第3話 素氏の本家へ
素氏の本家へ出発する日がやってきた。
本家は、瑞青から西に進んで海に出たところにある、小さな島だ。輝更義たちは旅の行程を含め、ひと月ほど狐ヶ杜を留守にすることになる。
「私の名代をしっかり務めるように」
狐ヶ杜の本邸、正門まで見送りに出ていた
「ひと月の間、兄弟の誰も本家にいないのが申し訳なく。陽永帝にも、父上にも」
「なに、有事の際にはお前が一日、二日で戻ってこれる道のりだ。祈宮にいる
「え」
輝更義が言葉に詰まっている間に、利舜儀は一行の後ろの方に声をかける。
「火鈴奈」
「はっ」
旅姿の火鈴奈が、素早く前に出てきて頭を下げた。
「そなたの腕は素氏一族の宝、今後も磨いてますます輝くことを期待している。いずれまた火鈴奈を寄越せと、素の頭領への文に記しておいた。すぐでもいいぞ」
「も、もったいないお言葉です。こちらこそ、貴重な機会をいただきました。ありがとうございました!」
火鈴奈はもう一度、深々と頭を下げる。
利舜儀はうなずき、そして輝更義に向き直った。
「行くがいい」
「はい。……出立!」
輝更義は声をかけると、一瞬で大きな黒狐の姿になった。今回、水遥可とレイリ以外は狐族であるため、馬や輿は使わない。
レイリが手を貸し、水遥可を輝更義の背に乗せる。
「水遥可姫を振り落としでもしてみろ、姫に愛想を尽かされるぞ」
ははは、と笑う利舜儀に、水遥可は「まあ」と袖で口元を隠して微笑んだ。輝更義の方はげほごほとむせる。実際に二人はいずれ別れる予定なので、つい反応してしまった未熟な輝更義である。
レイリは、るうなの背に乗ることになっていた。列の後ろにいるるうなの方に下がる途中で、ふと足を止める。
「あの、お具合でも?」
火鈴奈が、まだ出発してもいないのに額の汗を拭いていたのだ。今は秋の始め、涼しい日である。
「いや……」
火鈴奈は顔を伏せた。
「恥ずかしながら、どうにも、
「無理もないことです」
レイリは薄く笑み、さらに後方のるうなに歩み寄った。
「茶屋では堂々としたものだったが、あんな一面もあるのだな」
つぶやくレイリに、るうなが首を傾げる。
「え、なあに、何か言った?」
「いや。……では、乗せてもらう」
「はい、お任せあれ!」
るうなはあっという間に、大きな茶色の狐の姿になった。火鈴奈も、灰色がかった白い狐に変化する。
風に乗るようにして、狐たちは駆けだした。
一行はその日のうちに、果雫国の西、港町ガラカイに到着した。
隣の
翌朝早く、一行はガラカイを出発した。砂浜に沿って町からやや離れれば、目的地はすぐそこだ。
「輝更義さま、昨日のお疲れはとれましたか」
朝日に照らされた松林の始まるあたりで、水遥可は輝更義の背から降りながら尋ねる。
輝更義は水遥可の方へ頭を回しながら答えた。
『俺はちっとも疲れませんでした。祈宮と都を往復するのに比べたら、散歩みたいなものです。水遥可さまは大丈夫ですか?』
「はい、わたくしは大丈夫です。輝更義さまの背にいると、なんだか飛んでいるような心地で」
微笑んだ水遥可は、海の方を向く。
海の中に、島が見えていた。
島はこんもりとした森になっており、中央から瓦屋根が突き出ている。
そこが素氏の本家で、
そして、砂浜から島まで、海を割るようにして、石畳の道があった。
『一日に二度、引き潮のときだけ現れる道です。満ち潮の時には水の中になってしまうので、今のうちに渡りましょう』
輝更義が、鼻面で道を示す。水遥可はうなずいた。
「はい。面白いですね。満ち潮の時、どうしても渡りたかったらどうするのですか?」
輝更義は即答する。
『船ですね!』
「…………」
水遥可はふと、彼に尋ねた。
「狐神の一族は、泳ぐのは得意なのですか?」
『えっ、ええと、いえ、あの』
あたふたしていた輝更義は、耳を垂れた。
『得意な者が多いですが、俺は少々苦手で……』
「まあ」
水遥可は袖で口元を隠し、ささやく。
「輝更義にも弱点があるのですね。これは、隠しておかなくては」
『そうしていただけますか?』
勝手に鼻が「キュウーン」と鳴ってしまう輝更義に、水遥可はきりりと表情を引き締める。
「当たり前です。輝更義には、敵がいないわけではないのですから」
名前こそ出さなかったが、水遥可が言っているのはもちろん、輝更義の兄・刃凪茂のことだ。彼は現在、祈宮で祈乙女である佳月を守護している。
「わたくしは仮にも妻です、夫の秘密は守ります」
水遥可の言葉が嬉しくて、輝更義の心の中はピーヒャラとお祭りである。
(水遥可さまは「妻」……俺は「夫」……夫を守る妻……)
『くー、圧倒的最高』
「はい?」
『あ、いえっ。そう、刃凪茂といえば』
輝更義は、出発の際に利舜儀と話したことを思い出した。
『どうも、祈宮行きは、刃凪茂の方から志願したようです』
「そうなのですか?」
水遥可は首を傾げる。
「では、刃凪茂さまの方も、輝更義とは争いたくないとお思いになっている、と? だから輝更義と距離をお取りになった……」
『うーん』
輝更義には、とてもそうは思えなかった。あれだけ昔から執着してきた次期頭領の座である、そう簡単に諦めるとは考えにくい。
『前回は、相打ちのような感じでしたから。祈宮の神域は、鍛錬にも良い場所ですから、自らを鍛えて、いつかまた向かってくるつもりなのかも』
「……そうですか」
『心配なさらないでください』
輝更義の声は、自然と低くなった。
『玄氏の次期頭領として、俺にも矜持があります。たとえ身内でも……いえ、身内だからこそ、あの相打ちは正直、腸が煮えくり返っている。訓練にも身が入るというものです。今はさらにもうひとつ、守るべきものがあるのですから』
「守るべき、もの」
つぶやく水遥可の揺れる視線と、輝更義のまっすぐな視線が、ぶつかる。
すぐに、輝更義は表情を和らげた。
『さあ! どうぞ背に乗ってください!』
我に返った水遥可も、にっこりと笑みを浮かべる。
「はい。あ、あの、歩いてもよろしいですか? 海の中の道を歩くなんて、初めてですから」
『では、一緒に歩いて参りましょう!』
輝更義もすぐに人の姿になる。
二人が仲良く歩き出す後ろを、配下たちは微笑ましく見守りながらついていった。
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