第三章 刀研ぎと第二の妃

第1話 ナイロ街の喧騒

 水路に、どっしりした木の橋が大きな弧を描いてかかっている。

 その橋の上、大きな黒狐が身を屈め、背中に乗せていた女人を下ろした。彼女がおっかなびっくり降り立つと、狐は人間に姿を変える。

 輝更義きさらぎと、水遥可みはるかである。


「はぁー、水遥可さまを背中に感じるの、尊かった……」

「え、あの。ごめんなさい、重かったでしょう」

「いえ全然! その、感触が! 幸せ感が!」

「?」

 首を傾げる水遥可に、輝更義は片手を出した。

「ええと、ナイロ街に到着です!」


 橋のたもとから、大きな通りが始まっている。

 両脇にずらりと並ぶ店は二階建てのものが多く、鮮やかな看板や飾り灯籠、露台に並べた野菜や小物など、色とりどりのものが溢れていた。

 輝更義は水遥可を促して、橋を降りていった。

 首都・瑞青ズイセイの最も西の端に位置するナイロ街は、中心部に比べると庶民的な店が並び、玄氏の者たちもよく繰り出す場所だ。


「お、音が……音と色で、埋め尽くされていますね」

 降りきったところで一度立ち止まった水遥可は、やや緊張気味に、肩を縮めるようにしながら通りを眺めている。

 水遥可にとって、人混みに入るのは初めての経験だ。目の前で、多くの命がひとところに集まり、動き回り、力を発しているのを、彼女は全身で感じていた。

「慣れないと、目が回ってしまうかもしれません。ゆっくり行きましょう」

 輝更義が言うと、後ろに付き従っていた二つの笠の陰からも心配の声が聞こえてくる。

「水遥可さま、ご無理はなさらず」

「お気分が悪くおなりの時は、すぐにおっしゃってくださいね!」

 レイリとるうなだ。レイリはるうなの背に乗って、ここまできた。

 水遥可はうなずく。

「わかりました、ありがとう。なんだか、この人波の中に入ったら、わたくしなど溶けて消えてしまいそうで。そうでなくとも、どこかへ流されていってしまいそう」

「俺がいますから大丈夫です! さあ、捕まっていてください!」

 しゅぱっ、と黒い尾を出した輝更義に、スコーン、と強烈な矢立やたての一撃と、「そこは手を繋ぎましょうよ」というるうなの同時ツッコミが炸裂する。

「で、では、お手を」

 輝更義はぎくしゃくと手を差しだし、水遥可は「はい」と微笑んで手を委ねる。そしてもう一度、足を踏み出し、人混みへと入っていった。


 水遥可の顔は、民にはあまり知られていない。幼い頃の彼女は、皇宮から出ることなく目立たないように暮らしていたし、祈乙女いのりおとめになってからはもちろん祈宮いのりのみやから出ることなく、神事の際に参拝客がその顔をかいま見る程度だった。

 一方、輝更義も長いこと祈宮で暮らしていたが、仕事でたまにこちらに戻ることはあったので、それなりに顔は知られている。そしてそんな彼が美しい女人と歩いていれば、彼女が誰であるのかは民にも一目瞭然であった。伴侶選びの儀については、知れ渡っている。


「若頭領に奥方さま、おめでとうございます!」

「わあ、霽月せいげつさまだ!」

「いやいや、水遥可さまだよ」

「今日はお買い物ですか、さ、見てってください!」

 次々と声がかかる。

 輝更義は軽く手を挙げて応えながら、水遥可に話しかけた。

「やはり、目立ってしまいますね。大丈夫ですか?」

「人の目は、大丈夫なのです。見られることには、慣れているので」

 十三年に渡り、人前で祈りを捧げてきた乙女はそう言ったが、戸惑いをにじませた声で続ける。

「それよりもやはり、人の渦の中にいることと、物が多いことに驚いてしまって。……わたくし、自分で買い物をしてみたくて、買う物をいくつか決めてきたのですけれど、こんなに……目移りしてしまいますね」

 そして振り向くと、声をかけた。

「るうな、そろそろ助けてください」

「お任せくださいませー!」

 ナイロをよく知っているるうなは、胸をポンと一つ叩いて前に出た。水遥可を先導し、女性に人気の店――小物の店や、化粧道具の店――に案内する。輝更義はあたりに目を配りながら、後ろをついていく。

 小さなレイリは、それこそ人並みに埋もれてしまいそうだったが、それでも興味深そうに笠の下からあちこち眺めていた。

 水遥可が振り向き、軽く屈んで声をかける。

「レイリ、見えますか? あなたも気になるものがあったらおっしゃいな」

 はっとしたようにレイリは頭を下げた。

「はい。ありがとうございます」

 輝更義はその様子を眺めながら、ふと数日前のことを思い出した。


 阿幕佐の一件の翌日のことだ。

 廊下でるうなと行き合った際に、るうなが興奮したようにレイリのことを話した。

「輝更義さま、レイリ殿は幼いのにとても肝が据わっておりますね! 水遥可さまが連れ去られたとき、どうすれば良いかスパッと判断して私に命じて。それが本当に堂に入っていて、私、ハイッってすぐに従っちゃいました!」

 同じ奥方付きの侍女であり、るうなの方が年上であるのに、るうなはレイリに従うことに全くわだかまりがないらしい。

「だって、まるでレイリ殿の方が年上みたいな、侍女頭ででもあるかのような……そんな頼りがいのある感じがしたんですもの!」

「そうか。祈宮でもそんな感じだった。祈乙女のこととなると厳しくて」

 輝更義がため息をつくと、るうなは笑ったものだったが……


(不思議な娘だ。水遥可さまが祈宮の女官見習いに取り立てたわけだが、この娘は、と何か思わせるものがあったんだろうな)

 そう思いながら見守ると、レイリは淡々と水遥可に告げている。

「奥方さま、私はあまり、身を飾るものに興味はございません」

「そう? あ、レイリ、ごらんなさい。美味しそうですね」

 水遥可が屋台を指さした。


 大きな蒸籠せいろの蓋が開けられたところで、もうもうと上がる湯気の中に、饅頭がきれいに並んでいる。店主が紙の上に取っては、銭と引き替えに客に渡していた。

 薄茶の皮に中の餡が透け、それを見ているだけで、口に入れたときの柔らかさと餡のほっくりした甘さが伝わってくる。


 レイリはそちらを見て釘付けになった。

 水遥可が微笑む。

「では、あれにしましょうね」

「あっ……は、はい」

 レイリはバツが悪そうな顔をしながらも、素直にうなずいた。


 いくつか買い物をしたところで、輝更義は休憩を提案した。

『橙茶楼』という看板を掲げた、一軒の茶屋に入る。六角形の形、黒い柱に白の壁。真ん中に螺旋階段のある作りだ。

「いらっしゃいませ! これは、くろの若頭領に奥方さま」

 恰幅のいい主人が、にこにこと出てきた。輝更義は彼と話をして、二階に案内してもらう。


 二階は回廊のようになっており、手すり沿いに衝立で仕切られた席が作られ、半個室のようになっていた。

「外がよく見えますね。素敵です」

 卓に着くと、水遥可は吊り灯籠の下から外を眺めた。レイリとるうなは、女主人に見えやすいように品書きを机に広げる。

「水遥可さま、何になさいますか? この店は、お茶の種類が豊富のようです」

 レイリが言えば、るうながうきうきと指さす。

「甘いものもありますよ! レイリ殿、まだ食べるでしょ?」

「わ、私は別に」

「輝更義さま、ここってお酒も置いてるんですね! 夜も賑やかなのでしょうね!」

 騒がしい侍女二人――主にるうなが騒がしい――の様子に、水遥可は楽しげに目を細めた。そして、輝更義に話しかける。

「輝更義さま、わたくし、卵菓子をいただきたいです」

「ええ、お好きなものを! 十個でも二十個でも!」

「ふふ、そんなに食べたら太ってしまいます。……あ、それと」

 軽く顎を上げ、何かに気づいたようにあたりを見回した水遥可は、視線をレイリに戻した。

「レイリ、六辺香ろくへんこう茶はあるかしら」

「お待ちを。……あ、ございます」

 品書きからレイリがそれを見つけだす。水遥可はうなずいた。

「香りがしたような気がして。では、それに」

 るうなが高い声で「すみませーん!」と店の者を呼び、あれこれと注文した。


「輝更義」

 扇の陰で、水遥可が微笑む。

「わたくし、楽しいです。まだ食べても飲んでもいないのに、なんだか身体が温かくて。少し、浮かれているみたい」

「どうぞご存分に、楽しまれてください! 俺もなんだか、姫君を連れ出す従者のような気分で楽しいです、って、そのままですね!」

「もう、おかしなことを」

 水遥可は困ったように笑ったが、そんな表情さえも輝更義にとってはご褒美である。

(ふおおお、水遥可さまの困り顔、最高の最高の最高の最高の)

 彼は嬉しくなってしまい、自分も何か食べることにした。

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