第5話 素氏の宴
回廊をぐんぐんと進んだ冴数貴は、ふと足を止めて振り返った。
途中まで後をついてきていた火鈴奈が、回廊から庭に降りようとしている。庭の向こうには、別棟の訓練用道場があった。
「島に戻るなり、刀の稽古か。感心なことだ」
冴数貴が声をかけると、草履を履いた火鈴奈はいったん片膝をついて、廊下にいる冴数貴を見上げた。
「はい。稽古を休むと、私、刀と語り合えなくなります」
「そうか。……火鈴奈はこの石をじっくり見たか?」
屈み込んだ冴数貴は、蓋を取った箱を突き出した。箱の中で、ヤエタ石が光る。
吸い寄せられるように、火鈴奈はそれを見つめた。
「いいえ。輝更義殿が石を持っていることを、知りませんで」
「先代の祈乙女が、ヤエタの領主になっておるからな。結婚祝いに贈られたそうだ」
「ああ、それで。……香りを感じられるほど近くで見たのは、初めてです。何と、美しい」
「先ほども輝更義と話したが、次の、狐ヶ杜駐在の
火鈴奈は目を泳がせた。
「いえ……私はもう、
「しかし、石は欲しいだろう? ヤエタ石は、ひとつ世に出るとしばらく新しい石は姿を現さないという、ヤエタの地の秘伝の石。領主にのみ、その秘密は伝えられるという。次はいつになることか」
冴数貴はニヤニヤと笑い、続ける。
「今、素氏の娘にとって、輝更義の第二妃の座とヤエタ石、どちらもその手に転がり込んでくる絶好の機会」
「…………」
「何だ。意外ではなさそうだな。
すぐに、火鈴奈は首を横に振る。
「いいえ。ただ、水遥可殿が若頭領の第一妃では、跡継ぎを生むための第二妃が必ず必要になります。今この時期に、素氏から年頃の女が玄氏に行けば、向こうは妃候補とみなすかもしれないな、と」
「その通りだ」
「私は」
火鈴奈は顔を上げた。
「輝更義殿の妻になるつもりは、全く、ありません」
「そうなのか? ……まあ、考えておけ」
冴数貴は箱にふたをすると、身を翻し、立ち去っていった。
火鈴奈は、自分の右手のひらを見つめた。その頬は上気している。
「……ヤエタ石の所有者……」
もう一度道場に向かいかけた彼女は、ふと行き先を変え、裏門から外に出た。
松林を抜け、断崖の上に立つ。夕暮れの海風が、熱くなった頬を心地よく冷やしていく。
気づくと、城の敷地の隅、物見
輝更義は海を指さして、水遥可に何か話しかけている。すでに本土への道は海に沈んでいた。水遥可はうなずき、輝更義に笑顔を向ける。
「……あの、守られてばかりで役に立たなさそうなひとが、第一妃」
火鈴奈はつぶやく。
「ヤエタ石を手にした私が嫁入りした方が、よほど役に立つだろう。……でも、私は、輝更義殿の妻にはなりたくない。他の誰と結婚するにしても、
海風に吹かれ、彼女はしばらくの間、そこで逡巡していた。
海に溶け込むようにして、夕陽が沈んでいく。
白尾城のあちこちには篝火が焚かれ、縁側を開け放った大広間では宴が始まった。
輝更義が水遥可を娶ったことを冴数貴が告げ、狐族の仲間が増えたことを
「素氏の狐たち、とても美しい毛並みですね。白にも色々、あるのですね……真っ白や、灰色がかっているのや。どれも本当に素敵」
畳の上に座り、膳の汁椀を手にした水遥可が、賑やかな広間を見渡して言う。輝更義は笑った。
「それ、素氏の者に言ったら喜びますよ。毛並みを褒められるのは嬉しいものですから、狐族にとって」
「そうなのですね。……輝更義の毛並みも、とても素敵ですよ。まるで、漆黒の闇に月明かりが射すような艶があって、美しいです」
水遥可に褒められた輝更義は、その場で変身して見せ――たくなったが、狐牙刀を冴数貴に預けているので変身できない。とりあえず照れる。
「ああああ……ごちそうさまです」
「えっ、もう召し上がらないのですか?」
「いえ、耳が幸せで満たされたという意味ですうう」
やがて、輝更義と水遥可に話しかけにくる者あり、素氏と玄氏の知己同士で酒を酌み交わすものありと、広間の中はますます賑やかになってきた。
そこへ、声が響く。
「水遥可殿」
冴数貴だ。
自分の膳の前に座ったまま、酒の杯を片手に軽く身を乗り出している。
彼は、花で香りをつけた茶をこよなく愛しており、昼間は花茶を二度、煎じて飲む。さらにその花を酒で割り、三度目を楽しみながら夜を迎えるのが気に入りだ。
「はい、素の頭領さま」
水遥可が答えると、冴数貴は少々ろれつの回らない口調で言った。
「素氏の中には、祈宮に行ったことがない者もおる。せっかく水遥可殿がいるのだ、ここで
おお、とあちこちから声が上がる。
(冴数貴殿、かなり酔っているな)
輝更義は素早く、水遥可に視線を投げた。
(神楽舞は、祈乙女だけが披露できるもの。今の水遥可さまは舞うことが許されないと知っているだろうに、試すようなことを)
しかし、水遥可は彼に穏やかに微笑みかけてから、膳を脇によけて立ち上がった。少し前に出ると、冴数貴と向き合うように座る。
「神楽舞を舞うには掟がございまして、今、舞うことができるのは祈乙女の佳月さまだけなのです。ですが、せっかくお引き立てくださいましたからには、わたくしから一曲披露させていただきたいと存じます」
そして、すっ、と立ち上がりながら、懐に差していたものを抜いた。
篠笛だ。
唄口を唇に当てた水遥可の立ち姿に、輝更義は見とれた。
あの伴侶選びの儀、輝更義と水遥可で落花流水の情を奏でたときの、緩やかな心の交流。彼の胸によみがえったそれが、心を温かくする。
しかし、水遥可は息を短く吸うと――
ピーイッ、という強い音で皆の目を引きつけた。そのまま、拍子の早い調べを紡ぎ出す。
(お囃子?)
輝更義が目を丸くしていると、チャンチャンと何か固いものを叩く音がし始めた。
素氏の数人が笛の音につられて、箸で皿を叩いているのだ。水遥可は彼らと視線を合わせ、すぐに調べと調べは絡み合い始めた。
「こりゃいい」
「おい、太鼓太鼓!」
声がして、すぐに太鼓が持ち込まれ鳴り始める。別の笛の音も飛び込んできた。
一気に、広間はお祭り騒ぎになった。
水遥可は楽しそうに目を細めながら笛を吹いているが、額にはわずかに汗が浮いている。元々、彼女は物静かな性格で、こういった曲を自ら演奏することはないはずだった。
そんな彼女と視線が合ったので、輝更義はそっと目配せをし、立ち上がった。縁側に出る。
やがて、水遥可も笛を手に出てきた。広間の方はもう勝手に盛り上がっている。
「水遥可さま、
輝更義が親指を立てながら言うと、水遥可は同じ仕草をしながら笑う。
「少し、練習したのです。素氏は賑やかなのがお好きだと、輝更義さまがおっしゃっていたので。きっと何か……祈乙女としての何かを所望されるだろう、代わりになるものが必要だろうと思いました」
「ああもう、そういうとこですよ!」
「何がです?」
「俺の妻になったから、頑張ってくださっているんでしょう?」
輝更義は思わず、水遥可の片手をとって握りしめる。
「俺は
「よかった」
水遥可の頬は上気し、声も明るい。
「嬉しいです。わたくしも、輝更義さまが夫だから安心して、新しい世界に飛び込めます。こんな日々が……」
不意に、彼女は口をつぐんだ。
「……何です?」
輝更義は問いかけた。
水遥可は視線を落とし、黙って首を横に振る。そして、ためらうように顔を上げた。
刹那の時間――見つめ合う。
後ろから「水遥可さま!」と声がかかり、素氏の娘が笛を手に広間から顔を出した。
輝更義が手を離すと、水遥可は彼に微笑みかけてから広間に戻り、再び演奏に参加し始めた。
陽永帝と謁見したときも、先ほど冴数貴に舞を所望されたときもそうだったが、水遥可は相手の気持ちを損ねずに話を運ぶのがうまい。素氏にもこうして、するりと溶け込んでしまった。
「俺の妻、最高」
輝更義は陶然とつぶやいた。
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