、なかなかない。この城にも一つあるが、これほどではないぞ」 冴数貴の言葉に、輝更義はうなずく。
「はい。父のお抱えの研師が持っている研石や、祈宮にある研石よりも、かなり大きいかと。……それで、頭領には神事にこの石を使っていただきたく、持参しました。研ぎ初めを兼ねて」
神事では、玄氏の代表の者の狐牙刀を、素氏の代表が正装して何日もかけて研ぐことになっている。今年は冴数貴が、輝更義の刀を研ぐのだ。
「ずいぶんと気の利いた手土産だ」
冴数貴の目が輝いている。
「引き受けよう。この石でお主の刀を研ぐことは、結婚祝いにも相応しい」
「光栄です、ぜひ」
いつの間にか、輝更義の腰には刀が出現していた。
彼はそれを鞘ごと抜き、冴数貴の前に置く。
「先ほどもおっしゃっていましたが、火鈴奈の後任の選抜があるのですね。神事が終わったら、選抜で選ばれた者にこの石の所有者になってもらい、狐ヶ杜で俺の狐牙刀を担当してほしいと思っています」
「わかった。……もうひとつ、何かあるな? ヤエタ石よりも強く匂うぞ」
冴数貴が鼻をうごめかす。
水遥可は、もう一つの箱を指先で押して滑らせた。
「素の頭領さまには、花茶がお好きとお聞きしました。六辺香茶でございます、お納めくださいませ」
「よい香りだ。丹誠込めて作られているのがわかる」
「つぼみが開く時の、六辺香の花がもっとも香りを放つ瞬間を逃さず、茶葉に香りを移して作られたものです。わたくしの母の生家のあたりでは、特産になっております」
「なるほど、小雪野妃の。……白く細い花弁の六辺香の木が、一斉に花をつけ咲き誇るところは、
左手に刀、右手にヤエタ石の入った箱と花茶の入った箱を抱えた冴数貴は、機嫌良く立ち上がる。
「さて、今夜は宴じゃ! それまでゆるりとな!」
大股に、しかしほとんど音もなく、冴数貴は出て行った。狐族は足音がほとんどしない。
輝更義は水遥可に向き直った。
「頭領、喜んでましたね、水遥可」
「はい、ようございました」
「水遥可の選んだ花茶が絶妙だったからです。さすがです」
拳を握って誉める輝更義に、水遥可は軽く斜に構えて微笑む。
「……わたくし、花には少々、うるさいのです」
その、どこかいたずらっぽい表情は、輝更義にとっては初めて見るものだった。彼は目を見開きながら、心の中でつぶやく。
(水遥可さま……祈宮にいたころより、どんどん表情が豊かになっている? なんて……なんて尊い……!)
「……どうかなさいましたか?」
「あっ、はい、ちょっと意識だけ逝ってました。さあ、我々の部屋に行きましょう!」
「はい。……あの、刀を手元から離しても大丈夫なのですか?」
水遥可は輝更義の手に自分の手を委ねて立ち上がりながら聞く。輝更義は笑った。
「手元にないと、狐の姿にはなれないんですが、牙ではない刀も持ってきています。研ぎ上がるまで七日から十日ほどだと思いますが、何かあったとき水遥可をお守りすることはできますし、天然の要害のこの島にいるのは玄氏と素氏がほとんどですし、大丈夫です」
「そういうことなら、わたくしは輝更義さまのお側にいれば、何の心配もしなくてよいのですね」
澄んだ笑みを浮かべる水遥可に、輝更義はうっとりした。
(ああもう、百回好きです。この笑顔、守りたい)
ふと気がつくと、火鈴奈はすでに姿を消していた。
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