第2話 白狐の研師(とぎし)

「最近は、佳月かげつさまからの文はいかがですか」

 輝更義が尋ねると、小さな茶器を手にした水遥可はうなずいた。

「昨日も文を頂きました。女官は厳しいけれど、皇宮よりずっと楽な気持ちでいらっしゃるそうです。佳月さまは、皇宮の歌会や茶会など、多くの人と話すような行事が苦手でいらしたので」

 佳月とは、水遥可の次に祈乙女になった皇女である。本来の名を絵鳥羽えとりは、今上帝陽永の娘で水遥可の従姉妹にあたる彼女が、現在は祈宮の水鏡壇で占いを行っていた。

 皇籍を降りた水遥可よりも身分が上になるため、水遥可は彼女を敬う話し方をしている。

「もう何通目ですかね、文。本当に、水遥可さまを慕っていらっしゃるんですね」

「恐れ多い事です。……でも、嬉しい。健やかにお過ごしになれるよう、わたくしからの文がお力になれれば」

 佳月を妹のように思っている水遥可は、視線を手すりの外に向けた。

 鱗雲の浮かぶ空は、祈宮の神域にもつながっている。先代の祈乙女と今代の祈乙女は、同じ空を見上げて心を通わせているのかもしれなかった。


 甘味と茶を楽しんで疲れを癒し、そろそろ……と一行が立ち上がりかけた時だった。


 突然、輝更義たちの席の衝立がガタンと音を立てた。誰かが衝立に捕まったのだ。

 ふらり、と、大柄な男が無遠慮に中を覗き込んできた。

「こりゃ、綺麗どころが揃ってんなぁ!」

 酔客だ。水遥可や侍女たちをじろじろと見つめ、輝更義にニヤニヤと話しかける。

「兄さん、独り占めはよくないぜぇ。俺も混ぜてくれよぉ」

「……」

 侍女たちは眉を潜め、水遥可がちらりと輝更義を見る。


 輝更義が口を開きかけた時――

 男の肩をつかむ手があった。

「ああ?」

 男が振り向くと、凛とした、低いが柔らかな声が答える。

「こちらの席は、立ち入り禁止だよ」


 ぐいっ、と男を押し退けながら現れたのは、背の高い女性だった。白に近い灰色の髪を後ろで一本に結んで垂らし、女性ながら馬乗り袴という男性の身なりである。


 男は顔を突き出すようにして、じろじろとその女性を見た。

「おっ、じゃああんたが代わりに相手してくれんのか? いくらだ?」

「値段? ……そうだね」

 女性は、左手に持っていた細長い包みに右手で触れた。


 次の瞬間、銀色の光が走る。

 刃が、男の喉元にぴたりと当たっていた。


「命で支払ってもらおう。研ぎたての刀だ、一瞬で終わる」

「い……いや……」

 酔客は、刀に美しく現れている刃紋を見つめ、寄り目になりながら、じわじわと後ずさった。

 水遥可は眉を寄せ、もう一度輝更義を見る。輝更義は軽くうなずき、改めて、男に向かって口を開いた。 

「妻と水入らずだ、遠慮してくれ」

「ごっ、ご夫婦だったか、こりゃ失礼!」

 男はあたふたと身を翻し、つんのめりそうになりながら、螺旋階段を転げるようにして階下へと降りていった。最後の数段を踏み外したのか、ものすごい音がした。


 女性は、左手の包みに刀を戻す。包みの中は、刀の鞘のようだ。

 水遥可が声をかけた。

「お助けくださって、本当にありがとうございます」

「いいえ、大したことでは」

 女性は包みを無造作に下げたまま水遥可に微笑みかけ、そして輝更義に目をやった。

「この店は最近、遊女と客が待ち合わせに使っているんだ。久しぶりに戻ってきたなら、奥方を連れてくる前に調べておくんだな」

「済まない、火鈴奈かりんな。助かった」

 輝更義は腰の刀から手を離して立ち上がると、水遥可に向き直った。

「水遥可さ……水遥可。この者は、狐族の素氏そしの者です」


「初めてお目にかかる」

 火鈴奈は切れ長の目で水遥可を見つめ、軽く頭を下げた。

「狐ヶ杜で、研師とぎしとして働いているしろの火鈴奈と申します。どうぞ、よしなに」


「水遥可と申します。本当に、助かりました」

 水遥可も立ち上がり、微笑んだ。

「研師でいらっしゃるんですね。その刀も、お仕事で?」

「はい。研ぎ終わったので、客のところへ届けるところでしたが、危うく客より先に試し斬りをするところでした」

「とても美しい、澄んだ光を湛えた刀でした。わたくし、刀のことには疎いのですが、お客のところへ出向いて研ぐわけではないのですね」

「そうです」

 火鈴奈は刀を包み直し、紐を巻きながら答える。

「いくつもの研ぎ石を使いますし、他にも多くの道具を使って何日もかけて研ぎますので、預かります」

「そうなのですね。何も知らなくて、お恥ずかしいことです」

「いえ」

 火鈴奈は、口元をゆがめるような笑みを浮かべた。

「玄氏や素氏のような家の生まれでなければ、女子おなごには縁のないことですから」


 レイリがちらりと火鈴奈に視線を投げたが、何も言うことなく目を伏せた。そんな彼女の様子に、るうなが軽く首を傾げる。


 水遥可は興味深そうに、火鈴奈の灰色の目を見つめた。

「もし、できることなら一度、研いでいるところを見せてはいただけませんか」

「構いませんが」

 淡々と、火鈴奈は続けた。

「私はもう、玄氏で二年働いております。次の神事の際に、素氏の他の者と交代になるかもしれませんので、お約束はできません。……それでは、私はそろそろ」

「本当に、ありがとう。きっとお礼をします」

 水遥可が胸の上で手を重ねると、火鈴奈は首を横に振った。

「輝更義殿とは長い付き合いですので、どうかお気になさらず。それでは」  

 彼女は軽く頭を下げると、すっと踵を返して階段を下りていった。


 輝更義はサッと水遥可の前にまわり、片膝をつく。

「申し訳ありません」

「どうして輝更義が謝るのです? あなたさまと一緒でしたから、わたくしは怖くありませんでした」

 戸惑う水遥可に、輝更義は首を振る。

「いいえ。ご不快な思いをさせたことに変わりありません。俺が事前に調べていれば」

「そんなこと……。もう、忘れました」

 水遥可はいつもの柔らかな笑みを浮かべ、輝更義に座るよう促した。

「それより、素氏のことを教えてください。玄氏とは、どういった関係なのですか?」


「皇族にとっての祈宮のような存在といいますか……狐族の神事を預かる一族なのです」

 輝更義は、腰の刀に手をやる。

狐牙こが刀は――この刀は、玄氏の血に流れる狐神の力を具現化したものになります。この力を持つことを感謝する行事が、毎年素氏の本家で行われますし、この力を磨くこと――刀の手入れも、主に素氏が担います」

「あ、それで、火鈴奈どのは研師の職を……?」

「はい、素氏に生まれた者の中から見込みのある者が選ばれ、幼い頃から修行します。狐ヶ杜や祈宮で働いている者もいます。一般人の刀を研ぐことも仕事として請け負っているので、さっき火鈴奈が持っていた刀はそれでしょう」

「輝更義は、火鈴奈殿と親しいのですか?」

「そうですね。火鈴奈は玄氏に、経験を積むために来ているので、本来なら師匠の手伝いをしたり、一般人の刀を研いだりといった仕事が中心です」

 輝更義は説明する。

「しかし、師匠が彼女の才能を認めているので、たまに狐牙刀も手がけるんです。俺が祈宮で働いていた頃、皇宮への報告で何度かこちらに戻っているんですが、その時には火鈴奈に刀を研いでもらっていました。それに、幼い頃は彼女も祈宮に住んでいたことがあります。そんな知り合いです」

「幼なじみに近いような……?」

 水遥可は、二、三度うなずいた。

「よくわかりました。……わたくしも、そういったことを知っておかなくては。確か、素氏の本家での神事は来月でしたね」

 そして彼女は、少し心配そうに首を傾げる。

「わたくしも、連れて行っていただけるのですよね、輝更義……?」

「あっキタこれ可愛いおねだり」

「はい?」

「ももももちろんです! 一緒に参りましょう! 賑やかなのが好きな一族なので、大きな宴になりますよ。しろの頭領もきっと、水遥可さまと話したがると思います」

「楽しみです」

 頬を上気させる水遥可に、輝更義はうっとりしたのだった。

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